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 夏休み前、最後のホームルームを終えると、高校のそばにある湖がよく見える公園に行った。

 僕はこの湖の景色が好きだ。毎日教室の窓から眺めているけど、飽きることはない。天気や季節によって表情が変わるし、この綺麗な青碧色を見ているだけで心が落ちつく。

 青碧色、というのは母さんから子どもの頃に教わった。

 家の窓から川を眺めて、「青色だね」と言った僕に、母さんは本棚から色の図鑑を取り出して、「川や湖は緑色も混ざっているから、母さんは青碧色だと思うの」と言った。

 それ以来、僕の中でこの町の川と湖は青碧色だ。

 木陰のベンチに腰掛け、鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。


「ここ、いい景色だな」


 突然、背後から声を掛けられて、手から鉛筆が滑り落ちた。慌てて振り返ると、郁人がいた。


「ど、どうしてここに……」

「帰ろうと思ったら、夏樹が湖の方に行ったからついてきた」

「そんな、ついてきたって……」


 地面に落ちた鉛筆を差し出されて、ありがとう、と小さく呟く。


「湖の絵を描くの?」

「うん、ここの風景好きなんだ」

「ふうん。昨日さ、人の絵を描く練習してるって言ってたよな」

「あ、ああ、うん。でも、今は絵のモデルいないし」


 昨日、人物画の練習をしていると言い訳をしてしまったことを思い出し、冷や汗をかいた。


「俺、モデルになってやるよ」

「えっ? いや、急にそんなこと言われても……」

「ダメなの?」

「いや、ダメってわけじゃないけど……」

「じゃあ、決まり」


 郁人は僕の隣に座って、湖を見つめた。

 静かな時間が流れる。どこかで鳴いているアブラゼミの声を聞きながら、僕たちは魚の鱗のように細かく波打つ水面をしばらく眺めていた。


「……あのさ、なんで僕に構うの?」

「だって暇だし。この町で友達お前しかいないし」

「いや、友達になった覚えは……」


 ない、と言おうとしたが、さすがにその言い方はひどいだろうか、と考え直した。


「じゃ、じゃあ、他に友達作れば? 郁人はモテるし、彼女だってすぐできそう」

「無理。明日から夏休み」

「うっ……」


 返す言葉が見つからない。郁人の言う通り、きっと単純に暇だからついて来るのだろう。

 僕のことを本当に友達だと思っているわけじゃなくて、転校してきたばかりで友達がいなくて焦っているのかもしれない。僕は同じクラスで、隣の席で、ご近所さんだから。

 そのうち彼もいなくなるのだろう。

 あの日のグッピーやクラスメイトのように。


「絵、描かないの?」


 うつむいていた僕の顔を郁人が不思議そうに覗き込んできた。


「じゃ、じゃあ描くからそのフェンスの前に立って。湖を眺めている感じで」

「おう」


 郁人がポーズを取ると、デッサンを始めた。郁人はスタイルがいいから、普通に立っているだけで様になる。湖を眺める横顔も、風になびく黒髪も綺麗だ。


「あ、カモが泳いでる。あれは魚か?」


 表情の変化が乏しいけど、今の郁人はなんだか楽しそうだ。モデルになっていることを忘れているのか、僕に背を向けて湖を覗き込んでいる。


「ちょっと動かないで、じっとしてて」

「なんで?」

「なんでって、動いたら描けないよ」

「そうか、モデルって大変だな」


 郁人は腕を組み、フェンスに背中を預けた。もう最初とポーズが全然違っている。結局、僕も好きに描くことにした。


「描けたからもう大丈夫。ありがとう」

「もういいのか?」

「うん。暑いし、もう帰るよ」

「じゃあ、俺も帰る」


 今日も郁人は自転車を押して、僕の隣を歩く。

 直射日光とアスファルトの照り返しの両方からの熱で、肌がジリジリと焼けるように暑い。何度も額の汗を拭った。

 郁人の首にも汗の粒が光っている。自転車に乗った方が歩くより涼しいだろうし、早く帰れるのに。今まで何度かそう言ったが、郁人は口を閉ざしていた。

 駄菓子屋の前までくると、郁人は自転車を止めて店の中に入っていった。

 帰るべきか、待つべきか、今日もまた悩んだ。店の前で右往左往しているうちに、郁人が出てきた。今日はラムネを二本持っている。

 郁人はそのうちの一本を僕に差し出した。


「夏樹、ラムネ好きだろ? ほら、お前の分」

「あ、ありがとう」


 好きだと言った覚えはないが、今日も半ば強引に押しつけられた。

 ビー玉を瓶の中に落とすと、溢れ出る炭酸水を急いで口に含んだ。冷えたラムネが火照った喉に染み渡る。生き返るような心地がした。


「ラムネ、美味しいね」


 無意識にそう呟くと、郁人は微笑んだ。

 とくり、と高鳴る胸。郁人の笑った顔を見たのは初めてのことだった。

 少し速くなった心音を静めようと、ラムネの瓶を握りしめてうつむく。

 水滴が光る瓶の口に、水槽を見つめるあの日の少年の唇を思い出して、窒息しそうになった。




「ただいま」


 引き戸を開けて家に入ると、煮物のいい匂いがする。

 台所で夕飯の支度をしていたばあちゃんは、穏やかな笑顔で「おかえり」と言った。その笑顔に、もやもやと渦巻いていた気持ちが少し落ちついた。

 僕はばあちゃんとこの家でふたりで暮らしている。両親は東京に住んでいて、父さんは美大の教授、母さんは絵画教室で講師をしている。

 自分の部屋に荷物を置くと、すぐに夕飯の支度を手伝った。手伝うといっても、ちゃぶ台を綺麗な布巾で拭いたり、ばあちゃんが盛りつけた料理を運ぶくらいしかできない。それでもばあちゃんは、「ありがとう」と言って喜んでくれる。

 ばあちゃんとふたりきりで囲む食卓。薄暗い電灯の下で小さなハエが舞っている。

 鶏肉と筍の煮物は味がよく染みていて美味しい。いつものばあちゃんの味に安心する。


「夏樹、最近様子がおかしいね。学校で何かあったの?」

「えっ、別に……何もないよ」

「本当に? ばあちゃんは心配だよ」


 ばあちゃんも両親も、僕が同性愛者だと知っている。そのことで、小学生の頃から中学を卒業するまでいじめられていたことも。

 両親は都内の高校に通って、一緒に住むことを提案してくれていた。だけど、それは僕が拒否した。

 確かにこの町に辛い思い出はたくさんあるけれど、それ以上に僕は自然が溢れるこの場所が気に入っている。

 それに、今の高校は同じ中学出身の人が少なくて、どうにか上手くやれている。


「何かあったらすぐに言うんだよ。ばあちゃんは夏樹の味方だからね」

「うん……」


 目頭が熱くなった。ばあちゃんの優しさにはいつも感謝している。

 昔、僕は男が好きなのだと、男の人しか好きになれないのだと泣きながら打ち明けた時、ばあちゃんは一緒に泣いてくれた。そんな優しいばあちゃんを心配させたくはない。

 明日から夏休み。しばらくひとりでいれば、この気持ちも落ちつくだろう。

 そっと息を吐きながら、夜風に揺れる風鈴の音とコオロギの鳴き声を聞いていた。



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