009 新しい部屋
部屋へ案内すると言われたはずだったのだが、何故か黒羽たちは受付嬢たちが働いているカウンターの中へ誘導された。「どうぞこちらへ」と赤目の受付嬢が笑顔で促してくる。彼女が手で示したところにはあまり目立たない黒塗りの扉があり、そこを通ると分岐のない一本道の廊下が現れた。突き当たりにも扉が見えた。今度は真っ白の木の扉で金のノブがついていた。
受付嬢の背について進んでいく。彼女は扉まで来ると鍵を開け、音もなく押し開けた。
「うわ〜!」
たった今まで不安そうにしていたシロが部屋の美しさに思わず笑顔を咲かせた。
「ここがお二人のお部屋ですよ。ご自由にお使いください」
「キレ〜! ありがとうございます!」
シロは受付嬢から鍵をもらうやいなや子供のように駆け出し、黒羽が背中にくっついているのも忘れて大きなベッドにダイブする。
部屋は赤みがかったブラウンを基調としたスイートルームで、まるで高級ホテルだ。これが本当にホテルだったなら一泊十万近くいくに違いない。それをタダで毎日使わせてもらえるのだから、シロは大はしゃぎだ。
受付嬢が軽く握った手を口元に添えて小さく笑う。
「うふふ、ご満悦ですね。では、ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございました!」
受付嬢はひらひらと白い手を蝶みたいに振って扉を閉めた。
黒羽も改めて部屋を見渡す。入ってすぐに寝室になっているとはどういうことかと一瞬思ったが、一日の疲れを一刻も早く取ってしまいたいという冒険者たちの悩みに応えた結果なのだろうと考えて勝手に納得した。実際黒羽もすぐにゆっくりできるのはありがたかった。
今いるこのベッドから向かって左の端が入ってきた扉で、向かって中央にはもう一つ扉がある。完全に魔法の無駄遣いだが、透視能力でその先を見てみるとあちら側がやっとリビングだった。リビングへ入ると右へ曲がったところに下り階段があり、これを降りると広々とした温泉があった。二階分もあってしかもそのうちの一階は丸々温泉になっているとは、あまりに贅沢。黒羽は目を白黒させた。
「すごいな、まさかこんな部屋だとは思わなかった」
「ねーっ、すっごいね! しかも見て、あそこにも扉あるよ! お部屋まだあるみたい!」
「……そうだな」
黒羽はうっかり先に見てしまったからシロと喜びを共有できなかった。
「前に使ってたとこよりずっといいお部屋だよ! これから、黒ちゃんとここで一緒だね!」
「ああ、分かった分かった、分かったから、やめろ、頬ズリすな。毛が抜けちまう」
「いいじゃん、だってやっと、ふふ〜ん」
「やっと、何だよ」
シロが頬ズリをやめて、何か企んでいるような意味深な笑みを浮かべる。
「ふふん、やっと、二人になれたね」
「……そうだな」
「……、んん〜?」
違う、そうじゃないでしょ、と言いたげに口を歪めた。
黒羽は不意に彼女から離れ、ベッドからも降りてリビングへの扉の前へ。黒羽としては上手く照れ隠ししたつもりだったが、あからさま過ぎた。
「黒ちゃん、もしかして、照れちゃったの?」
「ああ、照れた照れた。恥ずかしくてたまらねーよ。満足か?」
「……もう」
「……、シロ。扉」
「知らない。黒ちゃん、瞬間移動で通り抜ければいいじゃん」
シロは雑な扱いをされて流石に頬を膨らませていた。しかし黒羽は気にせずに続ける。
「開けてくれよ。お前にも見せたいんだ。どこに何があるのか探索したくないか?」
「……探索。そだね、そろそろお風呂にも入りたいし」
お風呂にも入りたいし。その言葉が黒羽の頭の中で山びこのようにこだまする。
(風呂! 風呂、だと……。アホで無邪気なコイツのことだ。もしかしたら……、もしかするのか!? いや、待て。もし本当にそんなことになれば、俺は正気を保っていられるのか? まずい、この先にはデカイ風呂があるんだ。探索なんて言わなきゃよかった。このままじゃ——)
「はっ」
あれやこれやと黒羽は妄想してしまっていると扉が開いた。上を見上げればシロがこちらを無邪気な子供のような顔で見下ろしていた。
「あはは、何驚いてるのっ。黒ちゃんが開けてって言ったんでしょ」
「けっ、何でもねぇよ。それより、探索しようとか言ったばっかで悪いんだが——」
「わあ! 見て黒ちゃん! スッゴイ! これ、え!? リビングなの? こんな広いリビング見たことない! おお! キッチンまで真っ白!」
前言撤回はもうできなかった。
照明に白々と輝く清潔で明るいリビングが広がり、シロは再びはしゃぎ出してしまった。黒羽を出入り口に置き去りにしてソファに弾むように座ってみたり、キッチンの引き出しを漁ってみたり。
(……だめだ。コイツには、敵わねぇ)
とうとう黒羽は諦めてしまった。
しばらく呆れて見ているとシロは下へ降りる階段を発見。無論、その先には温泉がある。一日のうちにあの街外れからここまで移動し、街に到着してからも一悶着あったのだ。風呂に入りたくならないはずがない。シロは不思議そうに階下へ降りて行ったと思えば、数秒後には天にも昇るようなとろけた笑みで戻ってきた。
黒羽はこれまでで初めて相手に背を向けた。わずかな希望にかけて寝室へ戻ろうとしたが……、抱き上げられてしまった。
「黒ちゃん、スゴイの見つけたよ、えへへっ」
「……」
黒羽はもはや何も言う気になれない。嬉しいような困ったような複雑な気分でシロに階下へと連れて行かれてしまう。
○○○○
丸い空間の真ん中に、子供なら泳いで遊びだしそうなくらいの温泉が一つ。石造りで温泉の中は大理石、縁は黒曜石だった。
もくもくと辺り一帯に湯気が立ち込めて、独特の香りが鼻を撫でる。黒羽は今世では初めての入浴だがやはり懐かしかった。
マフィアだったとは言っても彼の場合は拠点から遠く離れた地で活動することが多く、それだけ離れてしまえば変装しなくても堂々と人並みに過ごすことができた。もちろん温泉もよく行ったものだった。どちらかと言えば温泉が好きなほうだったから、ほぼ毎日あちこちの温泉に入って体を休めていた。時々温泉での目撃情報が敵方へ流れて居場所を特定されることもあったわけだが、それでも当時から最強だった彼には割とどうでもいいことだった。
だがしかし不本意とはいえ、混浴など、しかも十代の少女と二人きりでなど、そんな殺人以上の犯罪行為を働くことになったのは初めてだ。
お湯に色が付いていたならまだしも、まさかの透明。男黒羽、目のやり場に困ってシロとは真反対の縁に外を向いて浸かっていた。
(……嬉しい。じゃなかった、悔しい。シロやロードに出会ってからというもの、もうあまり罪は犯したくないと思っていたというのに。クソ、なんて罪深いんだ。犯罪すぎる! ……どうする、どうやって切りぬけよう。瞬間移動? いや、それじゃシロを嫌って逃げ出したみたいだ。そんなことをすればシロは傷つくに違いねぇ。どうする、どうする——)
黒羽が一匹で悶々としていると、暢気に鼻歌を歌っていたシロが話しかけてきた。
「ねぇねぇ、そんなとこで何してるの?」
「作戦を練ってるんだ。今後のな。一人のほうが集中できるから話しかけないでいてくれ」
「ふふっ、恥ずかしがらなくてもいいのに」
ただでさえ耳にそっと吹きかけるようなシロの声が風呂場の壁に反響して、ますます体の奥へ染み込むように聞こえた。
黒羽の心臓が意思とは無関係に踊りはじめる。どう誤魔化そうか言葉を選んでいたらシロが先に続けた。
「黒ちゃん、今はもう猫ちゃんなんだよ? オスでも人じゃないならいいじゃん」
「人だったから問題なんだ。……あ、やべ」
「素直じゃないなぁ」
「けっ、その辺にしとけ。俺は猫でも、そのうち人間になる猫なんだ。あんまり刺激すると後悔するぜ」
「んふふっ、やっぱり猫ちゃんの姿で言うと可愛いね」
「可愛い言うな」
「ごめんごめん。……、ねぇ、黒ちゃん?」
「あ?」
「隣、行ってもいい?」
「だめだ」
「黒ちゃんの恥ずかしがり屋さん」
「紳士的対応だよ。ったく、お前はもう少し女としての自覚を持ってだな——」
「それを言うなら黒ちゃんこそ、猫ちゃんならもっと素直に可愛がられてくれればいいのに」
「俺は男だぞ。大人のな。それが可愛がられる? 何言ってんだ」
シロが言う「可愛がる」とは、積極的すぎるものに違いない。特にシロの胸の危険さは半端ではないのだ。実際、一度窒息させられかけている。こうやってシロが調子に乗っている時こそ注意が必要だと黒羽は考えていた。
しばらくの静寂の後、シロが再び口を開いた。
「黒ちゃん、色々、ありがとう」
「どうした、急に」
「ううん。私、だって、もう二度とちゃんとした部屋では生活できないと思ってた。それがこんなスゴイ部屋を使わせてもらえるなんて……。きっとあの受付嬢さんは気づいてるんだよ。黒ちゃんがスゴイってこと」
「ミル、だったか。999までしかないはずのレベルをさらに超える能力を持つ連中の呼び方は。あの白い猫から教えてもらった」
カンストのレベル999を上回る能力を持つ者はレベル1000と呼ばれることも多い。ただ、1000をこの異世界の言葉では"ミル"とも言うため、彼らが実在することを確信している者たちからはこちらが正式なものとされている。ロードも彼女の記憶によれば、生前ミルと呼ばれ警戒されることも多かったようだった。
「じゃあ黒ちゃん、やっぱり」
「……ああ。そうらしい。俺はミルだ。もっとも、あの白い猫から譲られた能力だけどな」
「そういえば、ずっと気になってたんだけど——」
少し間が空く。黒羽はロードを食べたことを話さなければいけないかと思い、覚悟した。
「黒ちゃん、どうして能力をもらったの?」
「ふぅ、なんだ、そんなことか。決まってるだろ? お前を……、ほら、アレだよ」
「んふふ、守ってくれるの?」
「けっ、調子のいいやつだ、まったく」
「……」
「……、どうした、急に静かになっちまって」
「ううん、黒ちゃん、時々、というか、いつも無理するから」
「それが俺の、今世の生き方なんだよ。俺の人生だ。好きにしていいだろ」
それからまたしばらく間が空いた。十分ほどだ。シロがそろそろ出ようかと話しかける頃には、黒羽は縁の黒曜石につかまったまま気持ちよさそうに眠っていた。
「……、黒ちゃん。きっと、人間にさせてあげるからね。だから、そのときは——」
黒羽の眠りは深い。抱き上げたくらいじゃまったく刺激にならない。そんな彼にはシロのその後に続いた言葉も聞こえるはずがなかった。
○○○○
午前2時過ぎ。
黒いローブをまとった小さな人影が街の入り口にあった。番をしていた中年の係員を起こして手続きをするところだった。
「おいさん。最近、ここに新しいミルがいるうて、私の国の占い師に聞いたさ。じゃけ、飛んで来たんじゃが、ここさ通してくれまはんかいな?」
「ミル? わしらは一般人なんで、よく分からんが、お偉い方がそう仰ったのならそうなのだろう。ささ、お入りお嬢さん。手続きは済んだから、入って左手のカウンターで挨拶してくださいな」
「そう、ありがとうなぁ」
独特の訛り口調の、まだ子供のような少女だった。けれどどこか悪魔じみた雰囲気で、にこりともせず、静かに街の中へと消えていった。
係員の中年男性は彼女の名前をどこかで聞いた気がし、名簿を怪訝そうに見つめる。そこには"チョールヌイ・ロドニナー"と書かれていた。