広川の憂鬱
広川は、自分の部署に戻る途中で、及川の話を考えてみたが、思い当たる節もなかった。広川が本社からこの会社に移ってから5年が経つが、本社の人たちと、ほとんど連絡は取らなかった。それが急に用があると言われても、さっぱり意味が分からずに、逆に腹立たしい思いがした。部署に戻ると越野が、少し怒った様子で、広川に詰問した。
「本社から及川次長が来ているのに、あの態度は一体どうなっているんだ。お前が本社にいたのは知っているが、礼儀正しくしないといけないだろ」
広川は、少し黙って「申し訳ございません」と小さく答えた。広川がそう言うと、越野は腕組みをして言った。
「まあ、いい。気をつけろよ」
そして、続けて真剣な面持ちで、広川に話しかけた。
「及川次長とは何か話でもしていたのか?少し戻ってくるのが、遅かったじゃないか」
広川が越野を見ると、まじめな顔をしていた。普段は、越野が普段見せない顔つきだったので、戸惑った。ただ、及川に言われたことが気になり、会議でその話が出ると思い直し、先ほどの出来事と及川が言っていた内容をそのまま越野に伝えた。そうすると、越野は下を向き考え込んでから独り言のように言った。
「君のことが今日の会議で……」
そして、顔を上げると広川の顔を見すえて
「及川次長がそのように言っていたんだな」
「はい。確かに、私に関係のあることだと言っていました。私にはさっぱりわかりませんが……」
「そうか……まあ会議が始まればわかることだからな。それにしてもご苦労だったな」
普段そのような話し方をしない越野に戸惑いを覚えながら、広川は「それでは業務に戻ります」と言って、自分の机に向かった。同じフロアの目線が広川に集まっているのを感じた。
そして、16時50分頃になると、越野が椅子から立ち上がり、ハンガーに架けてあったジャケットを着始めた。そして書類を手に取ると、同じ部署にいる社員に伝えた。
「今から少し会議になるから、今日の終礼は無しです。定時になったら、各自業務が終わり次第退社してください」
途中、越野が広川の方をちらっと見た。広川は目が合わないように目線を下に落とした。
そして、越野が階段を上る音が聞こえなくなると、皆が少しざわつき始めた。広川と同じ係長職の古戸が広川に、「君も大変だね……」と同情するかのように話しかけてきた。広川は興味がなさそうに、「もう慣れましたから、平気ですよ」と言った。
そうすると、古戸は「ふーん」と言って他の社員と話をし始めた。時折こちらを見ているのが気になったが、特段気にするほどではなかったので、無視を決め込んだ。
そして定時が来ると、広川は直に机にあるものを整理して退社準備を始めた。その様子を見ていた古戸は、また広川に話しかけた。
「もう帰るのかい。今日の会議は君に関係するって言っていたけど、それを聞いてから退社してもいいんじゃないかな……」
全うな意見ではあったが、古戸が言うと変に詮索をしているように、広川は感じた。それに今の広川にはその会議でどのようなことが話されていようと関係がないと思っていたので、「今日は用事がありますので先に帰らせて頂きます」と言って鞄を持って退社した。
広川は帰宅途中で、及川が言っていた“広川に関係すること”を考えてみたが一向に見当もつかなかった。5年の月日を経て、僕に関係のあること……そんなことあるわけないじゃないか、軽く鼻で笑った。少し当時の出来事を振り返ったが、すぐに嫌な気持ちになり、頭を振ってまた歩き出した。
家に戻ると、郵便ポストを少し開けてみたが、和幸からの手紙は入っていなかった。“まだか”と一人呟くと、カギを開けて部屋に入って行った。




