歴史学者エラーラと禁じられた発掘 - 9
光が消え、遺跡の広場に夜風の音だけが戻ってきた。
エラーラは、立ち尽くすレノーアの横を通り過ぎ、引き裂かれたテントへと足を踏み入れた。
ランプの油が尽きかけており、炎が弱々しく瞬いている。
マーティンは、血の海の中で仰向けに倒れていた。
エラーラは彼の傍らに膝をつき、見開かれたままの目をそっと閉じた。
彼の右手は、自身の鞄に向かって伸ばされたまま硬直していた。
エラーラはその鞄を引き寄せる。
留め具を外し、中身を確認した。
彼が昨日から書き留めていた手記と、壁画の拓本。
血の汚れは届いていなかった。
エラーラはそれらを自分の背嚢にしまい込み、テントの外に出た。
レノーアはまだ、同じ場所に立っていた。
足元の石畳には、長剣が落ちたままだ。
「……レノーアさん。埋葬を手伝ってください」
エラーラが声をかける。
レノーアの肩が、微かに動いた。
彼女はゆっくりとしゃがみ込み、石畳から長剣を拾い上げた。
刃についた土を払い、鞘に納める。
「遺体を、王都へ持ち帰ることはできません」
エラーラは淡々と言った。
「教会の暗部が動いた以上、彼が持っていた『真実』を外へ出すために、マーティンさんにはここで眠ってもらうしかありません」
「……ああ。分かった」
レノーアの声は、ひどく掠れていた。
二人は無言で作業を進めた。
遺跡の奥にある崩れた石室を墓所とし、瓦礫を退けてマーティンの遺体を横たえた。その上に、重い石板を重ねていく。
墓標はない。教会の人間が見つければ、暴かれる可能性があったからだ。
すべての石を積み終えた時、東の空がわずかに白み始めていた。
朝靄の中で、エラーラは背嚢の紐を締め直す。
「私は、王都へ戻ります」
エラーラは、東の空を見据えたまま言った。
「教会の暗殺者が徘徊する中、私一人で辿り着けるとは思っていません。ですが、この国にはまだ、権力に与しない人間がいるはずです。彼が命と引き換えに残したものを、無駄にはしない」
恐怖はあった。
教会の闇は深く、底知れない。
だが、出発の朝、東門でヨハンがかけてくれた言葉が、彼女の背中を支えていた。
(真実は、後に続く者のためにある)
「……」
「あなたは、どうしますか」
エラーラが振り返る。
レノーアは、積み上げられた石の墓を見下ろしていた。
「……行く」
短い答えだった。
「あの魔力は、あの子のものだった。だが、三百年前、あの子は死んだ。……レイヴンの腕の中で、確かに」
「教会の聖女が、その人物だと言うのですか」
「分からない。だから、確かめる」
レノーアは顔を上げた。
その瞳は、暗い森の先を真っ直ぐに見据えていた。
「この世界の裏側で、何が起きているのかを。……王都の近くまでは、私が護衛しよう。学者殿一人では、道中で教会の手先に殺される」
「……ありがとうございます」
二人は言葉を切った。
もはや、語るべきことはなかった。
足跡だけを残し、二人は夜明けの森を出立した。
◇◇◇
王都、東門。
雲一つない、青空だった。
ヨハンは定位置である門の脇に立ち、通り過ぎる人々の波を静かに見つめていた。
遠くから、馬の蹄の音と車輪の軋む音が近づいてくる。
現れたのは、王国騎士団の紋章を掲げた一台の幌馬車だった。
だが、ヨハンは微かに目を細めた。
御者台に座る若い騎士は、手綱を握る手がひどく強張っている。馬の扱いにまるで慣れていない素人の手つきだった。
さらに、車輪の軸や幌の隅には、古い蜘蛛の巣が張ったままだ。長らく倉庫に放置されていた荷馬車を、清掃する間も惜しんで急遽引っ張り出してきた何よりの証拠だった。
(偽装か)
ヨハンは心の中で呟いた。
誰かが騎士団の装備を騙り、検問を素通りしようとしている。平時であれば即座に衛兵を呼ぶべき事態だ。
だが、御者の若者の顔には悪人特有の狡猾さはない。あるのは、尋常ではない焦燥と、悲壮なまでの決意だけだった。
「通行証の確認を」
ヨハンが声をかける。
若者が弾かれたように肩を揺らし、懐から木札を差し出した。
ヨハンはそれを受け取り、一瞥する。
「……荷台の中を改めさせてもらう」
ヨハンは淡々と告げ、幌馬車の後方へ回った。
若者が息を呑む気配がした。
ヨハンは幌をめくった。
中には、木箱や麻袋が乱雑に積まれている。
そして、その暗がりの隙間に、小さな影が息を潜めていた。
泥と血にまみれた背嚢。
丸眼鏡の奥の瞳が、緊張に強張ってヨハンを見上げていた。
歴史学者のエラーラだった。
王都の周囲にまで教会の追手が迫り、匿名の協力者たちと共に偽装馬車でここまで逃げ延びてきたのだろう。
彼女の背嚢はボロボロに引き裂かれている。
だが、その瞳からは、出発の朝にあった迷いや恐怖は完全に消え去っていた。
あるのは、一つの「真実」を背負い切るという、強烈な覚悟だけだ。
ヨハンは表情を変えなかった。
ただ、暗がりに潜む彼女と真っ直ぐに視線を合わせ、微かに顎を引いた。
(おかえり)
声には出さない。目配せだけの、短い挨拶。
エラーラは小さく息を呑み、そして、安堵と感謝の滲む顔で深く頷き返した。
ヨハンは幌を下ろし、前方の若者に向き直った。
「確認した。異常はない。通っていいぞ」
若者は信じられないものを見るような顔をした後、深く一礼し、震える手で手綱を振るった。
幌馬車が軋む音を立てて、門をくぐり抜けていく。
ヨハンは軽く手を挙げ、その後ろ姿を見送った。
その瞬間だった。
《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが62に上がりました》
《新たな能力『見送った歴史学者が記すインクが、ほんの少しだけ色褪せにくくなる』を【獲得】しました》
《旅人の偉大な成長を観測。獲得した能力が【強化】され、能力名が『見送った者が残す真実が、決して歴史から消え去らなくなる』へと変化しました》
澄んだ鈴の音のようなシステム音が、ヨハンの脳裏に響く。
ヨハンは、小さく瞬きをした。
目の前を通り過ぎた彼女が、過酷な旅の果てに、人として大きな成長を遂げたという何よりの証だった。
ヨハンは少しだけ目を細め、どこまでも続く青空を見上げた。
彼女が何を発掘し、どのような「真実」に辿り着いたのか。一介の門番であるヨハンには、知る由もない。
だが、彼女が残す真実が、これから決して消え去らなくなるのだとすれば、それだけで十分だった。
ヨハンは壁に立てかけてあった槍を手に取ると、隣に立つ若い衛兵に向き直った。
「悪いが、少し休ませてもらう。後は頼む」
「え? ヨハンさんが休憩ですか?」
若い衛兵が、目を丸くする。彼が知る限り、ヨハンが持ち場を離れることなど一度もなかったからだ。
ヨハンは短く頷き、王都の中へと歩き出した。
あの娘が背負い込んだ「真実」は、教会の暗部を敵に回すほど重く、危険なものだ。
王都に入れただけでは、彼女の命の保証はない。強固な盾と、法外の牙が必要になる。
ヨハンの足取りに迷いはなかった。
行き先には心当たりがある。先日、王の勅許を得て十年ぶりに『団長』の肩書きを取り戻した、あの不器用な男のもとだ。
(……少しだけ、忙しくなりそうだな)
ヨハンは、王都の空を見上げる。
門番としての彼の仕事は、旅人を見送ることだ。
だが、見送った旅人同士の道が交わるよう、ほんの少しだけ背中を押してやることも、悪くはない。
ヨハンは、遊撃騎士団『白銀のグリフォン』の駐屯地へと向かって、静かに歩みを進めた。




