表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13


 畳の上に寝そべって、旅行雑誌のひまわり畑のページを見ていた。

 縁側で焚いている蚊取り線香の匂いが時折鼻を掠める。

 ふと、外に視線を移すと、縁側から郁人が顔を出した。


「どうぞ。うち扇風機しかないから、暑いかもしれないけど」

「お邪魔します。夏樹のばあちゃんは?」

「今、お隣さんの家に行ってる。あの、三毛猫のミイちゃんの飼い主の」

「そうなんだ。これ、ありがとう」


 差し出されたビニール袋を受け取った。中には綺麗に洗われたタッパーが入っている。


「飲み物、麦茶でいい?」

「ああ、うん。お構いなく」


 郁人に適当に座るように言って、氷を多めに入れた麦茶をちゃぶ台に置いた。


「これ、いいな。扇風機を氷に当てるの。なんとなく涼しい気がする」

「それは、ばあちゃんの知恵だよ」


 うちの扇風機の前には、氷が入った桶が置いてある。ほんの少しだけど、風が冷たくなるのだ。


「宿題どこまでやった?」

「まだ何もやってない」

「そうだよね、郁人はそう言うと思ってたよ」


 今日は郁人と夏休みの宿題をやる約束をしていた。

 夏休みに入ってから、僕たちはほとんど毎日一緒に過ごしている。

 というか、河原にいても、家にいても、どこにいても必ず郁人は僕の前に現れた。

 ちゃぶ台の上に宿題のプリントを広げた。読書感想文の作文用紙と英語と数学。


「宿題多すぎだよな」

「いや、二年の時はこの倍はあったから少ない方だよ。三年は受験とか就活とかあるから、あんまり宿題出さないんだって」

「ふうん」


 郁人は興味がなさそうに、作文用紙をつまんでひらひらさせている。


「郁人は読書感想文、何の本にする?」

「お前と同じ本にする」

「これ読んだことある? 夏目漱石の文鳥」


 本棚から白い文鳥の絵が描かれた文庫本を取り出した。この本棚にある本は元々じいちゃんが読んでいたもので、今は僕が読んでいる。


「ああ、その話は知ってる。でもよく分からなかった」

「じゃあ、読み終わったら貸そうか? こういう古い作品でよければ、違う本もあるけど」

「いや、いい。感想文なんだから、分からなかったっていう感想を書けばいいだけだろ」

「でも、原稿用紙一枚分って決まりだよ?」

「だから一枚分びっしり、分かりませんでしたって書いてやるよ」


 相変わらず飄々としている郁人に、僕はため息を吐いて本を閉じた。

 とりあえず読書感想文は後回しにして、英語のプリントから取り掛かった。問題を解くことに集中して、黙々と進めていく。ちらりと郁人を見ると、意外にも真面目に取り組んでいた。


「ねえ、郁人は進路どうするの?」

「俺は就職。いつまでもじいさんの世話になるわけにはいかないし」

「そういえば、おじいさんの具合はどう?」

「お盆明けには退院できるって。病院の食事は味がなくてまずいから、食べ物を隠して持って来いってうるさくて。この間は味つけ海苔とふりかけを持って行ったよ」


 ため息を吐く郁人に、思わず苦笑した。


「でも、元気そうでよかったよ」

「夏樹は進路どうするの?」

「僕は水上大を受験しようと思ってるんだ。ここから自転車で行ける距離だし、偏差値もちょうどいいから。でも、まだ少し迷ってて……」

「へえ、てっきり絵を描く方に進むと思ってた」


 郁人は頬杖をついて、目線をこちらに寄越した。


「美大も考えたことはあったけど、この辺りにはないから都内に住まないといけないし、僕はこの町から出たくなくて……。でも、クラスの人たちは都内の大学を受験する人が多いみたいで、やっぱり僕もこの町から出るべきなのかなって……」

「周りは関係ないだろ? 夏樹がしたいようにすればいいんだから」

「それは、そうなんだけど……ねえ、就職先は決めたの?」


 僕は自分のことから話をそらすように、そう切り出した。


「まだ決めてない」

「なりたい職業とか、将来の夢とかは?」

「俺はやりたいことなんて何もない。だけど、生きるために働かなきゃいけないとは思う。それじゃダメか?」

「ううん、全然ダメじゃないよ。僕も将来のことって、よく分からないし」


 グラスの中で氷がからりと音を立てた。

 郁人らしい答えだと思った。僕もまだ将来の夢とかやりたいことが見つからない。だから、漠然とした不安を抱えて迷ってばかりいる。

 ただ、この町の景色が好きだから、ここに住み続けたいという気持ちだけはあった。


「英語、全部終わった」

「えっ、早い! 本当に終わったの?」


 プリントを覗き込むと、流れるような筆記体で書かれた答案で埋まっている。


「うわぁ、綺麗な字。郁人って、もしかしてすごく勉強できるんじゃ……」

「いや、別に」


 数学のプリントに取り掛かる郁人を見て、僕も急いで英語を終わらせた。


「それ、ひまわり畑?」


 郁人の目線の先には、開いたまま置きっぱなしにしていた旅行雑誌があった。


「うん。ひまわりの絵を描きたいなと思って見てたんだ」

「ふうん。じゃあ、今度一緒に行くか」

「えっ、いいの? いや、でも男ふたりでひまわり畑って、どうなんだろう」

「ひとりよりはマシだろ?」

「そうかもしれないけど、ひまわり畑って家族や男女のデートの定番スポットというか、なんというか……まあ、いいか」


 玄関の戸が開く音と共に、ただいま、という声が聞こえてきた。


「おや、郁人くん。来てたのかい」

「お邪魔してます」


 ばあちゃんは両手で大きなスイカを抱えている。


「スイカもらってきたから、ふたりとも食べなさい」


 僕たちは宿題を切りのいいところで終わらせた。ちらりと見えた郁人の数学のプリントは、もうほとんど終わっていた。

 庭の木に止まるガビチョウの美しいさえずりを聴きながら、僕たちは縁側でスイカを頬張った。


「そういえば、明日は湖上祭だよ」

「そっか」

「……あのさ、水谷さんの誘い、断ってよかったの?」

「水谷? 誰それ?」

「この間、補習の日に手紙渡してきた子だよ! 同じクラスの水谷さん!」


 郁人は興味がないという風に、ふうん、と呟いた。


「そのなんとか祭、お前と行くし」

「だから、僕は行くなんて一言も言ってないけど」

「夏樹が行かないなら、俺も行かない」

「なっ……! 行きたいなら、水谷さんと行ってくればいいのに」

「俺は、お前と一緒にいるほうが楽しいから」


 その言葉を聞いて、頭ひとつ分背が高い郁人の顔を見上げた。その横顔が空を見つめていることに少し安心する。

 庭を青いトンボが浮遊している。ぼんやり眺めていると、だんだん目の前に近づいてきて、僕の前髪に止まった。


「オオシオカラトンボだ」

「詳しいな。トンボ好きなの?」

「いや、好きってわけじゃないけど。死んだじいちゃんが昆虫に詳しかったんだ」


 頭を動かさずに目線だけ上げると、透き通ったトンボの翅が少し見えた。


「夏樹の髪って、真っ黒じゃなくて少し茶色いんだな。光に透けると綺麗だ」


 ふいに、郁人が僕の髪に触れた。微かに頬を掠めた指に、肩が震える。

 その拍子にトンボが飛び立った。

 遠ざかっていく青色に、僕は過去を見ていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ