歴史学者エラーラと禁じられた発掘 - 3
遺跡の奥へと進むにつれ、空気は重く、冷たく沈殿していくようだった。
足元には、かつての激戦を物語るように瓦礫が散乱している。だが、マーティン司祭はそれらを「聖なる試練の道」と呼び、息を切らしながらも歩みを止めようとはしなかった。
彼の熱意――あるいは執念が、幸運を引き寄せたのかもしれない。
崩落した回廊の突き当たり。積み重なった石材の隙間から、不自然な空間が広がっているのを、彼が先に見つけたのだ。
「おお……! 見なさい、あそこを!」
マーティンが杖で指し示した先。
崩れた壁の向こう側に、奇跡的に崩落を免れた一角があった。
彼はクラリスに顎で合図を送った。言葉にするまでもない、当然の命令として。
クラリスは小さな体を縮こまらせながら、慌てて重い石材に手をかけ、主人の通り道をこじ開けた。
マーティンは礼を言うこともなく、我先にとその隙間へ身体を滑り込ませた。
続いて、クラリス、そしてエラーラが入る。
そこは、広間だった。
外部からの光が遮断されたことで、奇跡的に風化を免れた空間。
マーティンが掲げた松明の炎が、闇を揺らめきながら切り裂く。
そして、その光が正面の壁を照らし出した瞬間、彼は喉の奥から悲鳴のような歓声を漏らした。
「あ、あぁ……! なんと……なんと美しい……!」
そこには、巨大な壁画が描かれていた。
三百年という時を超えているとは思えぬほど、色彩は鮮やかに残っていた。
密閉された空間が、時間を止めていたのだ。
壁画の中央には、一人の青年が立っている。
黄金の髪に、輝く剣を携えた英雄。勇者レイヴンだ。その顔立ちは凛々しく、希望に満ちた瞳で前方を見据えている。
その右隣には、祈りを捧げるエルフの女性。
長い銀髪を垂らし、慈愛に満ちた表情で杖を握る聖女の姿。
そして、左側。
そこには、背中から白く輝く翼を生やした、絶世の美女が描かれていた。
純白の衣をまとい、天から舞い降りたかのような「天使」。その手は勇者へと差し伸べられ、神の加護を与えている構図だ。
「これぞ……これぞ聖典に記された光景! 勇者レイヴン様と、彼を導いた天使様のお姿だ!」
マーティンは、その場に膝から崩れ落ちた。
彼の目から、止めどなく涙が溢れ出す。
自分が信じてきた教義が、目の前で「真実」として証明されたのだ。これほどの法悦はないだろう。
「あぁ、神よ。この卑しき僕に、このような奇跡を見せてくださるとは……」
彼は額を冷たい石床に擦り付け、祈りの言葉を呟き続けた。
クラリスもまた、それに倣うように跪く。
松明の光が揺れ、壁画の天使が、まるで生きているかのように微笑んで見えた。
エラーラだけが、立ったままその光景を見下ろしていた。
感動はなかった。
あるのは、氷のような違和感だけ。
(……綺麗すぎる)
彼女は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷静に分析した。
保存状態が良いのは理解できる。災害の少ない地域だ。運よくトレジャーハンターに見つかることもなく、当時の状態が保たれたのだろう。だが、この構図はあまりにも「教会にとって都合が良すぎる」。
一点の曇りもない英雄譚。
矛盾のない聖なる光景。
まるで、協会側に向けて「これがあなた方の求める真実ですよね」と、誇張されたかのような、意図的な美しさを感じた。
そして、決定的なのはそこに書かれた文字。明らかな意図をエラーラは感じ取っていた。
その時、ふと背後の闇から、微かな音が聞こえた気がした。
エラーラは振り返り、松明を掲げたが、そこにはただ暗い回廊が続いているだけだった。
「……マーティンさん」
エラーラの静かな声が、祈りの言葉を遮った。
「な、なんです。今、私は神との対話をしている最中ですよ」
「この壁画、不自然だと思いませんか」
「不自然だと? 何を言うのです! これほど神々しい芸術を前にして!」
マーティンは顔を真っ赤にして憤慨したが、エラーラは動じずに指先で銘板の文字をなぞった。
そこには、古代語のアルファベットで、人物の名前らしきものが刻まれている。
「いいえ、絵のことではありません。この文字の配置です」
エラーラは、天使の足元に刻まれた文字を指差した。
『S A I N T A ᵈ R I A』
聖女アドリア。
教会の伝承にある、天使の側近とされる聖女の名だ。
「見てください。『A』と『R』の間に、不自然な隙間があります。そして、『D』の文字だけが、わずかに上にズレて刻まれている」
彼女は次に、天使の名前が刻まれているであろう場所を指差した。
『A N G ᴱ ᴸ』
「こちらもです。『L』と『E』が、行から浮いている。……これは、ただの誤字や、彫り師のミスではありません」
エラーラは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、マーティンを見据えた。
「これは、三百年前の画家が残した『抵抗』です。検閲を逃れるために施した、意図的な細工――アナグラムの可能性が高い」
マーティンは口をぽかんと開けた。
学者の言っている意味が、すぐには理解できなかったのだ。
しかし、エラーラには見えていた。
この美しい宗教画の裏に、当時の人間が必死に隠した、ドロドロとした歴史の真実が。
松明の炎が揺れる。
壁画の天使の微笑みが、光の加減で、一瞬だけ歪んで見えた気がした。




