057 長い一日の終わり
ギルドに戻る頃にはチョールヌイはもはや別人だった。
念のためにフードで顔を隠すことは欠かせないが、髪型と内面の変化のせいで印象が変わりすぎたあまり誰も気づきはしまい。攻撃的な印象も失せたようでシロと歩けば姉妹と信じて疑われない始末だ。
美容院の後は服を買ったり晩飯にしたりして過ごしたが、結局部屋に戻るまで何事もなくやり過ごせたのだった。
帰ってきたときにはモナとドレイク、ベラポネとしらたまちゃんも晩飯を終えて好き好きに過ごしていた。
ベラポネが魔法で部屋の数を増やしていたことには黒羽も目を白黒させた。どう考えても建物からはみ出すはずの明らかに空間を無視した広さと数だったのだ。客間だけで八部屋とは。一人一部屋ずつ使っても余ってしまう。
ドレイクとモナはリビングに一番近い二部屋をそれぞれ使っていたのでそのすぐ隣をチョールヌイが、さらにその隣をシロと黒羽で使うことにした。
自分の部屋を充てがわれシロと二人になると黒羽はやっと落ち着いた気がして早速ベッドに丸くなった。
もうみんな風呂も終えて他の部屋では寝ている者もいるだろうという頃だ。しかしシロはベッド脇に座り、ランプの灯りを頼りに何かの書物を開いた。
「何読んでんだ?」
「ん? 魔法の本だよ」
「勉強か?」
「うん。そういえば黒ちゃんの前で読むの久しぶりかな? もしかして初めてかな?」
「さあ。俺が覚えてないだけかもな。よく遊んだその日の夜に集中できるな」
黒羽は勉強なんてまともにやったことがない。教科書、それも魔法に関するものとなるとどんなものなのか好奇心が湧いてシロの脇までのそのそ這い出て覗いてみた。
なんだかミミズが這ったような字が茶色く変色した古い紙に端から端までびっしり書き込まれていて字が分かったとしてもとても読む気にはなれそうにない。シロの顔を見上げると彼女の青い瞳にもごちゃごちゃした文章が映っていた。不意に文章が消えて黒猫が映る。
「ん?」
「あ、いや、なんでもない」
シロは微笑んでいるのに黒羽はなんだか急に胸が苦しくなった。
(そういえば、猫だったんだなぁ)
シロから顔を背けて本を見つめる。
「お前、意外と真面目だよな。よくやるわこんなん」
「へへ〜ん。シロちゃん偉いでしょ」
「ああ。こんな難しそうなの読んでたんだな」
「ね、私もびっくりだよ。意外に慣れるものなんだね」
「ふ〜ん」
「今日は楽しかった?」
「ああ」
「……」
「……?」
「さっきから生返事ばっかり。どうしたの?」
「別に」
黒羽がくるりと背を向けようとすると持ち上げられて膝に乗せられてしまった。
「けっ、とうとうお尋ね者の俺様もシロ刑事には流石に捕まっちまったわけか」
「ふふっ、またわけの分からないこと言って」
玉のようなランプのオレンジ色のぼんやりとした灯りが、窓のない暗い部屋の中の二人を暖かく包む。
まるで黒羽が書物を読んでいるような格好。その黒羽をシロが膝に座らせて、文を指先でなぞりながら何が書かれているのか教えてくれる。
「この四角く囲まれてるのが呪文の名前でね、ここからがその内容とかなんだよ」
「……ほう」
「シュタークン、デ、ナトゥエンリッヒン、ブラストバーカイト。自然回復力を高める魔法なんだって。頭の中で言うだけでいいみたいだね」
「急に賢くなるじゃん」
「私もやるときはやるんだよ」
「それは知ってる」
シロは黒羽がそっけない態度でいるのが落ち着かないようで彼のあごをこちょこちょと撫でた。珍しく嫌がらずにじっとしている。
「あれ、黒ちゃん嫌がらないね」
「嫌がってもやるんだろ? 好きにしてくれよ」
「……」
シロは本を閉じてベッド脇の棚に置いてしまった。
「ん? もう終わりなのか? お、おい」
黒羽を抱っこしたままバサっとシロが横になる。
「ひどいよ黒ちゃん。なんでそんなに冷たくするの?」
そう言っていたのは黒羽の視界にないシロの目だった。
シロは魔法でランプの灯りを消す。
「今日は、もう寝ようか。なんか一日がすごく長かったね」
「そうだな。新しい場所での最初の一週間くらいって一ヶ月くらいに感じるよな」
「ね」
「ララのやつ、嬉しそうだったな」
「……。そうだね。すごい明るくなって、可愛くなったよね」
「ああ。今日は、いい一日だったよ。アイツも俺と同じで好きで殺しをやってたわけじゃないタイプだったから、ずっと気にしてたんだ。俺みたいになるんじゃねぇかって」
「黒ちゃんはいい子だよ」
「ふん、お前は幸せ者だよ」
自分の人生を呪って果てるんじゃないかと心配していたという意味がシロには伝わらなかったらしい。
「ふふっ、黒ちゃんに会えたんだからそりゃあ幸せだよ」
「……」
一旦、黒羽は会話から離れて扉の外に耳を澄ませた。
誰かの気配があった。たった今通りかかったのではないよう。黒羽たちの会話が途切れたことに気づいたからか、すぐ隣の部屋へ入っていった。チョールヌイに違いない。
「もう寝よう。このままじゃなんだかんだで朝までお喋りしてそうだ」
「そうだね。おやすみ、黒ちゃん」
シロは黒羽の頭の後ろに小さくキスをして、眠りに就こうと静かになる。そこを黒羽は魔法で本当に眠らせてしまった。
自分を抱いていたシロの腕をすり抜け、しっかり肩まで毛布を被せてやり、ベッドから降りて扉の向こうへ。
廊下は暗くて静か。どの部屋からも光が漏れていたりはしなかった。
チョールヌイの部屋の前には来たが、さて、どうしよう。こんな寝静まった時分に大きな声で呼ぶわけにもいかないし、だからといってズカズカ上り込むのもおかしい。黒羽が困っているとチョールヌイのほうから少しだけ扉を開けた。向こう側でしゃがんで低いところから銀色の瞳がこちらを覗いた。
小声で訊いてくる。
「どしたー?」
「こっちの台詞だよ」
「……。別に」
「嘘つけ」
指でシーっとやって「これだからね」と彼女は言う。黒羽が頷くと中へ入れてくれた。
チョールヌイは野生の勘が働くのか五感が優れているのか、この暗闇の中でも迷うことなくマッチを手にとり火を点けランプに灯りをともした。
何を考えているのだろう。ふふん、と得意げな笑みを浮かべ、黒羽の前にランプを持ってしゃがんだ。
「クロハネ、私のこと気にして見にきてくれたんにゃろ? 残念でした。今晩の主役は、クロハネのほうですや」
チョールヌイはそう言って黒羽を膝に乗せる。
「クロハネ、いっつも忙しくしてるじゃろ? 私のことも、みんなのことも、これからのことも、なにもかも、一人で抱えすぎさね。たまには、ゆっくりしやないかんよ」
ぷつん、と黒羽の中で張り詰めていた何かが解かれた。
チョールヌイが心地よいハープの音色でも奏でるかのように背中をゆっくりと撫でてくれる。頭の先から腰まで、ゆっくりと、眠くなるほどに。
空気にそっと消え入るような声でチョールヌイが囁きかける。
「私は、チョールヌイじゃ。忌み嫌われる罪人のチョールヌイじゃ。けど、クロハネは私をララって呼んでくれる。まるで、昔のことを全部忘れさせてくれるみたいに。……。今日なんて、クロハネのおかげでどん〜なけみんなとの時間があったかかったか。今までもずっと伝わってたで、クロハネが私のこと、どんなに気にしてくれとったんか、そんな優しい目ぇさ向けられて過ごすん、すんごい久しぶりのことやってんね」
「……」
「でもな、私はクロハネが思うとるほど弱ないで。じゃけぇ、もうなんも気にしやんと、毎日、ゆっくり寝てなぁ」
「……。そんな、嘘をいくら並べたところで、百回言おうと本当にはならんぞ」
「……」
「俺は知ってるんだ。ガキの頃から武器を持たなきゃ生きていけなかった、そんな環境で育つことの過酷さが分かる。幸か不幸か似通った生い立ちした仲だ。お互い唯一その辛さが分かる相手なんだぞ。気なんか、遣うな」
「クロハネだって、気ぃ遣うとるくせに何言うかや」
チョールヌイは目元を拭う。
「私な、もう、人が好きになれんのさ。信じられん。けど、クロハネは信じられる。なぁ、どしたらええんかな。仲間っていうもの、分かりたい。クロハネに会うまで、こんなにたくさんの人と過ごしたことなかったけん、まだよう分からんの。クロハネはどんな気持ちで一緒におるん? みんなは私らほど人殺してきとらんのだで? 本当に仲間やと思われとるって、信じられる?」
「……。腹割って話せるやつなんか、殺し屋に限らず誰でも少ないもんだ。俺もそういう相手はシロとお前だけで、他の奴とはまだ距離がある。ただ、向こうが親切にしてくれてるうちはありがたく思うのが筋だろうよ」
「ああ、そんなもんなんなぁ。知らんかった。クロハネ、みんなと仲良くしとるけん、みんな信じとんか思っとったとね」
「ふん、やっぱり抱え込んでたんじゃねぇか。少しは気が楽になったか?」
「ああ。一緒におってええんかなって、ずっと思ってただ」
鬼の胸にも重く突き刺さるような一言だった。
思えばチョールヌイはこちら側から誘わなければ一人でソルマール島を目指すつもりでいたくらいだ。
「ありがとうな」
「……え?」
「俺はお前に会えて良かった。似た者同士の奴と会えて結構助かってんだよ、俺自身も、お前のおかげで。けっ、クセェ台詞。忘れてくれ」
「ふふっ、忘れないよ。忘れられない。あーあ、もう、クロハネのおかげで言うことなくなってまった。もう遅いし、寝ようか」
フォイのギルドはこうして二人を最後に寝静まった。
新しい国に来て、新しい仲間に出会った長い一日もとうとう終わる。
まだまだ黒羽たちの旅は序章に過ぎない。
明日からどんな日々が彼らを待っているのか、それは誰にも分からなかった。