082 自己愛
時間はまだ黒鬼がシロに治療されていた頃に遡る。
上空の船で待機していたベラポネの水晶には、彼女とモナ、メイシーの困った顔が反射していた。
今までは黒羽たちの姿を映していたのだが、急にぱったりと見えなくなってしまい、水晶の中は白い煙が漂うばかり。これじゃあまるでベラポネの両手の中で浮遊するただの風船だ。
「どうしたのかしら、こんなこと今まで一度もなかったのだけれど……」
ベラポネは風になびく赤い髪を掻き上げ肩を落とす。
彼女の水晶は物質が何らかの影響によって特殊能力を得た物質的ミルと呼ばれる、ミル程度の能力者に匹敵する数少ない超常的代物。過去に考古学者として遺跡探索に携わっていた頃に発見し、以来ベラポネの意思で自在に召喚できるようになっていた。
念じて心を通わせることでテレパシーなどの様々な能力を発揮してくれていたのだが、どうも黒羽たちの姿も映せなければテレパシーもできなくなっているようだった。
ベラポネはとうとう痺れを切らしてモナに提案する。
「モナさん、船を地上に降ろしてもらえないかしら」
「え、いいんですか? 黒羽さんは空で待機してほしいと……」
「下の状況が探れないんじゃ意味がないわ。私のせいで申し訳ないのだけれど、改善するまでは合流していた方が得策よ。黒羽も分かってくれるわ」
モナは少し迷ったが、「まぁ、そうですね。仕方ありません」と言い、心配そうに背を向けて梶を握った。
ガタンッ、と、その瞬間に船が大きく揺れる。モナとメイシーはその場に尻餅をついてベラポネは梶に背を預けて持ちこたえた。
「いた、たたた……。一体何が……!?」
モナが梶を支えに立ち上がって前を見れば、彼女の能力で船を丸ごと覆っていたバリアーにヒビが入っていたではないか。
「う、ウソ!? 私のバリアーにヒビが入るなんて!」
ヒビは人一人分程度の大きさだったのですぐに復旧したが、まだバリアーの向こう側で黒煙がもくもくと立ち上っていて視界が悪い。
風で煙が流れていくと、その向こうからは何か巨大なものが迫ってきていた。
「あれは一体なんなの」
ベラポネも驚き、メイシーが怖がって彼女の後ろに身を隠した。
こちらに迫る巨大なものは、とても平たく、両端がゆっくりと上下にしなるようにして動き、空を羽ばたいているかのよう。次第にその姿がはっきりしてくると三人は驚愕した。
それは船よりも巨大な、真っ白なエイだったのだ。とても空を飛べそうにない巨体で、とても飛べそうにないゆったりした動きで天空を優雅に泳いでいた。
こちらからも迎え撃とうかと身構えるがもう遅い。エイはその見た目に反して素早く、もうモナのバリアーに触れそうなほどまで接近してしまっていた。
よく見るとエイの背に二つの人影が。
「これはこれはお美しいお嬢さん方、はじめまして」
初老男性のような甲高い嗄れ声。その主は見るからに人ではなかった。
真っ白な体で、首のない大きな球形の頭部とその端から端まで裂けた巨大で生々しい口。頭部にあるのはその口のみ。そしてもやしみたいな、あり得ないほどか細い体と細長い手足。指は手足ともに三本しかなく、その先端も球形に膨らんでいた。その頭をどうやってくぐらせたのか道化のような服装をしているがこれもまた真っ白。
その異形の化け物は楽しそうに話を続ける。
「まずはご挨拶にとカンタンな攻撃をさせていただきました。ゴミクズにしてはナカナカい〜い防御手段をお持ちなのですねぇ。おおーっと! コイツは失敬、ワタクシとしたことが自己紹介が遅れてしまいました。ワタクシの名はエルツェーラー。イヤですねぇ、そんな名前なんて聞いたってどこの誰だか分かりゃしないって顔で見ないでくださいよ。ワタクシたちはアハダ・アシャラ!。天使と悪魔の融合した、神に最も相応し〜い崇高な存在。此度は下界に蔓延るゴミクズどもを、一旦純粋な魂の姿へと浄化しに参ったのでございま、ドッッファ!?」
エルツェーラーを遮って隣にいた真っ白な女が指先から光線のようなものを発射して転ばせた。ぐうたらとだらしなく頬杖をついて横になり、こちらを死んだ目付きで見下ろす、なんとも美しい女。こちらは人間のような姿だが左目上の額から一本だけ漆黒の長く鋭い角が生えており、やはり彼女も明らかに異界の存在だ。足元まで伸びる手入れされた長い髪、胸にはサラシを巻いて腰には膝までに白いボロ布を巻いていた。
光の無い、奈落に吸い込まれるような目で三人を見る。
「要するにお前たちを殺しに来た。何も心配することはない。すぐにまた新しい世界に招いてやる」
女はそう言うや否や三人に指先を向けた。と、その瞬間に女の左頬で小さな爆発が起き、彼女は呆気にとられた。
「……魔力、だと」
「口ほどにも無いようね」
怯えるモナとメイシーより一歩前にベラポネが歩み出て堂々と言い放った。
「私も伊達に200年も生きてないわ。あなた達のことも聞いたことがある。既に対策は練ってあるわ。そこのペットは風を使い、エルツェーラーは喋るほど強くなり、あなたは傷付くほど強くなる。そうでしょ、ゼップストリーベ」
「なるほど、まさか熟練の魔法使いだったとは、珍しい。だがハッタリとは見苦しいな。私のことを知っておきながら攻撃を仕掛けるとは。……?」
ベラポネにゼップストリーベと呼ばれた女は爆破された左頬を拭う。本来ならそれで傷が癒えたのだろう。彼女の白い肌にはっきりと火傷が残り、あからさまに機嫌を悪くした。
「いつの間に術中にはまったのかも気が付かなかったようね。あなたの攻撃は回復不可能の呪いを纏ってあなたに返る。もうあなたに勝ち目は無いわ。観念するのね」
「……」
「……?」
それを聞いたゼップストリーベはおもむろに立ち上がり、不敵な笑みを浮かべた。
「観念? ふふ……」
モナたちが勝てるのではと期待を抱いたのも束の間。ゼップストリーベが両脇を閉めて両手を広げ、叫ぶ。
「観念するのは、貴様らのほうだーッ!!」
叫ぶと同時にゼップストリーベの体が激しい爆発に飲まれる。
「おい! 何をやっている!? オマエ正気か!?」
エルツェーラーも驚きだ。
ベラポネの呪いがかかっている以上、ゼップストリーベはいくら攻撃を放とうとしてもその全てが直接自身に跳ね返る。お構いなしに攻撃しようものなら自滅してしまうはずだ。
だがしかし、自身を焼いた黒煙が風で流されていくと、ゼップストリーベは元の無傷の姿で現れた。
ゼップストリーベは自身が傷付くほどに強くなる。ダメージを受けるほどに強くなり、自滅するよりも先にベラポネの呪いを克服してしまったのだった。
「伊達に200年も生きてないですって? 笑わせるわね」
「そ、そんな! ベラポネさんの呪いで、自滅するはずじゃ……」
これにはモナも度肝を抜かれ、ベラポネは舌を打った。
ゼップストリーベが腕を組み、高みから生き生きとした漆黒の瞳で見下ろしてくる。
「こっちはもう何百年、何千年と生きているんだか知れないね!」
凄むゼップストリーベに動じず睨みつけるベラポネ。
もはや間を隔てているモナのバリアーは眼中にない。
ゼップストリーベが右手に銃の形を作り、ベラポネに指先を向けた。
「ふふ、少しは面白かったわ、熟練の魔女」
ゼップストリーベの指先が赤黒く禍々しい光を纏う。
あらゆるエネルギーは簡単に熱へ変換されるものだが、威力が高すぎるあまりゼップストリーベが集める光が意図せず熱として周囲に溢れ、船体を作る木材が水分を蒸発させられもくもくと湯気を上げはじめた。
「歯ァ食い縛りな!!」
あまりにも太く不気味な赤黒い閃光が放たれた。
いとも容易くモナのバリアーに風穴を開け、ベラポネたちに一直線に迫る。
「……信じてるわ」
ベラポネが水晶に微笑んだ。
放たれた閃光が、水晶にみるみる吸収されていく。あっという間に全てが飲み込まれたその矢先、今度は水晶からゼップストリーベたちに向けて今の赤黒い閃光が倍の太さで跳ね返される。
「ふっざけるなァァアアッッーー!!」
間一髪のところでエルツェーラーが両手を突き出し、分厚い壁のようなバリアーを繰り出して、なんとこのとんでもない威力の閃光を受け止める。
だが受け止め切れず、エルツェーラーたちは乗っているエイごと押し戻されていくではないか。
エルツェーラーの悲鳴が聞こえたのを最後に、閃光は三体のアハダ・アシャラを撃ち抜き、轟音を上げて爆発。凄まじい爆風と桁違いの黒煙が巻き起こり、三人はどうにか持ちこたえた。
これで終わったのだろうか。あの巨大なエイさえも包み込んだ大量の黒煙が風で流されていき、数秒して全てが晴れる。
ベラポネはふぅ、と一呼吸。ゼップストリーベの姿は消えていた。しかし、あの巨大なエイの背中の上で、エルツェーラーに看取られ、消し炭になり、焦げ跡から黒く細い煙を最後に、完全に消滅した。
ゼップストリーベは負けを悟った瞬間にエイとエルツェーラーを庇い、閃光を自分に集め一挙に受け止めたのだった。
「そ、そそ、そんな……。ゼップス、トリーベ……」
「だから、言ったはずよ。既に対策は練ってあるとね」
まだまだ余裕の表情を見せるベラポネにエルツェーラーは悔しそうに歯ぎしりして、空へ向かって力の限りに叫ぶ。
「あー! つー! まー! れーェェェエエエエーーッッ!!」
すると空の彼方から無数の人影が。
その数、5つ。中にはあの、シュペルファーレンとシャーデンフロイデの姿もあった。