二
放課後、美術室で机の上のリンゴをデッサンしていた。
今日は美術部の活動日なのだが、美術室には僕ひとり。美術部の部員はほとんどが幽霊部員で、そのひとりが同じクラスの水谷さん。僕は彼女と美術室で顔を合わせたことは一度もない。でも、今日は彼女のおかげでこうして安心して絵が描ける。
僕には、もう随分と長い間友達がいない。
ひとりでいる方が気楽だし、僕はひとりでいるべき人間だ。先生は僕がクラスで孤立しているのを気に掛けてくれたのかもしれないが、僕には転校生を案内するなんて高度なことはできない。
目の前のリンゴに集中していると、突然、窓の外から女子生徒の悲鳴に近い歓声が聞こえてきた。驚いて肩が跳ねた拍子に、手元の線がずれた。
窓の外を見下ろすと、テニスコートに人だかりができている。
テニスウェアを着た部員の中に、ひとりだけ臙脂色のジャージを着ている人がいた。
よく目を凝らして見ると、うちのクラスの転校生だった。あれはおそらく前の高校のジャージなのだろう。ラケットを握ってコートに立っている。
彼はボールを宙に投げると、ラケットを振りかざした。力強いサーブに相手の部員は反応できず、一発で決まった。
その瞬間、再び沸き上がる黄色い歓声。よく見ると、水谷さんやクラスの女子たちがテニスコートの周りを囲んでいる。歓声の正体はこれだったのかと納得した。
ラケットを振るう長い腕、コートを駆ける長い脚、広い背中、風で乱れる黒い髪。無意識のうちに彼を目で追っていて、目が離せない。
気がつけば、スケッチブックを開いていた。軽やかに、時に力強く宙を舞うテニスボールのように、夢中で白い紙の上に鉛筆を走らせる。
試合が終わると、再び大きな歓声と拍手が沸き起こった。
その時、急に転校生がこちらを振り向いた。
目が合った瞬間、どきっと心臓が音を立て、慌ててカーテンの裏に隠れた。
僕はただ絵を描いていただけだ。だから、別に隠れる必要などなかったのに、不審に思われたかもしれない。
それでも身体が勝手に動いてしまったのは、疚しいことをしているという自覚があったからだろう。
心臓の鼓動が鎮まるまで、僕はしばらくそこから動けなかった。
窓から夕日が射し美術室が橙色に染まる頃、ようやく絵を描き終えた。
戸締りをしたか確認して電気を消すと、鞄を肩に掛け、スケッチブックを腕に抱えて扉を開けた。
「遅い」
美術室から出た瞬間、急に声を掛けられて小さく悲鳴を上げた。
さっきまでテニスコートにいた転校生が、腕を組んで廊下の壁に寄りかかっている。今はジャージではなく、制服に着替えていた。
「えっ、あ、あの……」
どうして転校生がここにいるのだろうか。彼は教室で会った時と同じように、何か言うわけでもなく、じっと僕の顔を見ている。
さっきの言葉は僕ではなく、他の人に向けたものだったのかな、と廊下をキョロキョロと見回したが、ここには僕たちしかいない。
「あの……ど、どうしてここに……」
「さっき、テニスコートからお前が見えたから」
「あ、ああ、そっか……テニス部、入ったの?」
「いや、担任がテニス部の顧問だろ? 前の高校でテニス部だったって言ったら、練習に来いってうるさくて」
「そ、そうなんだ」
今日の気温は三十度。暑いはずなのに、冷や汗が流れる。
やっぱり彼は僕に会いに来たようだ。勝手に絵を描いていたことに気づいて、怒っているのかもしれない。
「あの、柳瀬くん」
「郁人」
彼は僕の声に被せるように、ぶっきらぼうな口調で自分の名前を言った。
「名前で呼んで。苗字は呼び慣れてなくて。俺もお前のこと夏樹って呼ぶから」
「えっ? ああ、うん、郁人……あの、なんで僕の名前知ってるの?」
先生は僕の苗字を呼んだが、まだ下の名前は名乗っていなかったような気がした。
郁人は口を閉ざして、僕の目を見つめている。突然訪れた沈黙が、すごく気まずい。
「さっき、数学の教科書に書いてあったの見た」
「あっ、そうなんだ……」
「美術室って、ここにあったんだな」
「うん……って、あれ? 学校の案内、まだしてもらってないの?」
「案内、お前がしてくれるんだろ?」
「えっ? いや、その、それは水谷さんたちが代わりにすることになって……」
再び僕たちの間に流れる沈黙。
郁人の視線から逃れたくて、スケッチブックを抱える両手に力を込めた。
「それ、見せて」
それ、と郁人が指さしたのはスケッチブックで、思わず狼狽えた。
やっぱり郁人は怒っているんだ。そうでなければ、僕に会いに美術室まで来るはずなんてないだろう。
「む、無理! 絶対ダメ!」
「なんで? お前の絵見てみたい」
「へ、下手なんだよ! 美術部で一番下手くそなんだ。だから、見せるほどのものじゃなくて……って、ああっ!」
鞄の中にしまおうと焦っていると、手からスケッチブックが滑り、大きな音を立てて足元に落ちた。慌てて手を伸ばしたが、郁人の長い腕が僕より先に拾い上げた。
一枚、一枚、紙をめくるたびに、心臓が嫌な音を立てる。まるで地獄へのカウントダウンのようだ。
「へえ、上手いな。あ、この絵」
郁人が手を止めた絵。それはまさしくさっき描いていたもので、一番見られたくなかった絵だった。
「これって俺?」
「えっ、ち、違う!」
「でもジャージのデザインが同じだし、顔も似てるし、髪型も」
自分の顔から血の気が失せていくのを感じる。そこまで分かっているなら、もう流石に郁人ではないと言えなかった。
「いや、あの、最近、人物を描く練習をしていて……い、郁人の骨格とか筋肉って綺麗だなって、バランスがいいというか、モデルにぴったりというか……」
口から出まかせで焦って言い訳をした。上手い言い訳をしたつもりだったが、かえって変態のようになってしまって、素直に謝ればよかったと後悔した。
「そうなんだ。よく描けてるな」
「えっ? う、うん。ありがとう……」
あっさりとスケッチブックを返されて拍子抜けした。郁人は僕の苦し紛れの言い訳を疑っている様子はない。
怒られるか、脅されたりするのではないかと思っていたから、ホッとして緊張していた身体の力が緩んだ。
「じゃ、じゃあ、僕はもう帰るから」
今度こそちゃんとスケッチブックを鞄の中にしまうと、美術室の扉に鍵を掛けて、郁人の前から足早に立ち去った。