076 再会
薄く銀色の瞳が開かれる。
死んだら生前の苦しみが和らぐというが、そのせいか痛みもない。むしろ暖かかった。
並みの人間なら春の陽気に包まれたような、などと表現するだろう。それをチョールヌイは幼少期以来に感じていた。死別した義理の兄、レビと過ごした幼少期以来に。
それにしても、これは天国へ昇るということなのだろうか。事情があったにせよ、散々命を奪ってきたはずだ。
何か違和感が。
風を感じる。そして、膝の裏と肩のあたりに人肌のような温もり。
「!?」
チョールヌイは目を疑った。
ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒してしまう。
「やっと、会えたな。ララ」
チョールヌイは生きていた。しかもよく知っている人物の腕の中に抱きかかえられて。
レビだ。
死に別れたはずの義理の兄であるレビが、成長した姿で現れたのだ。少し面影があってすぐにレビだと分かった。
「……!」
名前を呼びたい。だが驚愕のあまり声が出なかった。
周囲はどういう訳か時間が止まっている。一体何が起きているのか。
でも今はそんなことよりレビだった。もうレビしか見えない。
この銀髪、この紫の瞳。間違いない。
涙が溢れた。
レビの顔に触れたい。そう思うと失ったはずの両手が彼の肩に触れた。見れば体中の傷がみるみるうちに治っていっている。
「ごめん、あの時、わたしが―――」
やはり声にならない。
レビもまだ子供だったのに、身を挺してロドノフ卿から自分を守ろうとして死んでしまったあの日からずっと、いつか自分も死んだ日には真っ先に謝りに行きたいと考えていた。
「お前がどんな気持ちで生きてきたか、あの世でずっと見ていた。全部分かっている。何も言おうとするな」
「……」
「それより、オレのほうこそ守ってやれなくてすまなかったな。だが、安心してほしい―――」
レビはそう言い、抱えられていたチョールヌイを全回復させてそっと地上に降ろした。
やはり時間が止まっている。正面ではあの巨大な白い鬼が棍棒をちょうど振り下ろそうとしたところだった。
今にも叩き潰されそうな恰好だがレビは鬼に振り返り、
「今からは、オレがオマエを守ってやろう」
止まっていた時間が動き出す。しかし、棍棒はレビに届かず、外側へ逸れて静かに地に着いた。
啞然とする鬼。レビの姿に驚いているようだ。それもそのはず、彼の頭上には黒い環が浮いて、禍々しく炎のように揺らめいていた。それなのにレビ自身は白い装束に身を包み神々しい。どの世界にいたにせよ異様な存在だった。
「なんだ、その間抜け面は」
「き、貴様、一体どこから現れた! 一体どうやってその小娘を治した! どおおおおおやって儂の攻撃をいなしよったああああ!!!!」
「うるさい」
「!!!」
鬼の喉が破裂した。
手を触れることもなく、内側に爆弾でも仕掛けていたかのように。
真っ赤な血が雨のように飛び散るが、明らかに不自然な軌道を描いてレビ達には届かない。
「汚いな」
今度は鬼の周りだけ重力が跳ね上がったかのように圧力がかかる。鬼は押し潰されそうになって尻もちを突き、それでも収まらず地面にまでめり込んだ。
あれだけチョールヌイを追い詰めた鬼がおもちゃのよう。
まさかこんなことがあろうとは。そんな顔で後ずさり、棍棒も手放して喉を庇い、もう一方の腕を待ってくれとレビに向けて伸ばした。
ひゅん、と、遠くからゴブリンが放ったと思われる矢が飛んで来たが、レビの近くまで来ると空中で消えてしまう。その辺の雑魚では触れることすらできないらしい。
鬼は儂が仕向けたのではないと苦しそうに首を小さく振り、必死でこっちに来るなと手を伸ばして、なんと無様な姿だろうか。
「オレの妹を半殺しにした罰だ。二度と生まれ変われると思うな」
一体何をするつもりなのか、レビは右手の中指を親指で抑えて何かを弾こうとする形にした。すると頭上の黒い環からブオン、と寒気がするような嫌な音が。
直後、レビはただ指を弾いた。それだけで彼の指先が弾いた方角は、鬼どころか島ごと地を抉って吹き飛んでしまったではないか。
まるで小虫を弾くように、チョールヌイを追い詰めた鬼も、ゴブリンの軍勢も、その全てがたった一撃で皆殺しだ。
あまりの威力に砂埃さえ降ってこない。それもみんな一粒残らず消滅してしまった。
「どうした? もう泣くな」
まるで鬼たちなど最初からいなかったかのよう。
今まで森が広がっていたこの場所は今のでもう海岸だ。
終わった。
日の光が暖かく二人を包み込む。全ての災が消え去ったように。
チョールヌイは両手でぎゅっとレビに抱きついた。
「……れび、れび」
子供のみたいに肩を震わせながら声を発する。
「レビ、レビ……。会いたかった、ずっと。これからも、ずっと一緒? 一緒にいられる?」
「ああ、きっとな」
胸に溶け入るような低い声に心が満たされるようで、チョールヌイはまた涙が溢れ、より強くレビにしがみつく。
「ごめん、死なせてしまって、ごめん」
「ああ」
「でもどうして、どうやって? これは、夢なんか?」
「いいや、本当だ。俺は天使に生まれ変わって、またララに会うために地上へ降りることにしたんだ。邪魔が多くてな。だいぶ時間がかかってしまった」
そうだったんだ、ありがとう、とまた泣きながら言う。
とうぶん泣き止みそうにないララをレビは静かにあやしていた。
○○○○
数日前の夜のこと。
黒羽は仄暗い平原の中にいた。地平線の彼方まで何もない。三日月が蒼い光をぼんやり落としていた。
夢だというのはすぐに分かったが、心地よい夜風を感じる。妙だなと思えば案の定「元気かい」と隣でしゃがれた老婆の声がした。
「なんだ、久しぶりだな、ロード」
真っ白な毛並みの猫が何もないところからふわりと姿を現した。
「もういつぶりだろうね、前にアンタに会ってから」
「さあな。今回は何の用だ?」
「つれないねぇ。せっかくいい場所に出してやったのに。ここ、実在するんだよ?」
ロードは深い毛並みを夜風にさらさらなびかせて三日月を見上げた。
流石にこんな神秘的な景色が実在することには、黒羽も辺りを見渡してしまう。
「へぇ、そうなのか。なんか、ここだけ時間が流れてないみたいに感じるな」
「いずれ、アンタもこの場所にたどり着くだろうさ」
「……こんな穏やかな夜景は久しぶりだな。晩極は大変だったし、そりゃいつか来てみたいもんだ。で、何の用だ?」
ロードは「まったく」と首を振った。
「何が時間が流れてないみたいだい。え? アンタの中じゃ激流もいいとこじゃないか。まあ本題に入りやすいけどね」
「はははは」
「アンタは結構才能があるから、この世界のことをほとんど知らなくても割とやってこれたがね、そろそろ詳しいことを教えてやらなきゃと思ったんだよ」
「ほう、それは助かる」
黒羽の目の色が変わった。ロードは「年寄りの話は長いよ」と、少し嬉しそうに続ける。
「アンタにくれてやった能力は結界と瞬間移動と、シロにはだいぶ劣るがちょっとした回復魔法。そして、あらゆる攻撃魔法だ。今までで知っての通り、想像した通りの攻撃ができているね」
「ああ」
「つまりは防御、移動、回復、攻撃ができるわけだ。要するに全部できる。でもアンタは防御と移動がほとんどで回復は全然だし、攻撃も私に言わせりゃ威嚇程度しかやれていない。未来の武器を得たのに使い方が分からないような感じだね」
「それもそうだが、あんまり傷つけたくないんだよな。一心同体だから知ってると思ってたが———」
「アンタはマフィアなんだろ?」
「現在形で言うな」
「でもアンタの考えてることが全部分かるわけじゃない。マフィアだったというんなら、それこそ何で今さらためらうんだい?」
「……」
黒羽も三日月を見上げた。
「人間に、なりたくてな」
「……。そういえば、いつだかそんなことシロに言ってたね」
「そうだっけか。まぁ、どうでもいい。俺は前世で命を奪いすぎて、死神の野郎に怒られちまってな。それでこんなよく分からない世界で黒猫なんかになっちまった。それに、シロの前であまりエグいもの見せるのも気が引けてな」
「なるほどねぇ。でも、アンタにはシロだけじゃなく、今じゃ仲間がたくさんいるだろう? そんな生ぬるいことも、時期に言っていられなくなる」
「……。そうだけどな。でも、半殺しで生け取りにするのもまたプロの業ってもんだ。殺すのも飽きたし、戦うことも正直、気が進まない。とか言いつつ、仲間を傷つけられたら加減できるか知らんけどな」
「言ってることが支離滅裂だよ」
「そうかぁ?」
「ああ。……。じゃあこうしないか?」
「ん?」
「アンタがブチギレるようなことがあったら私がアンタの代わりに相手を殺す。本当は攻撃系のことも色々教えようと思ったんだがね、アンタを説得するの結構面倒だよ。それに、見たところ防御と移動系の実力は私以上だから、正気のときは引き続き任せるよ」
「……。やろうと思えば俺の体を乗っ取れるということか」
「もっとも、時間は限られるけどね」
「……。嫌だな」
ロードはやれやれと首を振った。
「だだっ子かいアンタは」
「ガキの頃に親が死んだから躾がなってねぇのさ」
「自分で言うんじゃないよ。まったく。じゃあ一つだけアドバイスしといてやる」
「ん?」
「攻撃方法をもっと勉強するといい。というか、しなさいな。頭が固いよ。どんな天才だって知らないことは学ばないとできるようにはならない。頭がいいからって知らない言葉は話せやしないのさ。概念に囚われちゃダメさ。世の中にどんなものがあるのかだけでも調べておくんだね。ま、せいぜい、私に体を奪われないようにのう」
ロードはそう言い残し、黒羽は夢から覚めたのだった。