歴史学者エラーラと禁じられた発掘 - 2
王都から北へ、馬車で三日。
さらにそこから徒歩で半日ほど森の奥深くへと分け入った場所に、その遺跡は眠っていた。
うっそうと茂る原生林の木々が、ここだけぽっかりと開けている。
地面を覆う分厚い苔の緑と、朽ちかけた石造りの建造物の灰色が、長い年月の経過を無言で物語っていた。
まだ誰も踏み入れたことのない、静止した時間の中に、三人の足音が侵入する。
「……ここが、文献にあった座標か」
先頭を歩いていたマーティン司祭が、荒い息を吐きながら杖を突き立てた。
彼の豪華な法衣は、茨や枝に引っかかり、すでに所々がほつれている。額に滲んだ汗をハンカチで乱暴に拭うと、彼は目の前の遺跡を見上げ、陶酔したように目を細めた。
まだ、何一つ調査は行われていない。
文字一つすら確認されていない段階だ。
だというのに、彼は確信に満ちた声で宣言した。
「見なさい。間違いない。こここそが、聖なる場所……伝説の『天使の座』です」
彼の視線の先には、半壊した石造りの建物があった。
かつては壮麗な神殿か何かだったのだろうか。屋根は落ち、柱は折れているが、残された壁面には微かに白い塗装の痕跡が残っている。
「三百年前、魔王レギオンの軍勢がこの地を蹂躙しようとした時、天より降臨した『天使様』が拠点とした場所。ここから放たれる聖なる光が、闇の軍勢を焼き払ったと教会の記録にはあります」
マーティンは両手を広げ、朗々と語り始めた。
森の静寂に、彼の甲高い声だけが異質に響く。
鳥の声さえもしない。風の音もしない。ただ、湿った土と、淀んだ空気の匂いだけが漂っていた。
「見てください、この神聖な空気。肌にビリビリと伝わってくるでしょう? これぞ、高位の聖霊が留まっていた証左です」
マーティンは振り返り、侮蔑の色を含んだ視線をエラーラに向けた。
「エラーラさん。あなたのお役目は、この地が『天使の座』であることを証明する証拠を見つけることです。決して、学者の浅知恵で余計な解釈を挟まぬように。ここにあるのは神の奇跡のみ。不純物は必要ないのです」
つまり、結論は決まっているということだ。
エラーラは何も言い返さず、ただ黙ってリュックの紐を握りしめた。
反論したところで、意味がないことを知っているからだ。
盲信、というものは時に人の判断を狂わせる。彼にとっての真実は、土の下ではなく、教典の中にしかないのだろう。
「……すごいです、マーティン様」
マーティンの背後から、遠慮がちな声が上がった。
修道女のクラリスだ。
彼女は崩れかけた石壁に手を合わせ、深々と頭を下げている。
「私のような未熟者にも、感じられます。ここには、とても清らかな……そう、すべてを洗い流すような力が満ちていたのですね」
「そうでしょうとも! クラリス、君には素質があるようだ。王都に戻ったら、枢機卿にも推薦しておこう」
「も、もったいないお言葉です……」
おどおどと身を縮めるクラリスを見て、マーティンは満足げに頷き、遺跡の奥へと足を踏み入れた。
取り残されたエラーラは、小さく溜息をつくと、眼鏡の位置を直し、周囲の観察を始めた。
彼女の眼差しは、マーティンのそれとは全く異なる。
冷徹で、分析的で、そして解剖的だった。
(……神聖な空気? いいえ、これはただのカビと土の匂いよ)
エラーラは、足元の瓦礫に近づき、しゃがみ込んだ。
手袋をした手で、石の表面を撫でる。
指先に伝わる感触。苔の下にある冷たい石肌。
彼女は腰のポーチから小さなハンマーを取り出し、崩れた壁の断面を軽く叩き、その反響音を聞いた。
(おかしい)
彼女が注目したのは、石材の「厚み」と「積み方」だった。
マーティンの主張通り、ここが「天使の座」――つまり、高位の存在が一時的に降臨し、住まうための仮宮や神殿であったなら、建築様式はもっと装飾的で、開放的な構造になるはずだ。三百年前の建築技術なら、採光のための大きな窓や、通気のための回廊が設けられていたに違いない。
だが、目の前の壁は違った。
分厚すぎる。
装飾を削ぎ落とし、実用一点張りに積み上げられた石塊。
窓と思われる開口部は極端に狭く、しかも外側に向かって傾斜がついている。これは光を取り入れるためではない。内側から矢や魔法を放ち、外からの攻撃を防ぐための「狭間」だ。
(これは……「住居」じゃない)
エラーラは立ち上がり、遺跡全体を見渡した。
木々に侵食され、崩れかけてはいるが、その配置には明確な意図があった。
地形を利用し、侵入者を一点に誘導するような配置。
死角を消すように配置された柱の跡。
そして、崩れた瓦礫の下からわずかに覗く、焼け焦げたような黒い土の層。
(「軍事拠点」だ。それも、かなりの激戦を想定した、最前線の要塞)
歴史のピースが、どうしても噛み合わない。
教会が伝える「慈愛に満ちた天使の降臨」。
目の前にある「血と鉄の匂いが染み付いた要塞跡」。
天使は、ここで何をしていたのか。
本当に、人々を守るために、ただ祈りを捧げていたのか。
それとも――。
「エラーラさん! 何をボサッとしているのです! 早く来なさい、素晴らしいものを見つけましたよ!」
遺跡の奥から、マーティンの興奮した声が響いた。
エラーラは思考を中断し、道具をポーチにしまった。
背筋に、冷たいものが走る。
この先に待つものが、知りたくない真実であるような気がしてならなかった。
(……行きましょう。私は、真実を知るためにここに来たのだから)
彼女は一度だけ、来た道を――東門のある方角を振り返った。
霧に煙る森の向こうに、あの穏やかな門番の顔が浮かぶ。
「行ってらっしゃい」という彼の声を胸に、エラーラは重い足取りで、遺跡の闇の中へと踏み出した。




