歴史学者エラーラと禁じられた発掘 - 8
「……血の匂いだ」
レノーアが短く告げた。
エラーラは立ち上がり、テントの入り口をくぐった。
外は静まり返っている。風の音すらない。
だが、隣に張られたマーティンのテントから、鉄錆のようなひどく生臭い匂いが漂ってきていた。
エラーラは息を詰め、テントの布をめくった。
背後には、音もなくレノーアが続いている。
ランプの薄明かりが照らす、狭い空間。
そこに、マーティンが仰向けに倒れていた。
司祭の法衣は、胸元から広がる赤黒い染みに覆われている。目を見開いたまま、その胸はわずかな上下動すらしていなかった。床には血の海が広がっている。
その傍らに、小柄な人影が立っていた。
右手に握られた一本の小刀から、血の滴が落ちている。
「クラリス……さん……?」
エラーラは呆然と声を漏らした。
血まみれの小刀を持つ少女は、ゆっくりとこちらを振り返った。
彼女は、にっこりと天使のように微笑んでいた。
「こんばんわ、エラーラさん。今そちらに伺おうかと思っていたところなんです」
いつものおどおどとした声ではない。
ひどく落ち着き払った、気品すら感じる声だった。
「どうして……あなたが、マーティンさんを」
「教会の規定です。罪深き魂が真実という光に焼かれる前に、救済を与えました」
クラリスは、血で汚れた刃先を指でそっと撫でた。
「急に『正義』なんて言い出されては、困りますから。……そして、あの壁画を見てしまった貴女にも、救済が必要です」
クラリスが動いた。
姿がかすんだ、と思った刹那。
鋭い小刀の刃先が、すでにエラーラの喉元に触れていた。
キンッ。
硬質な金属音が、テントの中に響いた。
火花が散る。
エラーラの目の前で、レノーアが抜剣し、クラリスの小刀を受け止めていた。
「下がるんだ、学者殿」
レノーアが剣を押し返す。
クラリスは表情一つ変えない。天使のような微笑みを浮かべたまま、ふわりと後方へ跳躍した。
引き裂かれたテントを抜け、二人は月明かりに照らされた遺跡の広場へと着地する。
クラリスの歩法には、一切の音がなかった。
歴史学者として、文献で読んだことがある。アイオン教会が暗部に叩き込む、特殊な暗歩の技術だ。
「気をつけろ。本職だ」
レノーアが剣を正眼に構え直す。
クラリスが再び踏み込んだ。
ただの黒いブレにしか見えない速度。
狙うのは顎の下、耳の後ろ、頸動脈。急所のみを正確に狙う、恐るべき小刀の連撃。
レノーアは長剣の軌道を読み、最小限の動きでそれを逸らし、反撃を叩き込む。
金属と金属が激突する轟音が、連続して夜の遺跡に響き渡る。
エラーラは、その攻防を見て戦慄した。
クラリスから、魔力の波長が一切感知できないのだ。
人間の肉体構造だけで、古のエルフの速度と重圧を凌げる道理がない。確実に魔力による高度な身体強化を行っているはずだ。
なのに、その波長が一滴も外に漏れていない。異常なまでの魔力隠蔽。
「……何を隠している」
レノーアが低く唸《うな》った。
鍔迫り合いの中、エルフの瞳が細められる。
「化けの皮を剥がしてやる」
レノーアの長剣の刀身に、淡い光が収束していく。
魔力による身体強化と、剣への属性付与。古のエルフが放つ、圧倒的な暴力だ。
レノーアが地を蹴った。
石畳が砕け散る。
音を置き去りにした一撃。
クラリスは躱せない。
彼女は咄嗟に左腕を盾にするように突き出した。
凄まじい斬撃の音が響く。
レノーアの剣は、クラリスの左肘から先を、抵抗もなく一気に切り飛ばした。
舞い上がる鮮血。
宙を舞う、彼女の手首。
エラーラは悲鳴を上げようとして、喉が震えた。
だが、クラリスは顔色ひとつ変えなかった。
彼女はそのまま、斬られたばかりの左腕の断面を、切り離された右手に持たせた。
その瞬間だった。
彼女の全身から、溢れんばかりの魔力が解放された。
それは、夜の闇を白く塗りつぶすほどの、神聖な輝き。
眩い光が、切断面を包み込む。
まるで最初から何もなかったかのように、切り離された腕が、音もなく本体へと「吸着」されていく。
血管が繋がり、筋肉が編み上げられ、皮ふが再生する。
一秒にも満たない時間の出来事だった。
土煙が晴れる。
そこには、五本の指を滑らかに動かし、再び小刀を構えるクラリスの姿があった。
傷跡ひとつ、残っていない。
だが、エラーラは見た。
レノーアの動きが、完全に凍りついているのを。
振り抜いた剣の姿勢のまま、彼女は目の前の少女を、射抜かれたような目で見つめていた。
「……あ」
レノーアの声が、震えている。
これまでの冷静なエルフの戦士とは、かけ離れた動揺。
「その……魔力の質……。嘘だ」
レノーアの声は、これまでの冷静なものとは違っていた。
決定的な動揺。
「その魔力の波長……どういうことだ。……なぜお前から彼女の魔力を感じる?」
クラリスは答えない。
カラン、と。
乾いた音が、遺跡の広場に響いた。
レノーアの右手から、長剣が滑り落ちていた。
石畳に落ちた刃が、鈍く光っている。
レノーアは拾おうとしない。ただ呆然と立ち尽くし、唇を震わせていた。
ガラスがさらさらと落ちるような音がした。
治療魔法で維持しきれなかったのだろう、幻影魔法の解除音だ。
その下から現れたのは、質素な修道服ではなかった。
純白の、清廉な法衣。
そして、月光を反射して怪しく光る、血のように赤い瞳。
その装束と瞳の色に、エラーラは息を呑んだ。
歴史書や教会の噂で、その特徴を持つ人物を一人だけ知っている。
(まさか、アイオン教会の聖女……?)
だが、思考が追いつかない。
なぜ、教会の象徴たる聖女が、自ら暗殺者のように血を流しているのか。
「答えろ! なぜ、お前からあの子の魔力を感じる! ……まさか、あなたなの?」
「あら。記憶のロックが外れたの? これは困りましたね」
純白の法衣を着た女は、心底おかしそうに首を傾げた。
そして、小刀を収めると、まるで精巧な彫刻が動くような優雅さで一礼した。
「お初にお目にかかります。アイオン教会から参りました、セラフィナと申します」
天使のように微笑むその姿に、エラーラは背筋が凍るのを感じた。
セラフィナの足元に、魔法陣が展開する。
転移魔法だ。
「待て……!」
レノーアが、弾かれたように手を伸ばした。
足がもつれ、地面に膝をつく。それでも、すがるように叫んだ。
「待ってくれ……! お前は……!」
「また会いましょう、レノーア」
光と共に、セラフィナの姿はかき消えた。
虚空を掴んだレノーアの手が、行き場を失って止まる。
後には、夜風と静寂だけが残された。




