夜明け前の予約席
「あなたは間違えたのよ。」
ざあざあ、ざあざあ。
強い雨が、瀟洒なガラス窓へと打ち付けている。
物憂げに頬杖をついたまま、気のない風でそちらを見る。
月は濃い雨雲に覆われて、一瞬たりとも見えやしない。
ここの地方は雨が多い。今日もまた、気のふさぐような曇天と、ざわめく灰色の海とが延々と広がっているのが見えた。
ひどく荒涼とはしているけれど、いつもとなんら変わらない、冷え切った夜だった。
「今日も・・・来ないのね」
人気のないホテルラウンジ。
ぽつりと落ちたその一言は、どこか寒々しい石の床に思いのほかよく響いてから、ほんの少しの余韻を残して消えた。
「きっといつか、あなたは後悔するの。それで、必ず・・・。」
ティーテーブルの向かい側は、もう長らくの空席だ。
4年前に出て行ったあの男は、このホテルの従業員だった。
──オーナーの娘と道ならぬ恋に落ち、その父親に疎まれた。
夜明け前、まだ誰も起きてこないくらいの早朝に、ここの席でこうして二人、カフェオレを楽しむのが常だった。
・・・「戻ってくる」。
そう置き手紙には書いてあったけれど。
あれ以来、彼の行方は杳として知れないままだ。
ざざん、ざざん。
灰色をしたひどく冷たい波が、黒い岩壁に打ち寄せてはしぶきを残して消えてゆく。
規則的なこの音は、まるで微睡みを誘う子守歌のようだ。
聞き馴染みがあって、ひどく耳に心地よい、
──帰っておいでとどこか遠くで囁くような、そんな音。
少し、眠たくなってきた。
・・・あれから幾夜、ここでこうして待っただろうか。
あれから何度、いっそ待つのをやめてしまえたらと思ったことか。
忘れてしまえば、きっともっと楽だった。
(・・・けれど。)
そこまで考えて、祈るように目を伏せた。
カチャリ。
・・・知らぬ間に、眠ってしまっていたようだ。
起きてきた従業員が気を利かせたのだろうか、気が付けば目の前にカップが置かれていた。
恐らくこれの音で目が覚めたのだろう。
それは白く芳しい香気を放つ、美味しそうな一杯のカフェオレだった。
陶器のカップをゆっくり手でくるめば、冷えた体にシンと沁み入るように温かい。
こぼさぬように、温かさを逃がさぬように、そうっと口元へと運ぶ。
「ん・・・おいし。」
不思議と、どこか懐かしい味がするカフェオレだった。
人心地ついたような気分になって、周りを見回してみるが人影はない。
・・・どうやら気を遣わせてしまったらしい。
「さ。・・・私もそろそろ行かなくちゃね。」
そう独り言ち、カップを置いた。テーブルに手をついて、そうっと静かに立ち上がり、
そうしてそのまま席を離れた。
いつの間にかあんなに強かった雨は上がって、瀟洒で古びた窓からは、朝の眩しい光が差し込んでいた。長い夜は終わり、嵐は去ったのだ。
あとには手つかずのカフェオレが一杯、ゆっくりと静かに湯気を立ち昇らせていた。