006 出発の時
翌朝。
黒羽はシロと一緒にベッドで横になり、彼女が回復するのを静かに待っていた。
あまりにも退屈で仕方がなく、右に転がったり、左に転がったり、仰向けになってみたり、うつ伏せになってみたり……。それをもう五周はやっていた。
そもそもこの世界の太陽は昇ったり沈んだりしないので退屈なのはいつものことだったが、いつにも増して退屈だった。太陽は永遠に空を茜色に染める夕陽でいて、朝も夜も区別がつかないのが常識だ。しかし時計というものは何故か存在し、黒羽はいつも食料調達に使わせてもらっていた八百屋の時計を眺め、そこから時間感覚を得ていた。だから時間が分かるだけマシだったのだが、この部屋は窓もなければ出入り口すらない不思議の部屋だ。残念ながら時計もなく、ますます気が遠くなりそうだった。
黒羽はシロのほうを向いて丸くなる。眠ってしまいたいが、そうすると魘されそうなので薄目を開けて堪えていた。
黒羽はロードが言っていたとおり、彼女を食べてしまった。なるべく苦しくないようにまずは特定の血管を踏みつけることで圧迫し、眠るように死なせてやった。そして共食いする気味の悪さを押し殺しながら、彼女の犠牲に敬意を払って骨の髄まで食べ尽くした。
ロードを食べ終えると、本当にその能力が得られただけでなく、彼女の一生分の記憶や知識もがまるで黒羽自身経験してきたことであるかのごとく一体化してしまった。無事に黒羽はロードと融合したのだが、どうしてだろう。散々人の命を奪ってきたというのに、猫一匹殺しただけでとんでもなく気持ちが悪かった。
「なぁ、シロ」
黒羽は遠い目をして、話しかけるように独り言つ。当然寝ているシロからは寝息しか聞こえてこない。
「俺は、誰かを殺して、初めて後悔した。……まさか、あの猫が、お前の——」
「んんっ……。ん〜」
「……」
シロが寝ぼけたような声を出し、黒羽は黙り込んだ。じっとしているとシロが手を伸ばしてきて黒羽に触れ、彼はゆっくり抱き寄せられていく。今回はシロの方からも近寄ってきて頬ズリされた。
「んん〜……」
「おい、起きるのか寝るのかはっきりしろ」
またいつかのように息ができなくなってはたまらないので黒羽は今のうちから前脚でシロの顔をぐいぐい押し返し、抵抗しはじめた。
「んん〜、起き、る。……やっぱ、寝る」
「あのなぁ」
ぺんぺん、と肉球でシロの頬を叩いているとようやく彼女は大きなあくびをした。シロはムニャムニャと唇を動かし、また黒羽に頬ズリしようとしては前脚で顔を押し返され、そんなことを繰り返しているうちにとうとう薄目を開けた。
「ふぁ〜、んん〜、まだ眠いよ。……、あれ? んん?」
何かに気がついてシロは青い瞳を大きく開く。部屋の中を眺めて何かを探しているようだ。
「さっきの白い猫ちゃんは?」
「……出てった。忙しいんだとさ」
どう答えようか一瞬迷ってそう言った。黒羽はとても自分が食べましたなどとは言えなかった。なんとなくシロに背を向けてしまう。
黒羽の後ろでシロが眠そうにゆったりした口調で話す。
「ありゃ、そうなんだ。あの子もお話できるみたいだったから色々お喋りしてみたかったんだけど、それじゃ、仕方ないねぇ」
「そうだな」
話しているうちにもシロは背を向けた黒羽を抱き寄せ、彼の後頭部に頬ズリしはじめる。この体勢ならとくに呼吸は苦しくなるわけでもないので黒羽は何も抵抗しなかった。
○○○○
地平線に上半分だけ顔を出す夕陽は今日も道の入り組んだ小汚い街並みを風情豊かに赤く染めていた。
シロがしっかり目を覚ましたら黒羽は彼女をお気に入りの場所に連れてきてやった。最初にシロを助けて死にかけたところのすぐ近くだ。民家の屋上で他のところより少し高く、見晴らしがいい。黒羽にとっては我が家のような場所で、いつもここで寝起きしていた。
「うわ〜、キレ〜!」
シロは黒羽をおんぶしながら茜色に染まる街を見渡し、目を輝かせていた。
地平線に沈みそうで沈まない太陽がひしめき合う家々や小さな商店街をぼんやり赤く照らせば、近くで見れば小汚い建物さえ美しく見えた。
「ここが黒ちゃんのお家だったんだ。見かけによらず結構ロマンチックなんだねぇ〜」
「うるせぇ」
「……」
シロは左肩から顔を出す黒羽を少し心配そうに見つめた。
「黒ちゃん、なんか元気ない?」
「色々あったからな」
「そっか。……、でも黒ちゃんすごいね。瞬間移動までできるようになっちゃってるなんて、びっくりしちゃった」
「あの白猫が能力をくれたんだ。俺は何もすごかねぇよ」
黒羽は半ば上の空でシロの言葉を聞いていた。彼の頭にはロードのことばかり。
目を細めて遠い夕陽を眺めながら、彼女の言葉が思い出されていた。
《殺し屋よ、お前は今、大切な人のために私を食べざるを得ないのだ。私を食べることで、命の重みを、その身に焼き付けなさい》
どうしてあのロードという猫が初めて出会った黒猫などに、それもマフィアの生まれ変わりだと悟った上で自ら死をもって能力を譲ったのか。普通に考えれば馬鹿だ。全く、熱い友情を見せてもらった礼としては余りあるものである。しかし、黒羽は彼女を食べたことで本当の理由が分かった。
ロードはシロが2歳の頃に病死した、彼女の母親が猫に生まれ変わった姿だったのである。猫の寿命はせいぜい16年。今シロが18だとすれば、ロードは本当にいつ死んでもおかしくない高齢の猫だったことが分かる。
彼女は魔法でも治すことのできない不治の病にかかったと知り、シロの祖母にあたる自分の母親に預けることにしたのだった。そしてシロがまだ物心つかないうちに彼女の前で息を引き取っていたのである。
けれど、生前に善の限りを尽くしたことを神に評価され、シロが好きだった白い毛長猫として生まれ変わり、そして生まれながらに高い能力を得て、また彼女のいる街に転生させてもらったのだった。
だが、本来ならば生まれ変わって家族と再会するようなことはありえないことである。これは神の間でも禁じられたことであった。そのためにロードはシロの近くに生まれ変わるもなかなか再会を果たすことができないままいたのだった。
だから、最期には再会できて幸せだっただろう。そう黒羽は柄にもなく感動していた。
ロードにとって黒羽は娘を助けて、しかも再会させてくれた恩人だったのであった。だから死をもって能力を譲るようなことができたのである。
「——ちゃん、黒ちゃん」
「おっ、なんだ」
気がつけば黒羽は物思いにふけり、シロの声も聞こえなくなっていた。
「えへへ、これからどうしよっか」
シロは苦笑いして言った。
確かに、前のシロの家に戻ったところであのごろつきたちの死体が転がっているのだ。住むにしてもまたロードの部屋に瞬間移動で入るか、他の家を探すしかない。
黒羽は少し考えて、
「そうだな、とりあえず、まずは部屋探しだ。街へ行ってみないか」
「えっ……。でも……」
「そんな不安がる必要はないだろう。今は俺がいるんだ。二人でパーティーを組めば部屋ももらえるんだろ?」
「……うん」
シロは街へ行くのが怖いらしい。「どうしても街に行かなきゃダメ?」と、眉をハの字に歪めて目で訴えていた。
「そんなに嫌か」
「うん。もう街には戻らない気でいたし」
「街へ行ってパーティーを組めば、賢者の石を手に入れることも狙えるんだぞ?」
「えっ、何で賢者の石なんて知ってるの?」
シロは目を丸くした。
賢者の石とは、手に入れればどんな願いでも叶う魔法の石のことである。普通、それをこんな野良猫が知るわけがないのだ。
「あの白猫が教えてくれたんだ。お前も賢者の石が欲しくて前は街にいたんじゃなかったのか?」
「……うん。でも、私はもういいの」
「何を願うつもりだった?」
「……おばあちゃん」
「……」
「ほら、助けられなかったから、また会いたいって願いたかったの。でも、そんなことよくないかもって、今では思ってるし」
「じゃあ、俺の願いを叶えるのを手伝ってくれよ」
シロはきょとんとして、
「黒ちゃん、何か欲しいものあるの?」
「ああ。まあな」
「何?」
「……、笑うなよな」
「……んふふっ」
「だから笑うなって。笑うなって言ったそばから笑うやつがあるか」
「ゴメンゴメン。黒ちゃん、意外とこんなキレイな景色とか好きだし、お願い事はしたいしで、やっぱりピュアだよねって思ってさ。えへへへっ」
「けっ、分かった。そんなこと言うんなら教えてやんねぇ」
黒羽はそっぽを向いてしまった。
「あああ、ゴメンってば。教えてよ、黒ちゃんのお願い事叶えるためなら街にも行くから〜」
「そうか、なら教えてやる。……人間に、なりたくてな」
黒羽は言いながら照れ臭かった。まるで告白でもした気分だった。
シロがどんな顔をするかと思えば、彼女は急にテンションが上がった。
「おお! 黒ちゃんが人間に!?」
「悪いかよ。もとは人間だったんだから何も変じゃねぇだろ」
「うん、全然変じゃないよ。そっか〜、黒ちゃん人間になりたかったんだね。確かに私も黒ちゃんの人間になったとこ見てみたいかも。黒ちゃんが人間になったらどんな人なのかな? やっぱり前世の姿がいいの?」
「そのほうが落ち着くしな」
「へぇ〜、じゃあ、前世の黒ちゃんに会えるってことだよね? どんなおじさんだったんだろ〜」
「おいおい、なんでおじさんなんだよ」
「え?」
シロはまたきょとんとする。
「黒ちゃんって、前は戦闘民族だったんだよね?」
「マフィアだよ。だれが金髪ゴリラだ。今でこそ改心したが、前は殺し屋だったよ。前にも言ったんだがな」
「ああ、それで、でも今は可愛い猫ちゃんだもんねって話になったんだっけ」
「可愛いは余計だ。とにかく、マフィアだからっておじさんってのは偏見もいいとこだぞ。俺は26で肺炎で死んだからな、まだそんな年寄りじゃねぇんだよ」
「えっ、若いんだね。なのにそんなおじさんみたいなキャラなの? 猫になって年取っちゃったの?」
「……、変わらねぇよ! 多分な。ああ、もう、やかましい小娘だまったく。はぁ〜」
黒羽は散々いじられて疲れ、深いため息をついた。
(……俺ってそんな老けたキャラしてんのかな。まだ26の気分でいたのに。強いて言えば猫に生まれてからは5年くらいしか経ってねぇのに、ったく。その5年足しても31だよな? けっ、シロのバカヤロウ)
何気に黒羽は気にしていた。
そんな彼の気も知らないで、今度はシロが茜色の街並みの奥の夕陽を見つめてこう言う。
「まあ、黒ちゃんを人間にするためならまずは街へ行かなきゃだよね。さて、じゃ、そうと決まれば行きますかー!」
「ああ、もう、街へ行く気になってくれたなら何でもいい。はぁ……。ん? 今度は何だよ」
「んふふっ」
シロはふわふわとした長い白髪を夕陽色に染めてこちらを見つめてきた。まるで子供みたいに無垢な丸い青色の瞳がきらきらしていた。
「何見てんだよ。何か言え」
「ううん、なんか、考えてみれば黒ちゃんと旅に出るのもいいかもって」
「……」
黒羽の心臓がドキンッ、と跳ねた。シロの目を直視できなくなり、視線を背けた。そして彼女の肩から飛び降り、先に歩き始めてしまう。
「分かった分かった。ほら、何してる。とっとと街に行くぞ」
「ああ、待ってよ黒ちゃん。迷子んなっちゃうよ〜」
シロと黒羽は歩き出し、民家の屋上を降りて、うねりうねる道の奥へだんだんと小さくなっていく。
しばらくは建物の陰に見え隠れして、ついに夕陽の中に消えていった。
○○○○
シロが住んでいた小さな部屋に人影があった。
全身を不吉な黒いローブに包んで先の尖ったフードを目深に被り、長いブロンドの髪をフードの端から垂らしていた。スラリと線の細い、背の高い女だった。
彼女の足元では黒羽に首の血管を切られて死んだスーツ姿の男たちが冷たくなっている。彼女は白スーツの男の脇にしゃがみ、彼の首筋の傷を指先で撫でた。
「……ふーん、変わった武器を持っているのね」
他の男たちの傷口も同様なのを確認し、ゆっくり立ち上がり、何を盗るわけでもなく静かにシロの部屋を出ていった。