一
ふとした瞬間に思い出す。
誰もいない静かな教室。
青白く光るグッピーの水槽の前で、生き物係だった僕たちはキスをした。
小学六年生の夏、彼は同じクラスで一番仲がいい友達だった。
あの日、あの瞬間、僕らの友情は泡沫のように消え去ってしまった。
*
頬杖をついて、青い空を眺めていた。
窓越しに降り注ぐ太陽は、半袖のワイシャツから覗く僕の腕を焦がす。
窓際の席になって早二週間。真っ白だった僕の腕は、左腕だけ少し黒くなった気がする。意味もなく右腕と見比べた。
窓の端で揺れる瑞々しいイチョウの葉。遠くには、水面が白く光る大きな湖と青い山が霞んで見える。
僕は手元のノートに2Bの鉛筆で絵を描き始めた。
湖と山を描き終えて、なんとなく余白に太陽を足した。ぐるぐると渦巻きを描いて、周りにちょんちょんと線を引いていく。
その時、背後から風が吹き、捲り上がった紙を慌てて抑えた。
僕の真後ろに鎮座する大きな扇風機は、首を振るたびに骨を軋ませるような鈍い音を立てている。
僕たちの為に身体を酷使させていることには胸が痛むが、教室の一番後ろ、窓側の席の僕はその恩恵を一番受けていた。
そんな扇風機の音をかき消すくらい、今朝の教室は騒がしい。
東京から転校生が来る、その話題で持ちきりだった。
高校三年の七月、しかもあと数日で夏休みというこの時期に来る異色の転校生。
職員室の前で見かけたという女子が「イケメンだった」と発言したことが発端となり、騒いでいるのはほとんどが女子だった。
予鈴が鳴り、先生が教室に入ってきた。
周りのクラスメイトたちがひそひそ話す声で、転校生も教室に入ってきたと分かったが、僕は教壇の方を一度も見ることなくノートの落書きを続けた。
「みんな、このクラスの新しい仲間を紹介するぞ。柳瀬くんだ」
「柳瀬郁人です。よろしく」
拍手の音と共に、ようやく顔を上げた。
黒板の前に立つ転校生は黒髪で背が高く、女子の噂通り整った顔立ちをしている。
仏頂面で寡黙そうな雰囲気を醸し出していて、僕たちと同じ黒い学ランではなく、水色のワイシャツにグレーのスラックスの制服を着ていた。
「柳瀬の席は、一番後ろの真ん中。窓際の橘の隣だ」
先生が僕の名前を呼ぶと、転校生と目が合った。
その瞬間、鉛筆の芯が小さな音を立てて折れた。
彼が少し驚いたような表情をしていることに気がついて、慌てて目をそらす。僕の横を通って席に着いた時、ほのかに石鹸のような淡い香りがした。僕はうつむいて、机の木目を数えていた。
「じゃあ、橘。後で柳瀬に学校の中を色々と案内してやってくれ」
ハッと勢いよく顔を上げると、クラスの全員が僕に注目していた。普段あまり目立たない僕がこんなに視線を浴びるのは久しぶりだ。
「あ、あの、先生。どうして僕が……」
「だって、隣の席だろう? それに男同士の方が、相談しやすいこともあるだろうし」
隣の席なら反対側に水谷さんがいるじゃないか、とふたつ隣の黒髪の女子を見たが、先生はそんな僕の心の内を察したかのように、同性だからという理由をつけ足した。
おそるおそる隣の転校生を見ると、彼はじっと黙って僕を見つめている。
本人を目の前に嫌だとは言えず、僕は再び机の木目を数え始めた。
「ねえ、柳瀬くんって東京から来たんでしょう?」
「うん」
「なんでこの時期に転校してきたの?」
「家の都合」
「もうすぐ夏休みだよ?」
「別に気にしてない」
「柳瀬くん、彼女いるの?」
「いない」
ホームルームが終わると、転校生はクラスの女子たちに囲まれていた。
矢継ぎ早に飛ばされる質問に、淡々と答えている。話を聞きたいわけではないが、隣の席だから嫌でも聞こえてしまう。
鉛筆の芯を削りながらため息を吐いていると、突然、大きな音を立てて机の上に両手が置かれた。
驚いて顔を上げると、水谷さんがいた。
「ねえ、橘くん! 橘くんは今日の放課後、部活があるでしょう? だから、代わりに私たちが柳瀬くんに学校の中を案内してあげたいんだけど、いいかな?」
水谷さんの満面の笑みと背後の女子たちの圧力に、僕には拒否権が無いことを悟った。
ちなみに、彼女も僕と同じ美術部なのだが、余計なことは言わずに頷いた。
頷いた時、転校生の視線を感じたが、気がつかないフリをした。きっと彼も根暗な僕より、明るい女子たちといた方が嬉しいだろう。
それに、正直助かった。水谷さんたちが案内役を買って出てくれたおかげで、僕の心配は杞憂に終わった。