九
畳の上に寝そべって、旅行雑誌のひまわり畑のページを見ていた。
縁側で焚いている蚊取り線香の匂いが時折鼻を掠める。
ふと、外に視線を移すと、縁側から郁人が顔を出した。
「どうぞ。うち扇風機しかないから、暑いかもしれないけど」
「お邪魔します。夏樹のばあちゃんは?」
「今、お隣さんの家に行ってる。あの、三毛猫のミイちゃんの飼い主の」
「そうなんだ。これ、ありがとう」
差し出されたビニール袋を受け取った。中には綺麗に洗われたタッパーが入っている。
「飲み物、麦茶でいい?」
「ああ、うん。お構いなく」
郁人に適当に座るように言って、氷を多めに入れた麦茶をちゃぶ台に置いた。
「これ、いいな。扇風機を氷に当てるの。なんとなく涼しい気がする」
「それは、ばあちゃんの知恵だよ」
うちの扇風機の前には、氷が入った桶が置いてある。ほんの少しだけど、風が冷たくなるのだ。
「宿題どこまでやった?」
「まだ何もやってない」
「そうだよね、郁人はそう言うと思ってたよ」
今日は郁人と夏休みの宿題をやる約束をしていた。
夏休みに入ってから、僕たちはほとんど毎日一緒に過ごしている。
というか、河原にいても、家にいても、どこにいても必ず郁人は僕の前に現れた。
ちゃぶ台の上に宿題のプリントを広げた。読書感想文の作文用紙と英語と数学。
「宿題多すぎだよな」
「いや、二年の時はこの倍はあったから少ない方だよ。三年は受験とか就活とかあるから、あんまり宿題出さないんだって」
「ふうん」
郁人は興味がなさそうに、作文用紙をつまんでひらひらさせている。
「郁人は読書感想文、何の本にする?」
「お前と同じ本にする」
「これ読んだことある? 夏目漱石の文鳥」
本棚から白い文鳥の絵が描かれた文庫本を取り出した。この本棚にある本は元々じいちゃんが読んでいたもので、今は僕が読んでいる。
「ああ、その話は知ってる。でもよく分からなかった」
「じゃあ、読み終わったら貸そうか? こういう古い作品でよければ、違う本もあるけど」
「いや、いい。感想文なんだから、分からなかったっていう感想を書けばいいだけだろ」
「でも、原稿用紙一枚分って決まりだよ?」
「だから一枚分びっしり、分かりませんでしたって書いてやるよ」
相変わらず飄々としている郁人に、僕はため息を吐いて本を閉じた。
とりあえず読書感想文は後回しにして、英語のプリントから取り掛かった。問題を解くことに集中して、黙々と進めていく。ちらりと郁人を見ると、意外にも真面目に取り組んでいた。
「ねえ、郁人は進路どうするの?」
「俺は就職。いつまでもじいさんの世話になるわけにはいかないし」
「そういえば、おじいさんの具合はどう?」
「お盆明けには退院できるって。病院の食事は味がなくてまずいから、食べ物を隠して持って来いってうるさくて。この間は味つけ海苔とふりかけを持って行ったよ」
ため息を吐く郁人に、思わず苦笑した。
「でも、元気そうでよかったよ」
「夏樹は進路どうするの?」
「僕は水上大を受験しようと思ってるんだ。ここから自転車で行ける距離だし、偏差値もちょうどいいから。でも、まだ少し迷ってて……」
「へえ、てっきり絵を描く方に進むと思ってた」
郁人は頬杖をついて、目線をこちらに寄越した。
「美大も考えたことはあったけど、この辺りにはないから都内に住まないといけないし、僕はこの町から出たくなくて……。でも、クラスの人たちは都内の大学を受験する人が多いみたいで、やっぱり僕もこの町から出るべきなのかなって……」
「周りは関係ないだろ? 夏樹がしたいようにすればいいんだから」
「それは、そうなんだけど……ねえ、就職先は決めたの?」
僕は自分のことから話をそらすように、そう切り出した。
「まだ決めてない」
「なりたい職業とか、将来の夢とかは?」
「俺はやりたいことなんて何もない。だけど、生きるために働かなきゃいけないとは思う。それじゃダメか?」
「ううん、全然ダメじゃないよ。僕も将来のことって、よく分からないし」
グラスの中で氷がからりと音を立てた。
郁人らしい答えだと思った。僕もまだ将来の夢とかやりたいことが見つからない。だから、漠然とした不安を抱えて迷ってばかりいる。
ただ、この町の景色が好きだから、ここに住み続けたいという気持ちだけはあった。
「英語、全部終わった」
「えっ、早い! 本当に終わったの?」
プリントを覗き込むと、流れるような筆記体で書かれた答案で埋まっている。
「うわぁ、綺麗な字。郁人って、もしかしてすごく勉強できるんじゃ……」
「いや、別に」
数学のプリントに取り掛かる郁人を見て、僕も急いで英語を終わらせた。
「それ、ひまわり畑?」
郁人の目線の先には、開いたまま置きっぱなしにしていた旅行雑誌があった。
「うん。ひまわりの絵を描きたいなと思って見てたんだ」
「ふうん。じゃあ、今度一緒に行くか」
「えっ、いいの? いや、でも男ふたりでひまわり畑って、どうなんだろう」
「ひとりよりはマシだろ?」
「そうかもしれないけど、ひまわり畑って家族や男女のデートの定番スポットというか、なんというか……まあ、いいか」
玄関の戸が開く音と共に、ただいま、という声が聞こえてきた。
「おや、郁人くん。来てたのかい」
「お邪魔してます」
ばあちゃんは両手で大きなスイカを抱えている。
「スイカもらってきたから、ふたりとも食べなさい」
僕たちは宿題を切りのいいところで終わらせた。ちらりと見えた郁人の数学のプリントは、もうほとんど終わっていた。
庭の木に止まるガビチョウの美しいさえずりを聴きながら、僕たちは縁側でスイカを頬張った。
「そういえば、明日は湖上祭だよ」
「そっか」
「……あのさ、水谷さんの誘い、断ってよかったの?」
「水谷? 誰それ?」
「この間、補習の日に手紙渡してきた子だよ! 同じクラスの水谷さん!」
郁人は興味がないという風に、ふうん、と呟いた。
「そのなんとか祭、お前と行くし」
「だから、僕は行くなんて一言も言ってないけど」
「夏樹が行かないなら、俺も行かない」
「なっ……! 行きたいなら、水谷さんと行ってくればいいのに」
「俺は、お前と一緒にいるほうが楽しいから」
その言葉を聞いて、頭ひとつ分背が高い郁人の顔を見上げた。その横顔が空を見つめていることに少し安心する。
庭を青いトンボが浮遊している。ぼんやり眺めていると、だんだん目の前に近づいてきて、僕の前髪に止まった。
「オオシオカラトンボだ」
「詳しいな。トンボ好きなの?」
「いや、好きってわけじゃないけど。死んだじいちゃんが昆虫に詳しかったんだ」
頭を動かさずに目線だけ上げると、透き通ったトンボの翅が少し見えた。
「夏樹の髪って、真っ黒じゃなくて少し茶色いんだな。光に透けると綺麗だ」
ふいに、郁人が僕の髪に触れた。微かに頬を掠めた指に、肩が震える。
その拍子にトンボが飛び立った。
遠ざかっていく青色に、僕は過去を見ていた。