八
結局、五回目の挑戦でようやく二十五メートルを完泳できた。
他の生徒たちは次々にテストに合格して帰ってしまい、僕だけ最後まで残っていた。
やっぱり運動音痴で万年文化部の僕には、泳ぐことは向いていないのだ。
誰もいなくなったプールサイドのベンチに腰掛けて、大きなため息を吐いた。
「橘くん、お疲れ様」
顔を上げると、水谷さんがいた。
早々にテストに合格した彼女は、もう制服に着替えている。
「水谷さん、まだ残ってたんだね」
「えっ? えっと……うん! みんなテスト合格できてよかったね」
「うん、そうだね」
と、苦笑しつつ、そわそわと落ちつかない様子の水谷さんを不思議に思った。
「あのね、実は橘くんにお願いがあるんだ」
水谷さんは、おずおずと桃色の可愛らしい封筒を差し出した。
「この手紙、柳瀬くんに渡して欲しいの」
僕はキョロキョロとプールサイドを見回した。
そういえば、郁人の姿が見当たらない。僕があまりにも泳げないから、もう飽きて帰ってしまったのだろうか。
「本当は自分で渡したかったんだけど、柳瀬くんいなくなっちゃって……ダメかな?」
水谷さんに話しかけられた理由に納得したのと同時に、目の前の手紙を受け取るべきか、どうしたらいいか迷って狼狽える。
「この間は学校の案内したかったのに、先生がテニス部に柳瀬くん連れていっちゃうし。あんまり柳瀬くんと話せないまま夏休みになっちゃったし。まさか今日補習に来ると思ってなかったから、これはチャンスだと思ってたのに、もういなくなってるし……」
眉を下げて残念そうにため息を吐く水谷さんに、何故か僕が申し訳ない気持ちになった。
「あの、でも、その手紙って、ラ、ラブレターなんじゃ……」
もごもごと口ごもると、水谷さんは笑い出した。
「これは別に、そういう手紙じゃないの。連絡先とか書いてあるだけで。ただ、もっと柳瀬くんと仲良くなりたくて……」
水谷さんは恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「だから、橘くんは柳瀬くんと仲いいみたいだし、協力してもらえないかなって思って。それとも……何か渡せない理由でもあるの?」
「い、いや、そういうわけじゃないけど……」
僕は顔の前で両手を振った。
はっきり答えずにいると、水谷さんは静かに口を開いた。
「あのさ、橘くんの噂聞いちゃったんだけど……橘くんは、男の人が好きって本当?」
どきり、と心臓が大きな音を立てた。
波打つプールも降り注ぐ太陽も、この瞬間、何もかもが冷たく静かに感じた。
「実は、中学が橘くんと同じだった友達がいて、そんな噂があったって聞いて……あっ、でも、もし本当だとしても、私は性別とか関係ないって思ってるし、そういう偏見ないから」
水谷さんは慌てたように手を振って笑った。
「な……なんだよ、その噂」
僕は水谷さんから目をそらすと、笑った。ひどく乾いた笑い声だった。
水谷さんの顔を見ることはできなくて、ただ、笑うことしかできなかった。
「なんだ、やっぱりただの噂だったんだね。よかったー!」
よかった、その一言が棘になって僕の胸に突き刺さる。
水谷さんはホッとしたような表情をしている。きっと僕がライバルじゃなくてよかった、という意味で言ったのだろう。
だけど、本当にそれだけなのだろうか。
そんな僕の歪んだ心を悟られないように、できるだけ明るい声色で「そうだね」と答えた。
水谷さんの朗らかな笑い声を聞きながら、僕は足元を歩く小さなアリを見つめていた。
「じゃあ、私の代わりに手紙渡してもらえるよね?」
結局断りきれず、こくりと頷いた時、僕の名前を呼ぶ声がした。
「夏樹、帰ろう」
更衣室の方から郁人が歩いてくる。郁人はもう制服に着替えていて、僕の頭にタオルを乗せると無造作に濡れた髪を拭き始めた。
「あ、あの、柳瀬くん!」
郁人は手を動かしながら、水谷さんの方へ顔を向けた。
「あの、これ読んで欲しいの」
顔を赤らめながら、水谷さんは郁人に手紙を差し出した。それを見て、僕の役目は終わった、と安心した。
「それ、なんて書いてあるの?」
「何って、それは……」
ぶっきらぼうな郁人の言葉に、水谷さんは言いづらそうにうつむいた。
書いてある内容を言ってしまったら、手紙の意味がないだろう。
「言えないような内容なら、いらない」
僕は郁人の冷たさに、内心ひやひやしていた。水谷さんの顔が悲し気に歪んでいく。助けを求めるように僕の顔を見た。
「ねえ、郁人。手紙受け取ってあげなよ。せっかく書いてくれたんだし……」
郁人は僕を一瞥すると、口をつぐんだ。
急に沈黙が訪れる。三人の間に流れる空気に気まずさを感じていると、水谷さんが意を決したように口を開いた。
「あのね、湖上祭……柳瀬くんは転校してきたばかりで知らないかもしれないけど、毎年八月の第一日曜日に、近くの公園で湖上祭があるの。それで、一緒に行きたいなと思って……」
水谷さんは胸の前で手紙を握りしめて、不安そうに郁人を見つめている。
「悪いけど、行けない」
早く帰ろう、と郁人は僕の腕を引っ張った。
「えっ!? ちょ、ちょっと、待って!」
「もう予定があるのかな? それとも、他の人と一緒に行く約束してるの?」
「夏樹と一緒に行く」
「えっ?」
そんな話は寝耳に水で、唖然とした。僕は湖上祭の話など、郁人と一度もしたことはない。
「あの、私も一緒に行っちゃダメ?」
水谷さんは郁人に聞きながら、僕の顔を見ている。
どうしたらいいのかとまごついていると、郁人は水谷さんの目をまっすぐ見て口を開いた。
「俺さ、男が好きなんだ」
その瞬間、静寂が僕たちを包み込んだ。
驚いて声が出ない僕と同じように、水谷さんも口を開けたまま固まっている。
「……なんてな」
冗談だ、と郁人はいつもと変わらない表情で淡々と言った。
すると、水谷さんは大きな声で笑い出した。いつもの明るさはなく、さっきの僕と同じような、不自然で乾いた笑い声だった。
「ごめんね……しつこかったよね。橘くんも、迷惑かけてごめんね」
足早に去る水谷さんの背中を、僕は呆然と見つめて立ち尽くしていた。
郁人は僕と水谷さんの会話を聞いていたのか、あの言葉は本当に冗談なのか、聞く勇気はなかった。
ただ、あのくしゃくしゃになった桃色の手紙を思い出すと、胸が締めつけられた。