明かされる真実
次の日、広川は出社すると、鞄を机に置き、ジャケットを脱いで、ハンガーに掛けて、机の前に座った。そしてパソコンの電源を押して仕事を始めようとした。そうすると、越野と及川が二人で歩いているのが見えた。広川が出社していることに気づいた及川が、手をあげて言った。
「広川、おはよう。遅かったな」
「はは、いつも彼の出社はこんなもんで…、私の教育が至らず大変申し訳ない」
越野が申し訳なさそうに及川に謝っているようだった。そして越野は広川の方を見て言った。
「出社すぐで、申し訳ないが、今から昨日の会議で出た懸案について、広川にも来てほしいんだ。」
「私に関係することですか?」
「ああ、ここでは少し話しにくいことだから、商談室に行って話をするよ」
越野と及川は少し談笑しながら、広川の前を歩いていき、空いている商談室を見つけると、後ろを振り返り、「ここにしますか」と言って入って行った。広川もそれに従うように、後を追って入った。
商談室に入ると、少しひんやりしていたので、広川は暖房のスイッチを入れた。そして、及川と越野が先に椅子に座り、何か小声で話をし始めた。そして、広川も、それに対面するように椅子に座った。及川は、最近の本社の状況や人事の事に詳しく、越野に話をしていた。越野は、それに深く頷いたり、及川の意見に賛同している様子だった。広川は、自分とは関係のないことを話していると思い、暫く上の空だった。
それに気づいた及川は、広川に向かって言った。
「あ、悪い悪い。さっきの話も大事なんだけど、広川に伝えたいことがあってな。えっと5年前に広川が本社で手掛けたプロジェクトの事さ」
広川は、むっとした面持ちで答えた。
「覚えてますよ。及川さんが次長になるきっかけになった案件ですよね。上手くいきましたよね」
「こら、言葉に気をつけろよ。広川」
越野が広川を見据えて注意した。その反応に苦笑しながら、及川は話した。
「いえ、いいんですよ。広川がそう思うのも無理のない話ですから」
及川は少し二人を見つめながら、言った。
「さて、どこから話せばいいかな……」
そして、少し広川の顔を見た。
「確かに、あの時広川の仕事を邪魔したような感じになったのは悪かった」
「僕の邪魔をした?僕だけじゃないですよね。砂川さんがあの件でどれだけ上海のスタッフを説得して案件をまとめたのか知らないからそんなことが言えるんですよ」
砂川は、上海駐在時代の中国事務所の所長で、広川の良く世話をしてくれていた50代の方だった。
「砂川所長にも迷惑をかけたが、それでも俺はあの判断は今でも正しかったと思ってる。そして、あの当時の広川の意見は早急すぎたと思ってる。」
広川は、下を向きながら話を聞いていた。その姿を見た越野が広川を注意しそうになったが、及川がそれをさえぎりつつ言った。
「砂川さんが、本社に復帰することになりそうだ」
「え、砂川さんが……」
「ああ、次回の取締役会の流れでな」
「でも、あの方は白石常務とずっと仲が悪くて。あの時も、最終的に私たちのプロジェクトが頓挫したのも、それが原因だったと」
「ああ、ただ……」
及川はそう言うと、広川に近づき、小さな声で言った。
「白石常務はもうすぐ退任されるんだ」
広川はそれを聞くとびっくりして声をあげた。
及川は、少し間をおいて、また話を始めた
「それを受けて今まで白石常務の影響下にあった方達や彼らに遠ざけられていた人たちにも、大なり小なり異動もあるだろう。砂川さんの異動もそれに伴う一連の人事だ」
「まだ詳しくは公表されていないので、話せるのはこれだけだが、いずれ分かるだろう」
「それで、私に関係のあることって言うのはどういうことですか。常務が退任されることと私との関係があるっていうのですか?」
「ああ、関係のある話だ。広川は常務から嫌われていたからな。なんというか、思ったことを、空気を読まずに、ずばっという性格と言うか、素直と言うか、ひかないところがな」
及川は、越野をちらっと見て、話を続けた。
「だから、あのプロジェクトで広川と敵対することになった常務は、広川が疎ましくなり、事あるたびに役員会で広川を責めるようになった。白石さんの他にも、当時の広川の態度を好ましく思わない方々もいたのも事実だ」
及川は、「それに」っと言うと広川の方を 見つめて話を続けた。
「広川は気付いていなかったかもしれないが、当時は次の社長が誰になるかということで、その椅子取りゲームが行われていたんだ」
「椅子取りゲーム……」
広川はその及川の言葉を呟くように繰り返した。
「ああ、だから皆、あの頃将来社長に近かった白石常務に気を遣ったところもあるんだ」
広川は、及川の話を聞きながら、上を向いて息を吸い込み、また及川を見て言った。
「それでは、砂川さんをはじめとする人たちが、あの頃不可解な人事で異動になったのも、全てそういう社内の都合だったんですね」
広川の声は低かったが、その言葉は一つ一つにとげがあった。及川は、今度は言葉を慎重に選ぶようにして、答えた。
「そういうことになるな。しかし、この点は一つ広川に言っておかないといけないことがある」
及川は一呼吸おいて、また話した。
「広川が、ここに来てから不思議に思ったこととかは無かったか?」
「不思議に思ったこと……」
広川はまた、及川の言葉を繰り返してから、
言った。
「何を言いたいのか意味が良くわからないので、もう少し具体的に言ってもらえないでしょうか?」
「それは、私の方から説明しようと思います」
ずっと及川の隣で話を聞いていた越野が、口を開いた。そして、少し考えてから話し始めた。
「実は、広川がここに転籍になる前に、本社の朝田社長に呼び出された。高川取締役と一緒にな。始めは朝田社長が直々に私たちに何の用事かと思ったんだが、ある指示をされたんだ」
越野は、及川の方を見ると、及川は相槌をうつように頷いた。
「今でも、あの日の事を覚えているよ。広川がここに転籍するから、よろしく頼むな。と言われたこと。そして、その後に朝田社長から、こう指示されたんだ。『広川がここに来たら、何があっても決して特別扱いはするな。いやむしろ、他の社員以上に厳しく指導するんだ。そして、やる気を失うように仕向けるんだ』……ってな」
越野がそこまで言うと、広川の顔が紅潮し始めた。そして、席をバンと叩いて、その場を立ち去ろうとした。及川が止めようとすると、広川はそれを振りほどき大きく強い口調で言った。
「やっぱりそう言うことだったんですね。朝田社長が指示していたから、皆僕の事を弄んでいたってことですよね」
「広川、話を最後まで聞いてくれ。これにはまだ続きがあるんだ」
越野は、広川の眼を真っ直ぐに見た。
「朝田社長は厳しい方だが、そんなことを言う方ではなかったから、その言葉を聞いた時は腑に落ちなかった。ただ、社長がわざわざそのような言い方をしたから、きっと何かあるのだろうとその時は思った。ただ、広川が転籍して一緒に仕事をするようになっても、社長が言うことの意味を考えてみたが、正直良くわからなかった」
越野は、及川をちらっと見た。そして、また続けた。
「最初の頃は、仕事も覚えが特に良い方ではなかったし、簡単な仕事もびっくりするような間違いをしてたし、そそっかしいところもあったりして、ビジネスマンとしては少し欠けているところもあった」
及川は、それを聞くと、口を押えて声がもれないようにした。広川は相変わらず、二人と眼を合わさないように下を向いていた。
「だから、正直社長が広川を気に掛ける意味がわからなかった。でも、転籍してから4ヶ月目にあったグループ会社の提案制度の公募があった時に、社長が言った意味が少しずつ分かり始めた。広川の意見書を初めて見た時には、驚きだったよ。広川がわずか4か月の間に、この会社の事を理解して書いた内容だったからだよ。高川取締役にも見せに行ったら、他の社員が出した意見書よりも出来が良くて実現性があると、珍しく嬉しそうにしていたよ」
越野はそういうと、広川は顔を上げた。少し曇った顔だった。越野が続けて言った。
「勿論、様々な数字的根拠が薄いのも気になったが、そんなものは、この会社に長くいれば少しずつわかってくる。だから、取締役も納得して、本社に意気揚々と説明しに言ったんだ。俺も、取締役も本社の人たちがきっとこの意見書を見たら、喜んでくれると思い込んでいた。」
それを聞きながら、広川は時折頭を掻いていた。ただ、そこで越野は言葉に詰まったように、数秒考えた。その沈黙は時間としては短いものだったが、重たい空気を吐くように越野は、また口を開いた。
「でも、取締役が意気揚々とグループ会議に乗り込んで行ったその日の夜に、厳しい顔をして戻って来られた。そして、グループ会議に出した書類を見せられて言われた。『白石さんに広川が出した意見書を何も見ずに言われたよ。時間の無駄だってな。そして嫌味っぽく、高川さんも落ちたもんだな、本社から追い出されたやつの意見書を提出するなんて』ってな」
越野は少し息を吐いた。そして、話を続けた。
「高川さんがあんなふうに悔しがる様子は見たことなかったよ。それで、その時の雰囲気やグループ会議の内容が感じ取れた。それから沈黙が流れた。そして、高川さんがふと口を開いたんだ。『社長があれだけ、広川のことを気にかけていた意味がやっと分かった……白石常務が、本社でどれだけ実権を握って、リードしているのか思い知ったよ。朝田社長でも、本社の力関係や全体的なことを考えると、白石常務に反旗を立てられるのも困る。だから広川のことを本社から遠ざけることで、守ろうとしていたのだと思う。だから、本社から目の届きにくいここに出向させて、目立たないように仕向けろと言われていたんだ』ってな…。その言葉は高川さんにしては、小さく弱弱しい声で、気の毒なほどだったよ」
越野は一呼吸を置いて、当時の状況を思い出しながら、話を続けた。
「でも、高川さんはそれから息を吸って吐き終わるとはっきりと言ったんだ。『本社の方達がそういうつもりなら、俺にも考えがある。社長の言うとおり、広川を徹底的に指導してやる。やる気が無くなるぐらいにな。だから、我々の任務は大変だぞ。越野君。なにせ悪人を演じないといけないからな』そう言われる、高川さんの眼は少し潤んでいたよ。俺も、それを見て頷くことしかできなかった……」
越野が言葉に詰まると、及川がポンと越野の肩を軽くたたいた。そうすると、越野は続けて話した。
「それからは、広川が仕事で上手くようなことが有っても体よく無視して、逆に失敗したら皆の前で嘲笑するようにした。そうしたら、思った通り……、いや誰だって、そんなことをされたら、やる気なんてでるもんじゃない。だから……」
越野はまた黙った。ただ眼の奥にうっすら光るものがあった。それを少し拭うと、言った。
「悪かったな。広川。俺が今更何を言っても言い訳に聞こえるかもしれない。広川の辛さを補うことなんてできないかもしれないが、許してくれ」
越野は広川に頭を下げていた。
「嘘ですよね……」
広川は、小さい声を発した。越野は、頭をあげると、言った。
「いや嘘じゃない。全て、あの時期に本当に起こったことなんだ。本当は、高川さんから話をしてもらった方が、事の本質を広川に伝えれるんだが……」
広川は、頭を抱えながら、越野の話を遮るように、強い口調で話しだした。
「やっぱり、おかしいですよ。及川次長も越野課長も。もし、仮に今仰ったことが、本当だったとしたら、白石常務が退任されるなんて大事なこと、僕のようなグループ会社の一係長に話をするはずがないでしょ。越野課長も、また僕をだます気なんですね。もう、そんな手には乗らないですから」
「いや、越野課長の言っていることは、本当なんだ。それに、これは、朝田社長から、広川に伝えてもいいって言われてることなんだ」
「そんなことあるわけないでしょ。今まで好き勝手に人の人生を弄んでおいて……。」
そういうと、広川は椅子を蹴るように立ち上り、ドアノブを強く握りしめ、ドアを強く叩くように閉めた。残された越野と及川が、「広川」っという声が少し商談室の廊下に響いた。