消えた少女
それは夏が終わりかけた頃だったが、まだまだその夏の暑さが続いていた。
その日は特に熱く、うだるようだった。
少年は、その大きな公園を三周回ってランニングするのが日課だった。少し暑いとは言いながらも、マラソンをしなければどうもその日の一日が終わった気がしないからである。
いつも三周回ると、そのまま軽く流しながら家に帰るのだが、その日は喉が渇いて仕方がなかった。ちょうどその時に大きな木の近くの自動販売機が目についた。
「あれ、こんなところに自動販売機なんかあったんだっけ?でもラッキー!」
「あぁ、喉が乾いたな、あそこでスポーツドリンクでも飲んでみるか」
いつもは多少は喉が乾いていても、そのまま家まで直行するのだが、その日に限って目についた自動販売機の前にきた。少年が飲みたいドリンクはちょうど百円だった
「確かにあったな、百円玉が」
彼はそのままランニングシャツと、ランニングパンツのスタイルで自動販売機の前に立ち、汗をかいた手でパンツの中のポケットに手を入れた。
「おっ、あったぞ」
パンツの中にちょうど百円玉が一個入っていたのを思い出した。ポケットの中をまさぐって、百円玉の感触を手で感じるとそれを握り締めて、販売機の投入口にそれを入れようとした時だった。汗で滑るその手からポロリとその百円玉は、自動販売機の下のコンクリートに落ちて、コロコロと販売機の下に転がっていった。
「あっ、いけね!」
少年は、しゃがんで販売機の下に手を入れようとしたが奥の方らしく入らない。
「なんか、無いかな?」
そこに転がっていた長めの細い木の枝をつかんで、掻き回して引き出そうとしたが百円玉が出てくる気配は無い。
「チキショー!」
こういう特に限って汗は噴き出てくるのだ。その時、しゃがんでいる少年の隣に誰かが立ったような気がした。少年は思わず下からその人の顔を見上げた。
そこに立っているのは少女だった。
「ねえ、この百円玉を使って」
「えっ?」
彼は立ち上がって少女と並んだ。目の前にいるのは可愛い少女だった、お下げ髪が似合う。
「遠慮しないで、喉が乾いているんでしょう」
「まあ、そうだけれど」
「さぁ」
「じゃあ、とりあえず借りるか」
「うん」
少年は、少女から借りた百円玉を自動販売機の投入口に入れた。コロコロと音がして、次にガチャンと言う音がし、スポーツドリンクがぽとりと取り口に落ちた。冷えたボトルを掴むと、少年は一気に喉の中に流し込んだ。五臓六腑に染みわたるような清涼感が少年の体中を駆けめぐる。
「うわぁ、うめぇ!」
少女は少年の飲みっぷりを面白そうに見ていた。
「あぁ、助かったよ、ありがとう、生き返ったみたいだ」
「良かったわね」
「ありがと、ところで君はどこの人?」
「近くの病院に入院しているの、毎日ここまで体にいいからお散歩」
「ふーん、そうなんだ、じゃ、借りたお金返すから、明日も来る?」
「そうね、ここにはたまに調子のいい時しか来ないけど、明日もこようかな」
「うん、じゃあ、僕も来るね」
「うん」
次の日も炎天下にも関わらず、少年はいつものコースをランニングしていたが、少し道をそれて、昨日と同じ時間にあの公園にやってきた。
するとあのベンチに少女が座っていた。
「やあ……」
「こんにちは」
「今日も暑いね」
「そうね」
「あっ、そうだ、昨日借りた百円を返すね」
「いいのよ、私はお金を直接触ると体によくないから」
「へえ、そうなんだ、じゃぁ、おごってもらうね」
「うん、百円だけれど、プレゼントするわね」
「ありがと」
三日目も、少年は大きな公園の周りを三周周り、いつものベンチにきた。あの日以来、ここに来るのが彼は楽しみになっていた。
「今日も暑かったね」
「そうね、でも暑いのは今日で終わりよ」
「へえ、そんなこともわかるんだ」
「そう、あたしは天使だし、なんでもわかるの」
そう言って少女は笑った。
「へえ、天使だってさ」
少年も笑った。
「この近くに病院があるなんて知らなかったな。いつもここを通らないから気がつかなかった」
「そう」
何故か、その少女の顔が寂しそうだった。
「今日も、汗びっしょりね、でも気持ちよさそう」
「うん、気持ちいいよ」
「羨ましいわ」
「僕が?」
「そう、あたし病気だし、走れないから」
「どこが痛いの?」
「内緒よ」
「そうだね、そのことを聞かないことにする」
「ありがと」
「いつも走っているの?」
「だいたいね」
「わたし来られないとき病院の窓からみてるね」
「へえ、そこからでもみえるんだ?」
「私は天使だから、どこからでもみえるのよ」
「へえ、天使だからねえ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「うん、じゃ、またね」
「またね」
そう言いながら少女は、それらしき方向に向かって帰って行った。少年は彼女の後ろ姿を見送っていた。病人と言うには歩きが軽やかで、いつの間にかいなくなった。
それから三日ほど激しく雨が降ったために少年はマラソンを休んだ。
そして四日目にいつものように公園を三周回って、あの場所に来た時、様子が変わっていた。
あの大きな自動販売機も、ベンチもなかった。
「あれ、場所を間違えたかな?」
しかし、大きな木は相変わらず立っている、場所は間違っていない。
「撤去されたのかな?」
そう思いながら、公園を掃除するおじさんがいたので聞いてみた。
「おじさん、この間まであった自動販売機とベンチは?」
「えっ?」
おじさんは怪訝な顔をしていった。
「私はずっとこの公園を掃除しているけれど、そんなものは無いよ」
「うっそお!」
「じゃあ、この近くに病院はある?」
「ないなあ、この広い公園の近くにあるわけないし」
「ええ?」
「あ、そう言えば、この公園ができる前には、病院があったという話を聞いたことがあるな」
そう言っておじさんは、箒を持ちながら他の場所に移動していった。少年が自動販売機があった辺りを見てみると、木の葉の下から、あの木の枝と百円玉が転がっていた。それを手に取ってみると、自分が落とした百円玉に間違いなかった。
その時どこからか涼しい風が吹いてきた。
その風の音に乗って鈴のような少女の声が聞こえるような気がした。
「三日間、楽しかったわ」
少年は心の中で思った。
(うん、僕も)
少年は軽やかに公園をもう一周回って、家に向かって走っていった。
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