083 決死の一撃
目の前にはエイとエルツェーラー、そして遠くからさらに五体もの天使の成れの果てが迫る。その光景はまさにこの世の終わりというに相応しい絶望的なものだった。
メイシーがベラポネのスカートを小さな両手できゅっと握りしめ彼女の顔を見上げた。
「……ベラポネさん。……私たち、死んじゃうの?」
見ればモナも梶を強く握りしめて不安そうにベラポネを見つめていた。
黒羽たちとの連絡が取れない以上、この場はベラポネとモナの二人だけで凌ぐしかない。とはいえ、モナもまだレベルがカンストですらないのだ。二人ともがベラポネを頼みに思うのは仕方のないことだった。
ベラポネは二人に微笑みかけた。
「大丈夫よ。今の見たでしょ? 私に任せなさい。必ず守ってみせるわ」
「ベラポネさ……」
再び前に出ていくベラポネ。だが、モナは気が付いた。ベラポネでさえその足を震わせていたことに。
「いや! 私も、ついてます!」
ベラポネは意外そうにモナに振り向いて、小さな笑みでうなづき合った。ベラポネが何かを悟ったかのように深く息を吸い、吐いて、集中。
ベラポネはもう間も無く残りの五体が集うというところでエルツェーラーに言い放つ。
「エルツェーラー! アハダ・アシャラは全部で十一のはずよ! 残りの三体も呼ばなくていいの?」
「けっ、この期に及んで何をほざくか! 他は忙しいのだよ! 貴様らのような忌々しいゴミクズどもなんぞ、ここにいるワタクシたちで塵にしてくれるわ!」
「そう、あなたたちだけだなんて残念ね。まとめて始末してあげようと思ったのに」
「ほ! ざ! け! ワタクシたちを相手に気でも狂ったんじゃないのか? そんなたったの二匹で何ができる!!」
ウルセェな、と低くよく通る声が二人を遮った。
残りの五体はクリスタルのように透き通る、音もなく宙を漂う城のようなもので現れた。その大きさこそ光を透過するために見えにくく計り知れない。ただ、おそらく一階部分に相当するであろう箇所の壁の一部にぼっかりと大穴が空いており、そこに五体の姿があった。
ベラポネが見聞きしていた情報によれば、アハダ・アシャラは真っ白の姿であるはずだったが、話を遮った声の主だけは全身が真っ黒だった。人間に近い体をして引き締まった逞しい肉体が黒光りしている。頭部は前後に長く後頭部が二股に分かれて角のように大きく後ろへ張り出して、目は退化して口は竜のよう。腰からは細長い尾が生えている。壁に背を預け両腕を組み、うつむき加減でいてこちらには見向きもしていなかった。
「こんなゴミどもにムキになってんじゃねぇよみっともねぇ」
「何を言うかラング! あのペテン師めが、ゼップスを焼き殺したんだぞー!」
「ほぉう」
熱く耳に吹きかけるような低い声が風を貫いて三人を戦慄させる。
このラングヴァイレのこともベラポネは聞いたことがあった。肉弾戦だけで圧倒的な戦力を誇り、ただ力を求めて天使の中で唯一自らの意思で悪魔との融合を果たした異端中の異端だ。天使が悪魔と融合しアハダ・アシャラとなる者が現れはじめた全ての元凶とも言える存在。その見た目こそ知らなかったものの、現に漆黒の姿をしていることからしてかなり悪魔に近くなっているものと思われる。
ラングヴァイレはエルツェーラーに言われて少しだけベラポネに関心を示したかに見えたが、ふん、と鼻で笑って興味なさげにうつむいた。
「あーあ、退屈だぁ。オレはもっと強い奴とやりてぇな」
「あら、私も随分とナメられたものね。まんまと封印されていた分際で生意気じゃない?」
ベラポネが鎌を掛けるが、それでもラングヴァイレは爪の長い手でしっし、とやるばかりだった。エルツェーラーがその落ち着きに唖然としている。
「やれやれ、それじゃあボクが片付けるよ」
ラングヴァイレとは反対側の壁に立っていた背の低い少年が名乗り出た。やや長めの白い髪、冷たそうな白い肌の、見た目15歳程度の美少年だ。ゼップストリーベのように全く生気の感じられない真っ黒な瞳。襟に羽毛があつらえられた白いコートのようなものをすっぽりと羽織っていた。
「ゲフォル。冷気のアハダ・アシャラ」
「ほんと、よく知ってるね。仲良くしようね、お姉さん」
冷気を操るという少年のアハダ・アシャラ、ゲフォル。彼は嬉しそうに微笑んでおもむろにコートから右手を伸ばし、高く挙げた。
「こ、これは! ベラポネさん!」
「!」
モナは周りの光景に目を疑う。ゲフォルがやっているのだろう、船を覆っていたモナのバリアーが、パキパキ、メキメキ、と嫌な音で軋みながら分厚い氷に覆われていくではないか。
モナが両目を固く閉じて精一杯に梶へ念じ、バリアーを崩されまいと対抗する。
「しょうがないわね」
今にも全てのバリアーを砕かれようとしているこの状況で、一体何をしようというのか、ベラポネがため息混じりに呟いた。
「できれば、こんな"卑怯"なこと、やりたくなかったのだけれど」
バリン!!
モナの抵抗も虚しく、カンスト間近の彼女が得意とするバリアーが遂にゲフォルの大量の氷に破壊され、粉々に砕け散った。太陽の光にガラスのように乱反射して、その瞬間の景色は真っ白に眩しく輝いた。
だが同時に、ベラポネの水晶から黒く細い七つの閃光が放たれ、周囲のアハダ・アシャラたちを全員貫いてしまった。
船体には氷の破片が足の踏み場もないほど飛散するも、ベラポネたち三人は頭を庇って無事だ。けれどこうも簡単にモナが全身全霊をかけたバリアーが突破されてはまた張り直すだけ無駄である。モナがもうダメだと目を背けたその時、清々しい笑みを浮かべていたゲフォルが短い悲鳴を挙げた。
ゲフォルが掲げていた右腕、その付け根からシュッ、と短く真っ赤な血が吹き出す。直後、彼の右腕は切断され、砂のようなものに変わりながら落ちてすっかり消滅してしまった。
いや、彼だけではない。そこにいたアハダ・アシャラの全員が同様に腕や頭の一部、ヒレ、尻尾などを切断され消滅させられたではないか。
「うああああああああーーッッ!!」
ゲフォルが絶叫する。
一方でベラポネも血を吐き出し、床に両膝をついた。
「「ベラポネさん!!」」
モナとメイシーが玉に弾かれたように駆け寄って背中をさする。
バリアーがなくなったことで風が吹き抜け、ベラポネの帽子が飛ばされていった。
「あああああーーッッ!!」
ゲフォルがまだ悲鳴を挙げている。
ベラポネが苦しそうにむせながら声を出す。
「……大丈夫よ、成功したわ。……これが、私と、水晶の"卑怯"よ」
「そ、そんな、ベラポネさん、一体何を代償に……」
「げほっ……、はぁぁ、はぁぁ……。私の、胃の、一部と、今後一カ月の……、回復力低下、回復魔法封印よ」
「そんな、そんな……。そんなに血を吐いて、これじゃベラポネさんが——」
モナが泣き出した。
もうすぐ1リットルになるだろうか、床には既に血溜まりができていた。ベラポネはさらに一口分の血を吐いて、
「……いいのよ、これで。……奴らはこれから五分おきに、体の一部を、一割ずつ、末端から、失っていくのよ」
「!?」
それはその名のとおり、あまりに卑怯な技だった。
ベラポネの場合は自身も代償を伴う代わりに五分に一度、対象とした全ての相手の肉体を末端から無条件に一割ずつ消滅させていくというものだったのだ。
ベラポネはもう血を失いすぎて立つこともままならないが、アハダ・アシャラたちに与えたダメージは大きい。発動直後から体を一割消滅させているため、残り45分でここにいる七体は完全に消滅する計算である。はずだ。
ベラポネたちは気付いてしまった。ゲフォルの悲鳴が、いつの間にか笑い声に変わっていたことに。