092 母性
ぱり、ぱり、と歩く度に地面にできた薄いガラスが割れる。風に揺れる木々からはらはらと葉が舞い降りていた。その中で鉄の檻が銀に鈍く反射している。この暖かい日差しも冷めるような残酷な現場だ。
ベラポネは迷うことなく鉄の檻に近づいていく。
地面が焼かれてガラス化しているのに両親の亡骸は消し炭にならず骨で残っている。自分で焼いたわけではなさそうだ。
封印は上手くいっていたらしい。檻の中の小さな人影は奥へ奥へと後ずさるばかり。
目の前まで来てしゃがみ、中を覗く。真っ赤な眼が影で光るほどベラポネを睨んでいた。まだかなり幼い少女。最近ようやく会話ができるようになったばかりではなかろうか。
自分の身長くらいもの狐の白い尾が生えている以外は完全に人の姿だ。見事な美貌、一本に結われた長くふわふわとした白い髪。紅の鮮やかな着物に身を包み、一切の穢れがない。
もっとすさんでいるかと思いきや、つい昨日まで手入れされていたかのようだった。それはすなわち、事件はここ数日のことで、かつ、彼女自身は傷一つ負わなかった強さがあることを意味している。村一つ壊滅させたと言うのなら、その力を制御できているかは怪しい。
見た目こそ子供だが、その怒りに満ちた眼は獰猛な獣だ。
「二人を返しで!」
少女が叫んだ瞬間、檻の中がぶわりと炎に満たされた。
反射的に飛び退いたが熱気だけで服の一部が焦げてしまった。凄まじい熱量に檻が一瞬で赤を超えて橙に焼かれ光っている。
少女は炎の中から顔を出し、その焼けた檻の鉄格子に掴み掛かった。
「殺ず! 殺しでやる!!」
鉄格子をがたがた揺すり、今にも封印を破りそうな勢い。
鉄がこれだけ光るなら1000度を超えているくらいだ。息をするのも苦しいほど乾燥し、まともに近づける温度ではない。
ベラポネは逃げもせず、その場に座り込んだ。
「そんなに私を殺したいなら、そうすればいいわ。でもここにいたら、あなたのパパやママのようにいつかあなたも殺されてしまう。絶対に逃げるのよ」
杖を取り出し、一振り。ベラポネは檻を破壊し、少女を解放した。
途端、封印に抑制されていた熱量も解放され檻はどろどろに溶けて蒸発し始め、地面はふつふつと沸騰しはじめた。舞う木の葉も空中で焼かれて灰で降ってくる。
離れていても喉が焼けるよう。汗は出たそばから蒸発する。想像を絶する熱量に身動きが取れず、ベラポネは死を覚悟した。これはレベル999でもまるで虫けら同然の相手だ。
杖を構えるどころか、懐にしまった。
手で顔を庇いながら乾く目を細める。少女は球状の炎に包まれ、その中で姿を変え大きくなっていっていた。
そうして、とうとう本来の姿を現す。
やや赤みがかった真っ白な体毛の、木よりも大きな狐の妖。黒い縁の赤い眼。長い牙が生え、歯茎を剥いてベラポネを睨んでいた。
代わりに熱気は収まったが、ベラポネは座り込んだまま逃げようとも戦おうともしない。ただじっと、両手を広げ、涙を浮かべて彼女を見上げていた。
「私の両親も殺されたわ。それからはただ死ぬのがこわくて生きているだけの辛い人生だった。だからせめてあなたには幸せになってほしい。私を生かすも殺すも、これからどう生きていくのかも、もう全部あなたは自由よ」
だが相手は人知を超えた存在。ベラポネはされるがままに仰向けに踏みつけられた。
本当に殺す気なのだろう。ベラポネは骨が砕かれ臓器が潰される激痛に襲われた。もはや痛みを超えて熱いと錯覚するくらいだ。
周りは炎の海と化す。ベラポネは狐の妖の脚を通じ、テレパシーで自分の記憶を見せた。
〇〇〇〇
215年前、ベラポネが5歳だった頃のこと。
ベラポネは治安の良いフォイに生まれ、両親と三人で田舎の小さな家に暮らしていた。
この日は父親も仕事が休みで三人で団欒していた。母親は二人目を授かり妊娠中だったので、ベラポネは父親の膝に座り、母親に本を読んでもらっていた。
「ねぇママ、次のお話も読んで」
「はいはい。今度はおねぇちゃんのお話ね。ベラポネももうすぐおねぇちゃんになるから、ちょうどいいわね」
「えへへっ」
そんないつもと変わらない平和なひととき。ふと、玄関をノックする者があった。
「すみませーん。ベルルッセンさーん。お届け物でーす」
三人とも心当たりがなく、不思議がった。
父親がベラポネを膝から降ろして立ち上がる。
「オレ見てくるよ。ベラポネもいい子に待ってるんだよ」
「はあーい」
父親は二人に微笑みかけ、玄関へ。
扉を開けると、白い正装に身を包んだ大男が二人と、黒い尖り帽子を目深に被った魔女らしき人物が一人。あまりに不審な人物たちだった。
「えっと……。どちら様で——」
乾いた銃声が響いた。
父親は腹を撃たれてその場に倒れてしまう。逃げろ、と力の限りに叫んだのが彼の最期だった。
「行くわよ」
魔女に促されて彼らは家に侵入。男たちは土足で走り回り、母親は裏口からベラポネを逃したところで丁度見つかってしまった。
ベラポネは裏口の扉の外から「お母さん! お母さん!」と叫ぶ。
「はやく、遠くに逃げて!」
扉の向こうで何発もの銃声が。
驚いて後退り、怯えて見ていると扉が開けられた。
ニヤリと人とは思えない異常な笑みを浮かべた大男が、血だらけの母親を踏みつけて出てきた。
ベラポネは腰を抜かしてしまい、軽々と担ぎ上げられて悲しむ暇もなく連れ去られてしまった。
その後どうやって移動したのかは覚えていない。連れてこられたのは真っ暗な夜の地方のどこかだった。
大男の肩に担がれ、どこかへ向かっていく。道中、道端には十字架に磔にされた小さな子供の骨がずらりと立てられ、月明かりに不気味に浮かんでいた。道を進むほどにその亡骸は腐肉が付き、最後には死んだばかりの死体になった。
恐ろしくてたまらず泣き叫んで暴れるも、大男の力には到底かなうはずもない。
やがてベラポネは石の祭壇へ強引に寝かせられた。手脚を鎖で繋がれて身動き一つ取れない。周囲には黒いローブを纏った亡霊のような魔法使いの男たちが大勢で取り囲み、こちらに杖を構えていた。
世界中から子供達が誘拐され、ここで何らかの実験が行われていたのだと幼いながらに悟った。犠牲になった子供達は磔にされ、外に飾るように放置されていたということだ。
だがしかし、ベラポネは生きていた。意識を失っていたようで、死んだと思われたらしく十字架に手に金属の杭を打たれて磔にされていたが、力ずくで剥がし、逃げて、逃げて、とうとう逃げ切ったのだった。
後に知ったことだが、それが魔女を作る儀式だったのである。本来、罪人を処刑する目的で禁術魔法が導入されることがあったが、女性は稀に生き残り、魔女となる現象があったのだ。それをベラポネは何の目的か、故意に行われ、偶然にも魔女となったのであった。
それからというもの、飲まず食わずでも死なず、病気もせず、何年も歩いて昼間の地方に帰ることができた。
けれど、死を目の当たりにして死を恐れて自殺などできず、年頃になっても恋をするのも両親の死が瞼に浮かんで恐ろしく、幸せそうな家庭をただ遠くから羨み、老いることのない膨大な暇を学問や魔術で潰すだけの生きる屍に成り果てていたのだった。
〇〇〇〇
ベラポネを踏んでいた狐の妖はその脚を離した。
終末のように赤く燃え盛る炎の海の中で二人。ベラポネは困惑する狐の妖の頬に手を触れた。
「……あなたはきっと、幸せになるのよ——」
狐の妖の姿がぼやけ、ベラポネは眠るように意識を失った。
それからどれだけ経ったのだろう。次に彼女が目を覚ますと、身体はもう痛まず、回復したようだった。炎も収まり、心なしか空気が澄んでいるような気がした。
驚いたことに、胸にはあの子供の姿で狐の妖がしがみついて泣いていた。そっと頭を撫でてやると、ごめんなさい、と。
「どうして、助けたの?」
「……分がんない、分がんない」
「……。そっか」
「パパと、ママに会いだい」
「……」
ベラポネは少女を抱きしめた。あやすように頭を撫でてあげる。
「そうね、私もよ」
「また言いだいよ……、大好きだよって」
「……。……。安心なさい、きっと、二人、とも、分かってるわよ」
父親の膝に座り、母親に本を読んでもらって過ごした、短くも長く暖かい日々をベラポネは思い返していた。もう150年以上も経つというのに、二人の顔も、声も、優しさも、まるで昨日のことのように覚えている。
ベラポネは目元を拭い、何度か深く息を吸って震える呼吸を整えた。
「私じゃあなたのママにはなってあげられないけど、あなたのパパとママの分まであなたのこと、幸せにしてあげたいな。良かったら一緒に、ここから逃げましょ」
狐の妖の少女は、ベラポネの胸の中でうなづいた。
これがベラポネとしらたまの出会いだった。しらたまの両親の亡骸はその場にベラポネが埋葬し、二人の旅が始まったのである。