091 狐の妖
それは50年ほど前、ベラポネが考古学の道から離れ、物質的ミルである水晶玉と共に冒険者を始めて間もない頃のことである。
ベスティーを募らず一人でありながらクエストをこなし、この日はいよいよ推奨レベル999のクエストを受け、太陽の国と呼ばれるアンビュリューズという国に来ていた。町外れの小さな村で山々が連なる森の中を切り拓いた、自然豊かな青々とした場所だ。
クエストの内容は封印された化け狐1体の討伐。
ベラポネが村に足を踏み入れれば、彼女の場違いに小綺麗なワインレッドの洋服姿に村人たちが気がつくや否や大騒ぎ。やれやれ、騒々しい、と呆れているうちにすぐさま腰の曲がった子供のような村長を貫禄ある大男が背に乗せて他の村人たちと共に大勢でやってきた。
「おお! その外国のなりは冒険者様でございますな!」
「ええ。この村のクエストを受けたベラポネといいます」
ベラポネは名乗るだけで会釈もしなかった。けれどツルッパゲに目が隠れるほどの白眉毛をした村長は大喜びで大男から降り、ベラポネの顔を下から満面の笑みで見上げた。白いカイゼル髭を撫でながら奥まっているくすんだ小さい瞳を輝かせていた。
「ふむふむ。まさかこのような別嬪さんが参られようとは驚きましたな。てっきりこやつのような大男が来るかと思っておりましたわい」
「あら、これでも私はきっとあなたより歳上ですよ」
「な!? なんと!? もしや、そなたは魔女というやつですかな?」
「ええ、いかにも」
村人たちがかなり訛った口調で「おおー、こいつぁすんげぇごっだなぁ」とざわつく。男の魔法使いなら多いのだが、魔女は世界でも数えるほどしかいない希少な種族なのだ。
村長はほっほっほ、とまた嬉しそうに笑った。
「いやはや、まさか98のこの歳で目上の方にお会いできるとは。久しく儂も若返った気分になれますなぁ。いやぁ、これは頼もしい。ささ、遠いところまでお疲れでしょう。集会所で歓迎いたします」
「いえ、いいのよ。疲れてなんかないわ。それより、問題の封印された化け狐とやらに会わせてちょうだい。楽しみで待ちきれないわ」
村長はベラポネの態度に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするが、すぐに笑みを浮かべた。
「おや……。ほっほっほ、流石は凄腕の冒険者様でございますな。では早速この儂がご案内致しましょう」
村長を背に乗せてきた大男が割って入る。
「村長、そいつぁ危険であんすよ。もっしものこっとばぁ、あんったら——」
「なに、後継ぎのことはこの前決めたであろう。どうせ儂はもう長くないんじゃ。未来ある若者には任せられんよ」
「そったらオイラも行くであんすよ。オイラぁももう40だけん、もう若ぐはねぇだ。それに、亡ぐなっだもんだぢのことさ考げぇだらよ、手ぇこまねで見どるだけったぁ、そいつぁあんまりでっせ」
村長は険しい顔をするも大男は頑として譲らない。結局、村長が根負けした。
「おまえの気持ちも分からんではないからなぁ。そこまで言うならしょうがない。じゃが覚悟はできてるんじゃろうな」
「もぢろんだ」
「うむ。良かろう。じゃあ足にばなってくれ」
村長は大男の背に乗った。
「それじゃあベラポネ様。案内いたしましょう。少し遠いので、お疲れになられたらご遠慮なくお申し付けくだされ」
「ありがとう」
そうしてベラポネは村長と大男と共に、封印されたという化け狐の元へ向かった。
道中、村長は化け狐のことを話してくれた。
なんでも、これから行くという隣の山には古来より、美しい女に化ける狐の妖がいるとの言い伝えがあったという。長い間、いとも簡単に山火事を起こすほどの炎を操るという彼女を恐れて、近隣の村では彼女に近づくことは禁忌とされてきた。
しかし、時代の流れに世界中が発展し、高度な技術を持つようになり、人々は大勢で一気に海を渡るようになり、空も飛ぶようになった。海を越えた貿易も盛んになり、このアンビュリューズにもちらほら移住してくる外国人も現れるように。その上、世界中の様々な問題を解決するために国際ギルド連盟が発足し、戦闘を好む強者たちが東奔西走する時代が幕を開けた。
そんなある日、化け狐の山で山火事が起きたという。
永遠と燃え続ける山火事に頭を抱えた当時の村長は、今回と同様にギルドへクエストを依頼し、事の収束を図った。
そうして駆け付けたのは爆破属性を司る屈強な大男だったという。当時の村長は村に厄災をもたらす化け狐を討伐してもらうことも視野に入れて大男にかけ合ったが、彼は心優しい人柄で、何が原因か分からないうちは化け狐に寄り添い、できる限り穏やかな解決を願った。
彼はたった一人で燃える山へ入っていき、その後すぐに山火事は収まったという。
こうして近隣の村には再び平和が戻った。数年の月日が経ち、誰もがあの大男が犠牲になってしまったと思っていた中、なんとその彼が美しい女に化けた狐の妖と共に村人たちの前へ姿を現したというのである。二人は妻夫になっていたのだった。
「あれは儂がこやつくらいの頃のことでした」
昔話を聞かせるように楽しげに話していた村長が難しい顔をする。
「あの冒険者さんは山の木の実や獣の肉を食べて生活していると話しており、三年ほどすると、子どもができたと言うて、そっからめっきり人前に現れなくなったのです。ですが、ちょうどその頃合いに、この辺でとある幽霊が出るようになりましてな」
「はぁ、幽霊?」
「ええ。先が尖った帽子に、真っ黒のローブを着た、女のようだったと、見た者は皆、口を揃えてそう語るのです」
「まるで魔女のような幽霊なのね」
魔女であるベラポネは皮肉を言ったつもりだったが、村長は「左様」と、話を続ける。
「ある日を境にその幽霊を見る者はぴたりとおらんくなったのですが、時期を同じくして、あの山から巨大な化け狐が現れたのです」
「え、化け狐って、夫婦になって落ち着いたんじゃなかったの?」
「それがどういうわけか……。しかも村を見下ろすほども大きく、すぐ近くにあったその村は先月、全滅してしまったのです。村長が命と引き換えに封印し、それ以来誰も近寄っておらんのですよ」
「ということは、これがその後初めての試みということなのかしら?」
「生き残りを助けようとこの辺りまでは来ましたが、この先は……。ご覧なされ、見えてきましたぞ」
村長がしわしわの指を差す方向は下を向いていた。ベラポネたちは崖の上に差し掛かったところで、断崖絶壁から生える木々の向こうには真っ黒に焼けこげた拓けた場所が見えた。被害に遭った村の焼け跡だという。
もう少し進むと、足元でぱりん、と小気味いい音で何かが割れた。
「……。これは」
ベラポネが拾い上げた破片を見た村長たちが目を見開く。それは砂が高温のあまり溶け固まってできた歪な形のガラスだったのだ。
ベラポネは言う。
「ここから先は相当危険なようね。封印されている場所の目星は付いているんでしょう? 教えてもらえればここで引き返してもらっても構わないわ」
村長と、彼を背負う大男は顔を見合わせ、村長が申し訳なさそうに言う。
「すまんのう。ここを真っ直ぐ行ったところに、今亡きこの村の村長が化け狐を封印するためにこしらえた檻があるはずじゃ。きっとそこに封じられておることじゃろう。儂の村の者達には既に避難するようには伝えてあるから、この山のことは好きにしてもらって構わん。どうか、ご無事で」
そうして村長たちと別れ、ベラポネは一人で山の奥へ奥へと進んでいった。やがて獣道は炭に黒ずみ、徐々に気温が高く、煙の匂いが漂いはじめた。
更に進んで、遂に辿り着いた。
木々が薙ぎ倒され、原型をとどめないほど真っ黒に炭化し、辺り一面にガラス化した地面が広がっている焼き拓かれた異常な空間。水面のように日光を反射する地面が白々と神々しいまでに、その鋼の檻を景色の中央に浮かべていた。檻の近くには黒ずんだ巨大な獣の骨と、大きな人骨が寄り添うようにして横たわっていた。
そして、空中に残留した、ただならぬ魔力の痕跡。ベラポネでなければ気づく者はいなかったはずだ。その狐の妖の夫婦はこの場所で魔法を使う何者かから子供を守るために戦い、命を落としたのだと。
「……返して」
まだ男とも女ともつかぬ小さな子供の声。
鋼の檻の中にいたのは、狐のような尻尾の生えた小さな人影だった。