残された手紙
広川は、鬱々として下を向きながら、家に到着した。そしておもむろに、ポストをのぞいてみると、中にはA4の茶封筒が入っていた。裏面の差出人を確認すると、圓谷和幸と書いてあった。英一の父親からだった。広川は、ほっとすると同時に、よりによって今日に届くなんて、とつぶやいた。 そして、ため息を吐いた。その白い息は、まだ冷たく薄暗い街灯の寒空で一層寂しそうにしていた。
広川は、玄関のカギを開けると、その封筒を持って部屋に入った。鞄を机に置いて、それから封筒をそっと置いた。そして椅子を引いて腰を下ろした。部屋はまだ、寒々しかった。
そして封筒を開けようと、はさみに手を伸ばした。中身を切らないように、封筒のふちを折り曲げてはさみを入れた。
広川は、半分まで切ると、途中で手を止めた。そしてふと考えた。この二日間という短い間で、様々なことが起こり、自分自身でも消化ができないことばかりだった。昨日も、シーンごとにグループラインに練習の動画やメッセージを参加者が投稿していたが、それすらも見る気にはなれなかった。
グループラインを開いてみると、いつも通りに皆の練習の動画や意見が投稿されていた。智恵が作ってくれたグループは、活発な意見の交換の場所になっていた。また、元演劇部の江波元子が参加して、シーンごとに演劇指導をするようになってからは、劇の練習らしくなっていった。
元子は、学生時代も中国研究会に入っていたが、他のクラブ活動にも兼部していた。最初の頃は中国語劇の練習には入ってくることはなかった。しかし、広川が運営上で行き詰まっていると少しずつ練習に参加してくれるようになっていった。実際に元子が活動してくれたのは、短い間だったが、様々なシーンの構成や思いを語ってくれた。学生時代の公演会が成功したのも、元子が参加してくれたからだと広川は思っていた。
今回も元子は学生時代と変わらぬ情熱でグループラインにメッセージを書いてくれていた。元子が指導する前は、セリフを練習することに重きを置いていたが、元子はそれに加えて、そのシーンの登場人物の動き、登場人物同士の間合い、そして劇で出てくる配置物まで絵にして指導してくれていた。
例えば、一番初めのシーンは、中学生を演じる4人の登場人物が出てくるが、その一人一人に細かく場面設定を作っていった。セリフを話す時には、どんなポーズをとって、他の3人はどんな立ち位置で、その人の話を聞くのかっといったことを劇員たちと意見交換しながら、一つ一つクリアにしていった。劇員は、その元子との意見交換から自分の演技を細かく言葉にして、何歩位歩いて、何秒位セリフを話すのか等ある程度明確にしながら、練習に取り組むようになっていった。最初は慣れない練習風景ではあったが、試行錯誤をしている中で、自分の演技を場面全体でどのように振舞ったらよいのか動きを取り入れながら、セリフを話すようになり徐々に劇らしくなっていくのがわかった。
劇員として参加していた細川祐樹は、別の場面で登場していた同級生の河井裕子と一緒に結婚をしていたが、一緒に家族で参加しているのも微笑ましかった。細川が出ている場面では、裕子が練習のパートナーとして、練習に付き合っていた。裕子は、はっきり物を言うほうだったので、撮影をしている時に細川にアドバイスをしているような素振りをしていた。子供が二人いるらしく、細川と裕子に笑いながら、「今の動き変だよ」と指摘をしている風景も映っていた。その笑い声が、広川の心を少し和ましてくれた。
ふと、そうした練習風景や劇員の投稿を見ながら、広川はある思いに至った。ここにいる人たちは、自分の仕事や家庭や他にも自分のやりたいことがあって、このグループラインに参加している。でも、その投稿している文面や練習の動画からは、あまり日常の話題には触れてなくて、この演劇を成功させようという思いで溢れていて、それは見れば見る程、ひしひしと伝わってきた。
広川は、そんなことを思いながら、また手を動かし始め、封筒の中身を取り出した。その中に、また古い封筒が出てきた。かなり前の封筒らしく汚れもあった。広川はそれを軽く何度も撫でた。そして、封筒の端をはさみで切った。そうすると、その中から古い便箋用紙が入っていた。
広川は大事そうに、丁寧に折られている紙を広げて読んでいった。
「二十二世紀の僕へ。と言っても、それまで生きられる自信はないから、僕の孫か曾孫が見るかもしれないかな。なんか不思議な気分。21世紀に生きている自分が、22世紀のことを考えてる。劇中では、平和な時代だっていう設定だけど、いまいち実感がわかない……広川さんには悪いけど……」
英一が当時書いた文章だったようだ。広川は少しそこで笑った。そして、また読み続けた。
「もうすぐ、この演劇も終りになるのが寂しかった。たった2ヶ月という時間だけど、なんか家族の様に思えた。色んな人に、この場で出会えた。その中で、様々なことが有って、ここでは書ききれないけど、皆には本当に感謝してる。出会いが人を変えるっていうけど、僕は心からそう思えたよ。本当にありがとう。
世の中は、偶然のような必然の出来事しかない、って誰かが言っていたけど、ここで出会えた人たちも、出来事も偶然ではなくて全てつながってる。だから、この語劇が終って大学を卒業して皆が離れ離れになったとしても、きっとどこかで出会えると信じてる。だから、寂しいことなんてない。きっと、この劇中に続く22世紀へのどこかで、僕たちは出会えると信じてる」
広川の眼に涙があふれてきた。鼻水をとっさに手で拭いた。そして、近くのティッシュペーパーを取って、その水滴がついた手をさっと拭いた。そして最後の便箋用紙を開いた。
「だから、この今生きている時間が大事だと思う。自分の一日一日が22世紀に向かう大事な一日だと思うと、大変な勉強もバイトもこの語劇の練習も、いつか思い出に変わって、僕の心に残っていく。それは、皆の心の中に生き続けていく。悲しいことも嬉しいことも、全て後から振り返って自分の思い出になっていくから。この一日を精一杯生きていこうと思います。
それでは、公演が無事に終わるように僕も最後まで頑張ります!皆ありがとう。
圓谷 英一 2001年10月30日」