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 ビーチサンダルを脱いで、川に素足を浸した。冷たい水と足の裏に当たる石の感触が気持ちいい。

 そのまま後ろに寝転ぶと、橋の裏側が空高くに見える。ちょうどめがね橋の真下、この場所は日陰で涼しい。僕はここで絵を描いたり、小説を読んだりするのが好きだ。

 スケッチブックを開いて顔に乗せると瞼を閉じた。頭と背中の裏に石の丸みを感じる。

 川のせせらぎ、鳥のさえずり、蝉しぐれ。時々、橋の上を走る車の音さえも美しい音楽のように聞こえる。

 こうして自然に身を委ねていると、僕も自然の一部に溶け込めているような気がした。

 夏休みは補習で一日だけ学校に行く予定があるが、これからはこうして毎日好きなことをして過ごせる。

 夢と現を行ったり来たり。涼やかな夏の中で微睡んでいると、河原の石を踏み締める音が聞こえてきた。その音はだんだん近づいてきて、僕のそばで止まる。

 そろりと顔に乗せていたスケッチブックを外すと、目の前に人の顔があった。


「うわああっ!」


 叫び声を上げて、勢いよく身体を起こした。


「ああ、よかった。死んでるのかと思った」

「い、郁人! どうしてここに……」


 僕の顔を覗き込んでいたのは郁人だった。僕の反応がおかしいというように笑っている。


「それ、川の水気持ちよさそうだな」


 郁人はジーパンの裾を捲り上げると、サンダルを脱いで川に足を入れた。

 足の甲で水を掬ったり、浅瀬をうろうろと歩いている。だんだん川の中心に向かって歩き出したので、慌てて声を掛けた。


「待って! それ以上先は深くなるから危ないよ」

「ああ、そうなんだ」


 郁人はこちらに戻ってくると、大きな石の上に腰かけた。


「それ、夏樹に似合ってるな。ここ涼しいし、確かに昼寝したくなる気持ちは分かる」

「うっ……」


 恥ずかしくなってうつむいた。

 郁人が言うそれ、とは、僕が着ている甚平のことだ。

 去年亡くなったじいちゃんから譲り受けた若草色の甚平は、僕の夏の定番の装いだった。

 夏休みに会うことはないだろうと思って安心していたのに、どうして郁人はまた僕の前に現れるのだろうか。


「川に入ったのは小学生以来だ。ずっと都内に住んでたし、こういうのって新鮮」


 郁人は水の上で足をばたつかせた。ばしゃばしゃと水飛沫が跳ねて、僕の甚平にぽつぽつと染みを作る。


「ちょっと、濡れる!」

「ごめん、後で着替え持ってきてやるよ」

「えっ、それはいいよ。僕の家も目の前だし」


 僕は土手の上にある黒い瓦屋根の家を指さした。


「それもそうか」


 そう言うと、郁人はまた水面を足の裏で叩き始めた。そういえば、小学生の頃、体育の授業でプールに入る時に、みんなそれをよくやっていた気がする。

 そこで、ふと補習のことを思い出した。


「そういえば、明後日プールの補習なんだった。嫌だなぁ」

「補習? 授業休んでたの?」

「ううん。泳ぐの苦手で……クロールのテストで二十五メートル泳げなくて、強制的に補習」


 授業には真面目に参加して皆勤賞だったのだが、テストに合格しなければ補習だと言われた。川や湖のある町だから水泳の授業には力が入れられていて、先生もテストには厳しかった。


「ふうん。俺も行こうかな、補習」

「えっ、なんで? もしかして郁人も泳げないの?」

「泳げるけど、暇だし。水泳の授業受けてないし」

「泳ぐの好きなの?」

「……いや、別に」


 郁人のことが少し分かってきたような気がする。郁人はとにかくマイペースだ。それから、とてつもなく暇らしい。


「はあ……上手く泳ぐコツってあるのかな」

「コツは上手く泳ごうとしないことだ」

「……えっ?」

「水の流れに身を任せて、浮いていればいいんだよ」

「それって泳ぐというより、ただ流されてるだけなんじゃ……」

「いいんだよ。頑張って泳ごうとすると、苦しくなるから」


 どことなく翳りのある声が気になって、郁人の顔を見上げた。

 だけど、目が合うことはなかった。

 郁人は川の先の、遠くの山々を見つめている。


「今日も絵を描いてたの?」 

「ああ、うん。描こうと思ってたんだけど、今日はあまり気分が乗らなくて」

「またモデルになってやろうか。さあ、描け」


 郁人は両手を広げてこちらを見ている。


「またそんな、急に描けって言われても……。それに、郁人のモデルは、モデルじゃないからなぁ」

「今日は動かないから」


 と、言いながら、三分も経たないうちに、郁人はまた浅瀬をうろうろと歩き始めた。

 小さな魚を見つけたようで、捕まえようと両手で水を掬っている。普段は澄ましている郁人が子どものように夢中になっている様子がおかしくて、思わず緩んだ頬をスケッチブックで隠した。


「夏樹」


 名前を呼ばれて顔を上げると、顔に水が掛かった。スケッチブックにも水滴が垂れている。


「なっ、何するんだよ!」

「ひとりで楽しそうにしてたから、つい」

「そっ、それはっ、お前の方だろ!」


 スケッチブックを岩の上に避難させると、両手で水を掬って、郁人の顔を目掛けて飛ばした。それを皮切りに、水の掛け合いが始まった。

 静かな河原に、水飛沫の音とふたりの笑い声が響き渡る。もう全身びしょ濡れだ。水を吸って深緑色に変わった甚平が肌に張り付いている。


「ちょっと、待って! 待てって」


 水を掛けようとする郁人を止めようとして、腕を掴もうとした。

 だけど、腕を掴む直前、肌に触れることを躊躇った。

 その瞬間、僕は川底の滑り気のある石で足を滑らせた。郁人に腕を引かれたが、バランスを崩してふたり一緒に川に倒れ込む。大きな水飛沫が上がり、咄嗟に目を瞑った。


「夏樹、大丈夫か?」


 恐る恐る目を開けると、至近距離に郁人の顔があって、呼吸が止まりそうになった。

 郁人の髪から滴り落ちる水滴が、僕の頬を流れる。


「うん、大丈夫……ごめん、僕が足を滑らせたから」


 立ち上がろうとした時、郁人の右膝から血が流れていることに気がついた。


「えっ、ちょっと、怪我してるよ! 僕の家で手当てしよう」

「いや、たいしたことないから。全然痛くないし」


 僕は大丈夫だと言い張る郁人を家まで引っ張っていった。



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