059[モノローグ]憎悪の堕天使王
ある者は信じ、ある者は救いを求め、ある者は御伽噺と言って否定する神々の領域、天国。
下界に生命を育み、死した魂に極楽を授けてきたこの世界の平穏はある少年の誕生によって覆された。
「……」
悪魔と交戦するための戦闘に特化した天使たちや神々が、互いに技術を高め合うため日々試合を繰り広げていた石のコロシアム。永遠の勝者と呼ばれた戦闘の神がたった今、その血で白いステージを赤く染めたのだった。
「そんな、戦闘の神、ムフェリア様が、こんな一瞬で……」
観戦していた天使兵たちはあっという間の試合終了に歓声をあげることも忘れるほど驚愕し、場内はしいんと鎮まりかえってしまった。
何千年もの間戦闘の神として君臨し、天使兵たちを率いてきた巨大な神、ムフェリア。腕の一振りで数百の悪魔たちを葬るほどの能力を持つ彼が、天界に転生して間もない無名の天使を相手に手も足も出ないまま木っ端微塵にされたのである。
「……。これで、オレはもうただの天使ではない。今日、この瞬間から、オレこそが戦闘神だ」
羽毛のような銀髪、つり目がちな紫色の瞳、女性的な顔立ち。自分に逆らう神々の殺戮を繰り返し、やっとのことでムフェリアに封印されていたはずの堕天使である。首や手足にはフェンリルを捕らえていたものと同じ引きちぎられた枷が残され、細い体には大きな白い装束は返り血を浴びることもなく白々と輝いていた。
もちろん今日の試合も正当に組まれていたものではなく、封印を振り払い脱走したその足で乱入したのだ。これは自分を封印したムフェリアへの報復だった。
これまでに鉄壁の神、再生の神、倫理の神、結界の神、天使兵元帥8人、天使兵長37人、天使兵4万人、天使龍12体を次々と殺して回り、とうとう天界一の戦闘能力と謳われた戦闘の神までも倒されてしまった。
彼の名は、レビ。その天使の輪は遂に完全なる堕天を遂げた証として漆黒に変色する。
「よくも! よくも我らのムフェリア様を!!」
一人の若い天使兵が立ち上がり、ステージ中央のレビへ一目散に迫る。手には光の剣を握り、血走る眼は邪悪な堕天使を鋭く射抜くように睨んだ。
重い金属音が爆ぜる。あまりの威力にもはや大気が耐えきれず予測不可能な衝撃音を発した。
レビに戦闘を挑んだ天使兵は既に跡形もなく消え去っていた。今の金属音はレビが何らかの武器を握り、天使兵に襲いかかって発せられたものではない。もはや触れる以前、軽く指を弾いただけの真空波がその音の正体だった。
「他に、逆らう者は」
「……」
全てを凌駕する戦闘能力を前に、もう誰一人立ち向かう者がない。
「お待ち下さい!」
「ん?」
声を上げたのは小石くらいの妖精だった。下手をすれば自分も殺されかねない。必死の形相だ。
「あなたは下界へ行くことが目的と聞いております。それは本当なのですか?」
「ああ」
「下界へ行って、一体何をなさるおつもりです?」
「ずっと言ってるだろう。守らなきゃいけないやつがいる。だから下界へ降りたいと言っているというのに、貴様らときたら、何がキマリだ。天国と地獄、魔界の間は行き来できても、下界へ降りることは禁忌だ、禁忌だ、禁忌だ禁忌だ禁忌だ。そんなもの知るか。最初からオレを下界にやっていれば死ななくて済んだものを、馬鹿どもめが。この期に及んで、貴様も禁忌だとほざいて死にたいのか?」
「いえ、私は、ただ——」
妖精は容赦ないレビの勢いに押されて震えていた。泣きながら続ける。
「私の大切な天使兵さんたちや、良くしてくださった神々はみんなあなたに殺されました。天界の戦力も今ではあなた一人のために以前の半分どころか一割も下回るに違いありません。これからあなたも下界へ降り、ここが魔界のモノたちに襲撃されたら、一体どうなってしまうのです? 天界が滅べば下界も滅びます。そうしたらあなたの守りたいものも空間もろとも消えるのですよ?」
「……、ちっ。なら、約束しよう。オレが魔界を消す。弱きは淘汰され、強きが制す。オレもその理に従って生まれたのなら、弱き貴様らが死に絶え、オレが頂点となったことも理に適う話なわけだ。なら、強きオレが魔界も制してみせよう。貴様らの恨み辛みなんざどうでもいいが、下界が消されるのは困る。それで満足か?」
「……。謝罪のお言葉は、戴けないのですね」
金属音が爆ぜた。
それがレビの答えである。妖精は、死んだ。
その後、レビはコロシアムをあとにし、神の前へ現れた。天界を統べる唯一の絶対神である。
神の間には勝利の女神や幸福の神など古から存在する神々が座っていた。しかし彼らでさえ何も言う者はない。レビは真っ直ぐに彼らの間を抜け、神にこう言い放った。
「全部、貴様のせいだ」
これほど空気の重い領域は珍しい。全ての神が凍りついた。
「忘れたとは言わせん。オレはアルシュタルに生まれ、父さんと母さんと、そして新しい家族、ララと平穏な日々を過ごしていた、それだけだったはずだ。何の罪もないオレたちに不幸を差し向けたのは貴様だ。オレがどんな思いで死んでいったか、分かるか。オレがどんな思いで今までここで過ごしてきたか、分かるか。ララはオレが死んでからあの畜生どもに虐げられ、嫌々殺しを強要されてきたんだぞ。その辛さが、平和に腐った脳の貴様に分かるわけがない。オレに逆らう連中は全部殺したが、何故か不思議と理解に難しいことにオレのせいだ。殺さなくてはならない状況を作ったのは他でもない、貴様なんだからな。よく、覚えておけ。貴様は残念ながら天界を維持するには必要な存在だから生かしておいてやるまで。貴様が肉片と化すのは、魔界の次だ」
レビの紫色の瞳は憎悪に満ちていた。
神は下界へ去っていこうとするレビの背中に言う。
「堕天使王レビよ。運命には何人たりとも抗えぬ。心得よ」
レビは神の間の淵に立ち、下界を見下ろす。神の言葉など聞く耳を持たず、拳を振り下ろし、力づくで空間に穴を開け、下界へと降りていった。