動き出す歯車
次の日、広川が出社すると越野が挨拶をしてきた。続けて何か言われると思った広川は、身構えたが、その挨拶だけだった。広川はほっとしたような、肩透かしをあったような気がした。
他の部署の人たちもいつもと同じような様子で仕事をしていた。昨日の一件がまるでなかったのかのように、部署の中はいつものように時が流れていた。
いつものように、業務をして昼食の時間になったら一人で食堂に行って、空いている場所を探して一人で食べて、また午後に机に戻った。何も変わらない、いつものように業務を続けて行った。
昨日の騒動が嘘のように、平々凡々と一日が過ぎていく違和感を覚えた。越野も部署の人たちも、また変わらぬ様子で、業務を行っていた。
広川はおかしいと思ったものの、今までが同じような状況に置かれることが多かったため、特段気にすることもなく業務を続けた。時折、同じ部署の古戸がこちらをちらっと見ることが有ったが、彼はそういう癖があって、今回も特別に何かを言おうとして見たわけではないと広川は一人で納得させようとしていた。そして、その日の業務時間も終り、定時で会社を退社した。昨日色々あったので、疲れが溜まっていたのか、広川は帰宅するとベッドに倒れこむように俯せになり、そのまま夢の世界に入って行った。
中国語劇の練習は着々と具体的に進み、後は同窓会前日に各地から大学に集まって、リハーサルを兼ねた練習をする段取りになっていった。みんな仕事をその二日間は休んだり、家族の予定を調整してくれたりして、参加できるようになった。
また、日が近づくにつれて、細々としたことも具体的に話が進んでいった。衣装部門として中心に行っていた衣装の確認や劇中に使用する背景物や置物や小道具は、小松健一が手配してくれることになった。小松は、当時口数の少ない無口な性格だったが、手が器用でファッションセンスのある後輩だった。今はアパレル業界でデザイナーをしているようで、劇員一人一人と衣装の打合せをしていた。結構楽しそうに劇員と連絡をとりながら、話を進めてくれている様子だった。
また当日は中国語で演劇をするため、中国語が分からない人たちに、日本語でセリフの字幕をつける必要があった。学生時代当時は、プロジェクターに予め作っていた日本語のセリフを舞台側面に映すようにしていた。
当時は智恵が中心になってパソコンにプロジェクター用のセリフを打ちこんでいた。その時の広川にはそれが珍しくて、思わず智恵に「すごいな」って言ったら、「私も今勉強中なんだから、上手くできるかわかんないよ」と訳の分からない照れ隠しを含んだ様子で言われたこともあった。
この方法には、当時も劇員が、せっかく練習して演技も心を込めてやっているのに、わざわざプロジェクターを使って、側面にセリフを映るようにしたら、観客の目線がそっちに移ってしまうという意見もあった。ただ、最終的に当時の予算と発想ではそれ以上の事は難しいと、渋々話がまとまりプロジェクターでセリフを投影し対応していた。それだけでも、当時は画期的な事で、誰もそれ以上求める人たちはいなかった。それ以降も、同じ方法で字幕を作る時代が続いていたようだった。
ただ、時が過ぎて様々な技術の発展があり、また参加者の中にも様々な方法を考えてくれる人たちもいた。プロジェクターに映すという点では、昔と変化はなかったが、プロジェクターを映す対象が白いものではなくても、壁に特殊な薄い膜を張っておけば、プロジェクターの文字が鮮明に映すことができるようになっていた。
実際にその映像をライングループに流した時、皆の反応がすごかった。茶色の家具に膜をはって映し出した文字が綺麗だった。背景がどんな状態であっても、綺麗に文字を映し出せる技術に驚きと歓声の声が一人一人から上がった。これを考案したのは、以前印刷会社で働いていた小山和夫だった。少し線の細い体型をしていて、目も細い小山は笑うと目が無いとたまに言われていた。こつこつ目標に向かって頑張るタイプで、印刷会社を退職してから、2年間医療関係の専門学校に通い、理学療法士の資格をとり活躍しているようだった。
また劇中の照明や音響関係は、広川の大学時代の先輩だった大学の職員にお願いして、現役の演劇部にそれらを担当してもらうことにした。江波元子が作成してくれた劇員の動きや出入りのタイミングを纏めたイラストと説明を手渡して、一緒に考えてもらった。
そして実際に、現役の演劇部の方に動画の練習風景を見てもらい、大学の近くに住んでいる梅森が時間を調整して演劇部の学生たちと直接意見交換しながら、照明の入れ方や音響を選んでくれていった。
その他の一つ一つの役割を、当時のメンバーが自分たちの得意な分野で担っていた。知らぬ間に、人はこんなにも変わっていくものなのか……っと広川はグループ内のやり取りを見ながら思った。あの当時、少なくとも、自分が責任者としてシナリオや振付を長い時間かけて考え出したことが、今では部員一人一人の手を通じて完成されていくのが嬉しかった。
また皆の成長ぶりに戸惑いながらも、広川は彼らを頼もしく思った。ただ直に、それも当り前だとまた思い直した。もうあれから15年が経っている。自分がその時間を生きてきたように、みんなも同じようにその時間を生きてきたんだ。変わっていて当り前だ、と思った。
そして広川は当日のホテルの手配や移動手段等を確認しながら、当日の関係者の対応方法を考えて、みんなに伝えていった。中国駐在時代に、仕事で日本からの出張者のホテルや食事の手配をしていた経験もあったので、そういった手配は、広川は得意だった。最初は、所長の砂川から強引に言われるままに、嫌々やっていた業務の一つだったが、やればやるほど楽しいと感じるようになった。ただ、大変な業務には変わりなく、二度としないと思うことは良くあった。その経験が活きてくる時がくると思っていなかったので、当時を思い出しながら、広川はくすっと一人笑った。