四
夏休み前、最後のホームルームを終えると、高校のそばにある湖がよく見える公園に行った。
僕はこの湖の景色が好きだ。毎日教室の窓から眺めているけど、飽きることはない。天気や季節によって表情が変わるし、この綺麗な青碧色を見ているだけで心が落ちつく。
青碧色、というのは母さんから子どもの頃に教わった。
家の窓から川を眺めて、「青色だね」と言った僕に、母さんは本棚から色の図鑑を取り出して、「川や湖は緑色も混ざっているから、母さんは青碧色だと思うの」と言った。
それ以来、僕の中でこの町の川と湖は青碧色だ。
木陰のベンチに腰掛け、鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「ここ、いい景色だな」
突然、背後から声を掛けられて、手から鉛筆が滑り落ちた。慌てて振り返ると、郁人がいた。
「ど、どうしてここに……」
「帰ろうと思ったら、夏樹が湖の方に行ったからついてきた」
「そんな、ついてきたって……」
地面に落ちた鉛筆を差し出されて、ありがとう、と小さく呟く。
「湖の絵を描くの?」
「うん、ここの風景好きなんだ」
「ふうん。昨日さ、人の絵を描く練習してるって言ってたよな」
「あ、ああ、うん。でも、今は絵のモデルいないし」
昨日、人物画の練習をしていると言い訳をしてしまったことを思い出し、冷や汗をかいた。
「俺、モデルになってやるよ」
「えっ? いや、急にそんなこと言われても……」
「ダメなの?」
「いや、ダメってわけじゃないけど……」
「じゃあ、決まり」
郁人は僕の隣に座って、湖を見つめた。
静かな時間が流れる。どこかで鳴いているアブラゼミの声を聞きながら、僕たちは魚の鱗のように細かく波打つ水面をしばらく眺めていた。
「……あのさ、なんで僕に構うの?」
「だって暇だし。この町で友達お前しかいないし」
「いや、友達になった覚えは……」
ない、と言おうとしたが、さすがにその言い方はひどいだろうか、と考え直した。
「じゃ、じゃあ、他に友達作れば? 郁人はモテるし、彼女だってすぐできそう」
「無理。明日から夏休み」
「うっ……」
返す言葉が見つからない。郁人の言う通り、きっと単純に暇だからついて来るのだろう。
僕のことを本当に友達だと思っているわけじゃなくて、転校してきたばかりで友達がいなくて焦っているのかもしれない。僕は同じクラスで、隣の席で、ご近所さんだから。
そのうち彼もいなくなるのだろう。
あの日のグッピーやクラスメイトのように。
「絵、描かないの?」
うつむいていた僕の顔を郁人が不思議そうに覗き込んできた。
「じゃ、じゃあ描くからそのフェンスの前に立って。湖を眺めている感じで」
「おう」
郁人がポーズを取ると、デッサンを始めた。郁人はスタイルがいいから、普通に立っているだけで様になる。湖を眺める横顔も、風になびく黒髪も綺麗だ。
「あ、カモが泳いでる。あれは魚か?」
表情の変化が乏しいけど、今の郁人はなんだか楽しそうだ。モデルになっていることを忘れているのか、僕に背を向けて湖を覗き込んでいる。
「ちょっと動かないで、じっとしてて」
「なんで?」
「なんでって、動いたら描けないよ」
「そうか、モデルって大変だな」
郁人は腕を組み、フェンスに背中を預けた。もう最初とポーズが全然違っている。結局、僕も好きに描くことにした。
「描けたからもう大丈夫。ありがとう」
「もういいのか?」
「うん。暑いし、もう帰るよ」
「じゃあ、俺も帰る」
今日も郁人は自転車を押して、僕の隣を歩く。
直射日光とアスファルトの照り返しの両方からの熱で、肌がジリジリと焼けるように暑い。何度も額の汗を拭った。
郁人の首にも汗の粒が光っている。自転車に乗った方が歩くより涼しいだろうし、早く帰れるのに。今まで何度かそう言ったが、郁人は口を閉ざしていた。
駄菓子屋の前までくると、郁人は自転車を止めて店の中に入っていった。
帰るべきか、待つべきか、今日もまた悩んだ。店の前で右往左往しているうちに、郁人が出てきた。今日はラムネを二本持っている。
郁人はそのうちの一本を僕に差し出した。
「夏樹、ラムネ好きだろ? ほら、お前の分」
「あ、ありがとう」
好きだと言った覚えはないが、今日も半ば強引に押しつけられた。
ビー玉を瓶の中に落とすと、溢れ出る炭酸水を急いで口に含んだ。冷えたラムネが火照った喉に染み渡る。生き返るような心地がした。
「ラムネ、美味しいね」
無意識にそう呟くと、郁人は微笑んだ。
とくり、と高鳴る胸。郁人の笑った顔を見たのは初めてのことだった。
少し速くなった心音を静めようと、ラムネの瓶を握りしめてうつむく。
水滴が光る瓶の口に、水槽を見つめるあの日の少年の唇を思い出して、窒息しそうになった。
「ただいま」
引き戸を開けて家に入ると、煮物のいい匂いがする。
台所で夕飯の支度をしていたばあちゃんは、穏やかな笑顔で「おかえり」と言った。その笑顔に、もやもやと渦巻いていた気持ちが少し落ちついた。
僕はばあちゃんとこの家でふたりで暮らしている。両親は東京に住んでいて、父さんは美大の教授、母さんは絵画教室で講師をしている。
自分の部屋に荷物を置くと、すぐに夕飯の支度を手伝った。手伝うといっても、ちゃぶ台を綺麗な布巾で拭いたり、ばあちゃんが盛りつけた料理を運ぶくらいしかできない。それでもばあちゃんは、「ありがとう」と言って喜んでくれる。
ばあちゃんとふたりきりで囲む食卓。薄暗い電灯の下で小さなハエが舞っている。
鶏肉と筍の煮物は味がよく染みていて美味しい。いつものばあちゃんの味に安心する。
「夏樹、最近様子がおかしいね。学校で何かあったの?」
「えっ、別に……何もないよ」
「本当に? ばあちゃんは心配だよ」
ばあちゃんも両親も、僕が同性愛者だと知っている。そのことで、小学生の頃から中学を卒業するまでいじめられていたことも。
両親は都内の高校に通って、一緒に住むことを提案してくれていた。だけど、それは僕が拒否した。
確かにこの町に辛い思い出はたくさんあるけれど、それ以上に僕は自然が溢れるこの場所が気に入っている。
それに、今の高校は同じ中学出身の人が少なくて、どうにか上手くやれている。
「何かあったらすぐに言うんだよ。ばあちゃんは夏樹の味方だからね」
「うん……」
目頭が熱くなった。ばあちゃんの優しさにはいつも感謝している。
昔、僕は男が好きなのだと、男の人しか好きになれないのだと泣きながら打ち明けた時、ばあちゃんは一緒に泣いてくれた。そんな優しいばあちゃんを心配させたくはない。
明日から夏休み。しばらくひとりでいれば、この気持ちも落ちつくだろう。
そっと息を吐きながら、夜風に揺れる風鈴の音とコオロギの鳴き声を聞いていた。