三
校舎の外に出ると、生温い風が頬を撫でた。日が傾き、昼間よりいくらか暑さが和らいだように感じる。
ヒグラシの鳴き声を聞きながら、僕は足元に伸びる影を見ながら歩いていた。顔を上げることはできなかった。
何故なら、さっき美術室の前で別れたはずの郁人がついてくるからだ。
郁人は僕の隣で自転車を押して歩いている。
「あ、あのさ、自転車乗ったら?」
郁人は何も答えない。やっぱりあの絵を理由に僕を脅すつもりなのではないだろうか。身体がぶるぶると震える。
「……家、こっちの方向なの?」
「俺の家、お前の家の近くだから」
「なっ、なんで僕の家知ってるの?」
「今朝、お前が家から出るところ見かけた」
その言葉に驚いて、あんぐりと口を開いた。見られていたなんて全然気がつかなかった。しかも、近所に住んでいたなんて。
「……どうして、高三のこの時期に、こんな川と湖と山しかないような田舎に転校してきたの?」
そう口にしてから、教室で水谷さんたちが同じような質問をして、淡々とあしらわれていたことを思い出して後悔した。
「先月、母さんが事故で死んだ。両親は小学生の頃に離婚してるから、ここに住むじいさんの家に居候することになった」
僕は息を呑み、すぐに言葉を返すことができなかった。こういう時、なんて言葉を掛けたらいいのか分からない。それに何よりも、僕に事情を話してくれたことに驚いていた。
「そんな、お母さんが……ご、ごめん。余計なこと聞いて……」
「別にいいけど」
突然、郁人が足を止めた。
赤い文字で『ラムネ』と書かれた暖簾を見つめている。
そこは昔からある小さな駄菓子屋だった。茶色く錆びついた浅葱色のトタン屋根。店先の色あせたプラスチック製のベンチは、所々ヒビが入って欠けている。
郁人は店の前に自転車を止めると、僕に何も言わず店の中へ入っていった。
置いていかれた僕は、一緒に店に入るべきか、待っているべきか迷う。そもそも一緒に帰っていたわけではないのだから、このままひとりで帰ってしまおうか。
悩んで店の前をうろうろと往復しているうちに、郁人が戻ってきた。
薄水色のラムネの瓶を手に持っている。瓶の表面を流れる水滴が、夕日に照らされてきらりと光った。
瓶の口を押すと、カラリとビー玉が落ちる音がした。郁人は半分ほど飲むと、僕にラムネを差し出した。
「これ、半分やる」
「えっ、僕はいいよ」
「暑いだろ、飲めよ」
半ば強引に押しつけられて、慌てて受け取った。瓶の中で小さな泡の粒が空に向かって浮き上がり、水面で弾けて消えていく。その様子を眺めていると、早く飲めと促された。
ラムネを飲むのは久しぶりだ。口に含むと、舌の上で炭酸がシュワシュワと弾ける。甘酸っぱくて、懐かしい味がした。一気に飲み干すと、瓶を店の前のカゴに入れた。
その後、ふたりの間に会話はなかった。鬱蒼とした葉が生い茂る、薄暗い山道のような坂を下っていく。だんだん視界が明るく開けて、大きな川が見えてきた。
川には美しいアーチ型の白い橋が架かっている。地元の人はめがね橋と呼んでいて、僕の家はこの橋の手前の川沿いに建つ一軒家だ。
「俺のじいさんの家、橋を渡った先の青い瓦屋根の白い家だから。じゃあな」
「う、うん」
向こう岸の青い瓦屋根の白い家。それは、ちょうど川を挟んだ僕の家の向かいの家だった。僕は近所付き合いをあまりしないけど、あの家に住むおじいさんの顔はなんとなく知っている。
郁人は自転車に跨ると、橋の先へと走り去っていった。
口の中にはラムネの味が微かに残っている。僕はその後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた。
*
あの日、キスをしたのは僕からだった。
彼のことを僕は『しいちゃん』と呼んでいた。顔はもうぼんやりとしか思い出せない。
しいちゃんとは、六年生になってから仲良くなった。
いつもふたりで川で魚を捕まえたり、絵を描いて遊んでいた。
生き物係の当番の日は、僕たちだけ最後まで教室に残って、水槽の硝子にぴったり額をくっつけて、水面に浮かんでは消える泡や揺れる水草、色鮮やかなグッピーを眺めていた。
水槽に張りついた彼の手に自分の手を重ねる、それだけでよかった。
たまに手をつなぐ、それだけでよかったのに。
あの日、僕は彼の唇に口づけてしまった。
しいちゃんは、その翌日から学校に来なくなった。やがて、転校してしまったと聞いた。
それと同時に、僕はホモだといじめられるようになった。
あの日の僕らの秘密は、クラスメイトに見られていたらしい。
ホモがうつるから、と誰もグッピーの世話をしなくなった。グッピーが一匹死ぬたびに、僕のせいだと責められた。数少ない友達もひとりずついなくなった。
キスをした時、しいちゃんは青白い顔をしていた。それは水槽の照明のせいか、僕のせいか、今となっては分からない。
ただ、彼を傷つけてしまったことは確かで、僕はあの日のことをずっと後悔している。