第8話(天界サイド)
「お待ちください、やはり様子がおかしい」
ションダはどこか厳しい声でそう言った。ひとりの関節を極めながらアレイレルはハールに目配せをした。アレイレルの組み敷いている鹿男は苦悶に呻いている。ションダが何か気づいたことがあるなら、手早く済ませてしまいたい。
なにせ悶絶していたり気絶していたり、鹿男たちの状態は様々だったがこの巨体である。スタミナとタフネスは計りようがないのだから、彼らがいつ動き出して負傷を押して襲い掛かってきてもおかしくはない。果たして人質に取られた仲間を見ておとなしくしてくれるかどうかも分からないのだが、それでも切り札を温存しておくに越したことはない。
「様子がおかしいって?」
「はい。前回襲撃されたときには逃げることに必死でしたのでわからなかったのですが、彼らは戦うことに積極的ではないように見えます。角を前面に出しての突撃もしてきませんでしたし、大声を出して聴覚を麻痺させようともしませんでした。
そもそも、彼らは非常に平和的でおとなしいヒト族なのです。それがどうして我々を襲ったのか、ずっと考え続けていました……彼らは、何者かに脅されて強要されている、もしくは操られているのではないでしょうか? おしゃべりで気のいいシルヴァ族がこんなにも変わってしまうなんて、他に考えられません!」
「………………」
「………………」
不穏な空気があたりを支配する。その沈黙を破ったのは、この場にいる誰でもなかった。
「ふっ……あははははっ! あははははははっ!」
「誰だ!」
「そこのラディクス族の言うとおり、シルヴァ族の男たちは操られていますよ。ですから話し合いは無駄と言うものです」
ハールたちを見下ろしていたのは、白髪頭の男だった。まず何がおかしいかと言えば、そいつが宙に浮いていることだ。まさにイリュージョンだが、ここはだだっ広い平地である。タネも仕掛けもなければ魔法だと納得するしかないだろう。修道士のようなマントを身に着けているが、その色は灰色、細い足を包むズボンも灰色だ。
白髪とはいえ二十歳くらいの若者である。整った顔立ちをしているが、傲慢そうな表情ともったいぶった物言いがそれを台無しにしている。二十歳くらいと判断したのは、落ち着き払った態度と生意気さがその年代にありがちだからだ。
「おいおい、操ってるのはお前なんじゃないか?」
アレイレルがかまをかける。若者はにっこり笑って言った。
「へぇ、なかなかどうして頭は回るようですね~」
「……チッ」
「ええ、そうです、ぼくが彼らをけしかけたのです。陽気が大きく減じていたのでなにが起こったのかと様子を見に来たのですが、ラディクスの数が減っていないじゃないですか。妖精をうまく殺せたんですか?」
相手との距離はおよそ十メートル、挑発的な長口上の合間にハールが駆け出していた。浮いている男の下にいた鹿男もそれを見て動き出す。掴みかかろうとする道着の大鹿の手をすり抜けて、ハールはおよそ二メートルほどの高さに浮かんでいる魔法使いに肉薄する。
「ふ、愚かな……なにをするつもりかはわかりませんが、通用しませんよ」
余裕の笑みでもって魔法使い、麗筆は左手をかざした。導くは【障壁】の術である。虹色の半透明の膜が麗筆の足元を覆っていく。これで相手が何をしようと一度は完全に防げる……この膜は触れた瞬間にはじけ、相手に衝撃を与えるのだ。また、その場に固定されることから使い勝手は抜群とは言えないものの、時と場所を誤まらなければ有用だった。
ハールは走ってきた勢いのままに思い切り足を踏み切って跳躍した。それには強いひねりが加わっている。二回転半、麗筆から前身をそむけたハールの左足の踵が、麗筆の足を刈るように捉えた。
「なっ……うあっ!!」
麗筆は術が破られた、いや、まるっきり無効化されたことと足を刈られた痛みとで二重に衝撃を受けてうろたえた。いや、それどころか無様にも空中に身を投げ出し、もがきもした。なんとか地面に身を打ち付けることなく体勢を整えたは良いが、その胸中は乱れに乱れていた。
(ば……かな……!! なぜ【障壁】が作用しないんです? しかも……【障壁】は残ったままだ。これはいったいどういう理屈なんでしょう!)
こう見えて実は数百年を余裕で生きている麗筆である。わけのわからない出来事に直面するのも、それどころか肉体にダメージを受けたのも久しぶりすぎてその感覚を忘れてしまっていた。麗筆はずきずきと痛む足の痛覚を麻痺させ、同じく体勢を整えたハールに向かい合った。
「ぼくの名前は麗筆。お見知りおきを」
「ハール・ドレンジーだ」
「では、ハールさん、少々おつきあい願いましょうか。この不可解な現象を解決せねば眠れませんから」
「こちらも言いたいことは山ほどあるし、聞きたいこともあるが、それはとにかく試合った後だな」
「では……始めましょうか!」
「っ!」
手始めに相手に見えやすい【火条】の術をハールに飛ばす麗筆。彼は手応えのある玩具を前に興奮するこどもと同じだった。しかし、対するハールには麗筆の右手から放たれる炎の矢がまったく見えていなかった。
「な……んだ? なにが起こってる?」
見えもせず聞こえもせず、まして自分の胸を貫通した一条の炎すら、ハールは知覚することができなかった。麗筆の愉しげな表情が、いぶかしむように、また恐れを抱いているように変わった。
「効いてない……いや、それどころか……」
「まあいい。かかってこないならこちらから行くぞ!」
麗筆とハール、その戦いの火蓋が切られた。一方、アレイレルはと言うと……。