表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/13


 校舎の外に出ると、生温い風が頬を撫でた。日が傾き、昼間よりいくらか暑さが和らいだように感じる。

 ヒグラシの鳴き声を聞きながら、僕は足元に伸びる影を見ながら歩いていた。顔を上げることはできなかった。

 何故なら、さっき美術室の前で別れたはずの郁人がついてくるからだ。

 郁人は僕の隣で自転車を押して歩いている。


「あ、あのさ、自転車乗ったら?」


 郁人は何も答えない。やっぱりあの絵を理由に僕を脅すつもりなのではないだろうか。身体がぶるぶると震える。


「……家、こっちの方向なの?」

「俺の家、お前の家の近くだから」

「なっ、なんで僕の家知ってるの?」

「今朝、お前が家から出るところ見かけた」


 その言葉に驚いて、あんぐりと口を開いた。見られていたなんて全然気がつかなかった。しかも、近所に住んでいたなんて。


「……どうして、高三のこの時期に、こんな川と湖と山しかないような田舎に転校してきたの?」


 そう口にしてから、教室で水谷さんたちが同じような質問をして、淡々とあしらわれていたことを思い出して後悔した。


「先月、母さんが事故で死んだ。両親は小学生の頃に離婚してるから、ここに住むじいさんの家に居候することになった」


 僕は息を呑み、すぐに言葉を返すことができなかった。こういう時、なんて言葉を掛けたらいいのか分からない。それに何よりも、僕に事情を話してくれたことに驚いていた。


「そんな、お母さんが……ご、ごめん。余計なこと聞いて……」

「別にいいけど」


 突然、郁人が足を止めた。

 赤い文字で『ラムネ』と書かれた暖簾を見つめている。

 そこは昔からある小さな駄菓子屋だった。茶色く錆びついた浅葱色のトタン屋根。店先の色あせたプラスチック製のベンチは、所々ヒビが入って欠けている。

 郁人は店の前に自転車を止めると、僕に何も言わず店の中へ入っていった。

 置いていかれた僕は、一緒に店に入るべきか、待っているべきか迷う。そもそも一緒に帰っていたわけではないのだから、このままひとりで帰ってしまおうか。

 悩んで店の前をうろうろと往復しているうちに、郁人が戻ってきた。

 薄水色のラムネの瓶を手に持っている。瓶の表面を流れる水滴が、夕日に照らされてきらりと光った。

 瓶の口を押すと、カラリとビー玉が落ちる音がした。郁人は半分ほど飲むと、僕にラムネを差し出した。


「これ、半分やる」

「えっ、僕はいいよ」

「暑いだろ、飲めよ」


 半ば強引に押しつけられて、慌てて受け取った。瓶の中で小さな泡の粒が空に向かって浮き上がり、水面で弾けて消えていく。その様子を眺めていると、早く飲めと促された。

 ラムネを飲むのは久しぶりだ。口に含むと、舌の上で炭酸がシュワシュワと弾ける。甘酸っぱくて、懐かしい味がした。一気に飲み干すと、瓶を店の前のカゴに入れた。

 その後、ふたりの間に会話はなかった。鬱蒼とした葉が生い茂る、薄暗い山道のような坂を下っていく。だんだん視界が明るく開けて、大きな川が見えてきた。

 川には美しいアーチ型の白い橋が架かっている。地元の人はめがね橋と呼んでいて、僕の家はこの橋の手前の川沿いに建つ一軒家だ。


「俺のじいさんの家、橋を渡った先の青い瓦屋根の白い家だから。じゃあな」

「う、うん」


 向こう岸の青い瓦屋根の白い家。それは、ちょうど川を挟んだ僕の家の向かいの家だった。僕は近所付き合いをあまりしないけど、あの家に住むおじいさんの顔はなんとなく知っている。

 郁人は自転車に跨ると、橋の先へと走り去っていった。

 口の中にはラムネの味が微かに残っている。僕はその後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた。




 あの日、キスをしたのは僕からだった。

 彼のことを僕は『しいちゃん』と呼んでいた。顔はもうぼんやりとしか思い出せない。

 しいちゃんとは、六年生になってから仲良くなった。

 いつもふたりで川で魚を捕まえたり、絵を描いて遊んでいた。

 生き物係の当番の日は、僕たちだけ最後まで教室に残って、水槽の硝子にぴったり額をくっつけて、水面に浮かんでは消える泡や揺れる水草、色鮮やかなグッピーを眺めていた。

 水槽に張りついた彼の手に自分の手を重ねる、それだけでよかった。

 たまに手をつなぐ、それだけでよかったのに。

 あの日、僕は彼の唇に口づけてしまった。

 しいちゃんは、その翌日から学校に来なくなった。やがて、転校してしまったと聞いた。

 それと同時に、僕はホモだといじめられるようになった。

 あの日の僕らの秘密は、クラスメイトに見られていたらしい。

 ホモがうつるから、と誰もグッピーの世話をしなくなった。グッピーが一匹死ぬたびに、僕のせいだと責められた。数少ない友達もひとりずついなくなった。

 キスをした時、しいちゃんは青白い顔をしていた。それは水槽の照明のせいか、僕のせいか、今となっては分からない。

 ただ、彼を傷つけてしまったことは確かで、僕はあの日のことをずっと後悔している。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ