088 水銀の女
空中要塞。
全てが透明なクリスタルで造られ、あのエイでさえ収まりそうな広さがあった。上は透明であるがゆえに途中から空に消え入るようで、大穴が空いているのか否か分からないほどだ。
太陽光を白々と反射してまるであの世のようである。5人の神と4万57人の天使族を葬ったあの世に。
敵陣のど真ん中を堂々と突き進んできたレビをシャーデンフロイデとシュペルファーレンは静かに待ち受けていた。
3メートルを超える長髪豪腕、筋骨隆々のリザードマン、シャーデンフロイデ。黒い目隠しをした足までの銀髪で、水着みたいな軽装に右は短い白のスカートのような布で左は膝下までの銀の装甲というまるで身を守る気のない格好の異様な女、シュペルファーレン。彼女は人類なのかアハダ・アシャラなのか、その肌は黄色人種のそれだが精巧に造られたアンドロイドのような人形っぽさがあった。手には血のように赤い、柄まで刃が続く太刀のような巨刀が握られているが、同じアルシュタル人同士だ。本当の武器を隠すためのカモフラージュに過ぎないのはお見通しである。
レビは無謀にも二人の間合いに入ってようやく足を止めた。
お互いに動じない。しばらく睨み合ってレビが言う。
「お前達を殺す前にいくつか聞きたいことがある。どうしてララを攫って、どうやってアハダ・アシャラの封印を解き、顕現させたんだ」
「私を殺せたら教えてあげる」
「……そうか」
目にも留まらぬ速さでレビが蹴り上げた。だがしかし、目の前にいたシュペルファーレンは半身でかわして当たらない。その向こうの壁が衝撃波だけで吹き飛んでしまった。
何かとろとろと液体じみた音がする。少しかすめたらしい。シュペルファーレンの右上半身が銀色の液体と化し、あっという間に元通りになった。やはり、もはや人類のそれではない。
ララと血が繋がっているとは思えない、冷たく静かな声が耳を撫でる。
「それが、レディーに対する挨拶なの?」
「ほう、クズに性別があるとは知らなかった」
今度は身を翻して回し蹴りだ。蹴った軌道に沿って、風の属性でもなしに力のあまり鎌鼬が発生し二人同時に襲う。シュペルファーレンは舞うようなバク転で紙一重で避け切り、シャーデンフロイデはその巨体で高く飛び上がって事なきを得た。だが飛んでいった鎌鼬で要塞の壁は全てが吹き飛び、ただの円い闘技場になってしまった。
レビが片手に何か掴んでいる。尻尾だ。蹴っただけでなくシャーデンフロイデから尻尾の一部を引きちぎっていた。握り潰すと塵も残らない。
「……ふん」
シャーデンフロイデはすぐに再生し、まだ余裕の表情だ。
背後から銃声のような風を切る音が。アルシュタル人の特徴でもあるずば抜けた脚力で踏み込んだ一刀がレビを貫こうとするも、容易く指二本に止められてしまった。
「地上人にしては賞賛に値する脚力だ。そのままあの世まで跳んでいけ」
抑えた巨刀を上へ跳ね上げ、同時にシュペルファーレンを今度こそ蹴り飛ばす。下半身が砕け散るも受け方があまりにわざとらしい。見れば全身がどろりと水銀のような銀色の液体に溶けて宙を舞い、飛び散った破片と空中で一つになって着地する頃には元の姿だった。シュペルファーレンはノーガードで立ち上がって面倒そうに言う。
「諦めたらどうだ? お前は私を殺せない」
「なら生き地獄を見せてやる」
互いにとても命のやりとりをしていると思えない冷静な声。それとは裏腹にレビの飛び膝蹴りがシュペルファーレンの左耳を吹き飛ばした。
やはりこの女、殺気を読んでか、あるいは筋肉の音を聞いて避けている。攻撃を意識した瞬間には回避するため普通ならかすめることもないのだろう。加えてたちまち全回復する、水銀に命が宿ったかのような身体。この世で最も不死身に近い。
シュペルファーレンはまたどろりと溶けて背後へ回る。服装も全てが身体の一部。それぞれに色があるのも光の屈折を利用しているのだろう。
彼女は巨刀の切っ先をレビに向けて構えた。
「シャーデンフロイデ。お前は外へ行け。何かが近づいている」
「……。御意」
何か不吉な気配。レビも感じていた。先ほどすれ違ってきたラングヴァイレに似た悪魔のようなものを。まだ遠いがこちらへ迫っているようだ。
シャーデンフロイデが出ていくと、巨刀を構えたシュペルファーレンは気流を纏い始めた。ストレートだった髪は先が二束に分かれ羽毛のようにふわりと毛先が跳ねる。雰囲気が変わった。
「お前は誰だ。どうしてララという名を知っていた。それはチョールヌイが名乗っていたものだ」
「決まってるだろう。ララはオレの妹で、オレがララの兄だからだ」
「! そうか、お前はあの——」
レビが背後の空気を蹴り、まるで壁を蹴ったかのようにして瞬間移動の如き超速度でシュペルファーレンに蹴り込んだ。しかしシュペルファーレンも怪物。巨刀を盾にして受け止め、踏ん張りながらそのまま引きずられ、だが耐えきれず床へ仰向けに踏みつけられた。
レビの頭上には漆黒の堕天使の輪が浮かび、シュペルファーレンの頭上には、重なり合った白い天使の輪と黒い悪魔の輪が浮かんだ。理から外れた者同士。シュペルファーレンが巨刀でどうにか受け止め睨み合う。
レビがさらにそのまま踏み抜こうとするがシュペルファーレンは霧状に霧散し空中で再生。距離をとって着地した。
ノーガードのレビと、構えるシュペルファーレン。
「口を割る気が無いなら憎しみのままに嬲り殺しにしてやる。飛んで火に入れ、この羽虫め」
「……。チョールヌイは」
「……?」
初めてシュペルファーレンが一瞬だけ、表情を露わにする。怒りの表情を。
「チョールヌイは……、私の妹だ!」
瞬く間にシュペルファーレンの切っ先がレビの喉元をかすめ、先端から一直線に衝撃波が駆け抜けていった。
レビが殴り飛ばそうとするも空を切る。既に残像だ。背後から巨刀が振り下ろされる。
だがしかし、あろうことか手の甲で刃を受け止め、それで無傷。刃から放たれた追撃の鎌鼬をも眼力のみで打ち消してしまったではないか。
「貴様はオレに勝てなければララの姉などでは無い。ただの血が繋がっているだけの鉄クズにすぎん」
刃を受け止めた手でそのまま巨刀を押しのけ、シュペルファーレンの首を掴んで床を引きずり回し、爆散させてしまう。天界を屈服させた実力は規格外だ。あまりの早さに反応も液状化も間に合わなかった。
木っ端微塵に吹き飛んだ身体が、それでも空中でひとまとまりになって元通りの姿で着地する。
レビの手の甲には少し傷が付いたが、すぐに再生してしまった。
床はもうぼろぼろだ。ところどころ欠けて随分と狭くなり、瓦礫で隆起したり波打ったりしている。
シュペルファーレンも構えず仁王立ちで嘯く。
「口ほどにもない。少しでも効いたと思ったか?」
「……」
レビが床にツバを吐いた。
「そうだ、一つだけ、答えてやる。……賢者の石だ」
「なに」
レビの眉間にしわが寄る。
シュペルファーレンが続ける。
「どんな願いも叶うという石だ」
「それくらい知っている」
「神によって封印されたアハダ・アシャラを復活させ、顕現させるには、輪廻に抗うほどの能力が必要だった。そんなもの、賢者の石しかない」
「だが叶う願いは一つのはずだ」
「そうだ。封印を解き、魂を呼び寄せるまでが限界だった。肉体を与えるのは、私たちがやった。だからこの無人になった島で顕現するのよ、最後の一人が」
レビの身体が緑色の光を纏う。涼しい顔をしながら、額に血管を浮き上がらせた。
覇気に風が舞い、二人の髪がなびく。
「……貴様、それだけの犠牲を出しておいて、一体何が目的だ」
「理想郷。全ての魂を、全ての輪廻から解放する。そのためにまずは、全ての肉体を剥がす。本来そこにあるべきなのよ……、あの子は」
シュペルファーレンが再び巨刀を構える。
堕天使と十一異端。輪廻にあってはならないはずの二つの存在が激突しようとしていた。