046 支度
誤字が酷かったので直しました。
結局黒羽はチョールヌイとソルマール島の話ができないまま朝を迎えてしまった。
だが今日はユーベルとアステリア、ドレイクが仕事で出ているというので昨日よりは話せるだろうと黒羽は思った。いや、よく考えるとシャルロンも生き残った戦場医務官たちも兵士たちもみんな治療中で、チョールヌイとは比較的関わりの薄い隊長クラスしかいないのだから、要するに今度こそ彼女は部屋で一人きりのはずである。
シロと一緒に顔を洗ったりしてしっかり目が覚めて黒羽の思考回路はこの答えにたどり着いた。
「そういえば、今、ララのやつ一人か?」
「あ、そうじゃん!」
「けっ、ドレイクのやつ言葉が足りねぇんだな。ユーベルとアステリアと仕事で出てくるとは言ってたけど、ララを頼む、くらい付け加えればいいのに」
他にも隊長クラスがいるからと思っていたのだろうとも考えられるが、不器用なやつだなと黒羽も批判的に思う半面親近感を持つ。あんまり人のことが言えた立場ではない。
「俺、行ってくるわ。もうすぐ朝飯だし、せっかくだから一緒に食おうや」
「うん、ありがとう」
黒羽はすたたた、と素早く廊下へ飛び出していった。
あれだけ苦労して助けた仲間だ。心配なのもあるが、二人で穏やかに会話する機会はこれが初めてのことで、黒羽は胸の底から温かくなるような気がしていた。
あいつは二人きりだとどんなことを言うのだろう。シロがそうだったように自分のことを色々話してくれるだろうか。嬉しいことも悲しいことも。足を洗った者同士なんだから、他のやつよりは話しやすいに違いない。
黒羽はそおっとチョールヌイの部屋に入っていく。ベッドの掛け布団はめくれている。もう起きているらしい。
ばしゃばしゃと水の音がする。音のする方へ近づいていくとチョールヌイは昨日の赤ずきんちゃんを黒くしたような格好のまま顔を洗っていた。タオルで顔を拭きながら振り返り、一発で目が合う。流石にミルであるだけあって気配を悟られていたようだ。
「どうしたんかやー、そんなこっそり入ってきて」
「あ、ああ、ちょっとビックリさせてみようと思ったんだが、流石に気づくか」
「ああ、そういうこと」
銀色の瞳は「何でここにいるの?」と言っていた。そして彼女の耳は鼓膜という扉が半分閉じていた。ドッキリも失敗してなんとなく話しにくい。
だがしかし、ここで前世で幾度となく修羅場を潜り抜けてきた経験が武器になる。なにもかもお構いなしに切り出した。
「なぁ、ララ。故郷に行くって聞いたんだが、俺たちも一緒に行っていいか?」
「……」
チョールヌイのベッドの脇にはユーベルから譲られたと思われる鞄が置かれていた。少し大きい。晩極戦争で壊れた双剣が革の鞘に収められているのが鞄の中に見える。1メートル程度のものも入るようだ。
他にも軍から譲られたであろう衣類が鞄の周りに置かれており、チョールヌイは背を向けてぐちゃぐちゃに鞄に詰めていた。支度をしながら話す。
「クロハネ、私、分からないんよ」
「何が?」
「クロハネたちにも来て欲しいのか、それとも一人の方がいいのか。どっちも良いことがあって、どっちも良くないことさあるけんね」
「……。例えば?」
訊くとチョールヌイは手を止め、こちらを向いてあぐらをかく。困った顔をしていた。
「クロハネたちが一緒なら、それはきっと楽しい。ピンチになっても、助けてもらえるかもって、思うんね。でも、それじゃクロハネたちも危険じゃんね。また、巻き込んじゃうってのが、良くないとこさ。一人で行くなら、一応このサスリカの兵士が見張りでつくらしいし、クロハネたちも危なくない。でも、その——」
「寂しいんだろ。一緒についてってやるって。多少危険でも、どちらにせよ危険なんだからな」
「……微妙に臭いセリフじゃな」
「ひどいじゃないか」
「ごめん」
「ええよ。……。なんだこの会話。やっぱまだ寝起きだな。ま、どんな理由で困ってんのかと思えばそんなことか。一緒に修羅場を抜けた仲なんだからこれからも一緒に乗り越えて……。くっせぇセリフだなぁ、なんだこれ。思考回路が二度寝し始めたな。でも言いたいことは伝わったろ?」
「ふふっ、まあ、少しは」
「決まりだ。一緒にソルマール島に行こうな。んじゃ、もうすぐ朝飯だから後で俺らの部屋に来いよ」
「うん。……」
黒羽があくびしながらチョールヌイの部屋を出ていこうとすると「もう行っちゃうの?」と呼び止められた。
「ん?」
「クロハネ、さては、照れ屋さんじゃなぁ? 昨日も耳の中が真っ赤になっちょったけんね」
「なん……だと」
残念ながらクロハネの耳の中は少し地肌が見える。常人なら気付かないが、こんな微かな部位の色の変化もチョールヌイには勘付かれてしまうらしい。慌てて自分の耳を両前脚で抑えるがもう遅い。
「あはっははは! クロハネ可愛い!」
「やめろ、可愛いは禁句だ」
「そうなの? ええやん、とりあえずこっちさおいで」
「おいおい、キャラ崩壊えげつないぞ。本当にララなのか?」
「何を言うとるかね。見れば分かるやん」
黒羽はチョールヌイに近づいていって膝に乗り、彼女の頬を引っ張ってみる。プニプニしているがどこぞの大泥棒三世みたいにマスクをつけているわけではなく、本物のチョールヌイだった。
「あたた」
「すまん。お前、大分印象変わったな」
「……。だって、ねぇ。今、すごく幸せなんやもんなぁ」
「……」
人は死にかけると人格が変わるというが、その通りなようだ。以前のような攻撃性、病的な雰囲気がまるでない。ただただ穏やかなのである。
ぎゅ、と苦しくないように優しく抱きしめられた。
「おい」
「しばらく、こうさせてほしい。……すっげ、癒される」
「……」
癒してやれているのならと黒羽も言われるままにじっと大人しくする。数分そうしていると黒羽も体温に温められて体がぽかぽかしてきた。
それに加え、分厚い雪雲を貫いた朝日も今は暖かく感じる。寒い冬の季節感の中に感じる温もりほど温かいものはない。心地よくてだんだん眠くなってきたとき、ぽつ、と黒羽の頭に水滴が垂れた。
チョールヌイが泣いているのが分かるから黒羽は視線を背けたまま。どうして泣いているのかは分からない。声を殺して、静かに泣いている。黒羽は何も言わず、じっとして、寝たふりを続けた。
待っていれば何か言うかと思っていた。しかし何も言わなかった。言い出したらきりがないほどの色んな感情が入り混じっていたからだろう。猫の霊感で心境をうかがうと、泣いている理由はあまりに多かった。それが分かっても寄り添うしかできないのはなんと莫迦なことだろうか。
○○○○
昼過ぎにユーベルたちは軍基地に戻った。
小一時間が過ぎた頃、ドレイクは統幕長室に呼び出され、ある書類を手渡された。受け取った書類の字を読めば彼は手を震わせた。
「お、お、おおっ……。と、特別有給休暇。しかも、三ヶ月——」
何か悪いことをしたのだろうかと、額の黒いバンダナが濡れるほど冷や汗がどっと吹き出す。恐る恐る顔を上げてユーベルと統合幕僚長の顔を見ると二人とも笑顔でこちらを見ていた。
ユーベルが言う。
「これは礼だ。ガフーリのとき、お前の活躍のお陰で私は助かったのでな。田舎の妹にも久しく会ってないだろう。元気な顔を見せてやって来るといい」
「ぬなっ!? わわわわ、あああ、ありがとうございます! でもいいんですかこんなに長い間。私も一応は隊長ですのに」
豚みたいな統合幕僚長が福の神みたいな笑顔で答える。
「良いのだ。君の部下たちも治療中で再起には早くて一月はかかる。それ以降の二ヶ月は君の代わりにアステリアが代行を務めることになった。かのロドノフ卿に止めを刺したのは彼女である。その手柄から、我々は近々彼女にも部下を持ってもらうことを考えていてね。つまり研修期間を与えたいのだ。そこで丁度君も手柄を立てていたわけなので、しっかり休んでもらおうという話になったのだよ。君に関しては昇給並びに昇進も考えている」
「……ま、マジ。いや、本当ですか! ってことは、つまり」
ドレイクは現在、厳密に言えば少将という地位の軍司令官という役職。大将が統合幕僚長と戦位であるユーベルの階級であり、ドレイクは戦場で実際に戦闘を行う立場としては最高位にある。これで一つ昇進すれば中将となり、サスリカでは滅多に戦場には出ないことになる。
統合幕僚長が続ける。
「本来なら中将になってもらって内部で指揮する役に回ってもらうところなのだが、君にはできれば戦場に出てもらいたいところなのだ。君さえよければユーベルのときにそうであったように地位は中将で、職務内容として戦位候補になってもらいたい。他の中将とは違って基本給に遠征手当が付くことになる。それに戦位という地位はこの国特有のもの。現在戦位候補なら誰もいないので昇進させやすいわけだ。その代わりユーベルと同じく生涯戦場に出ることになるが、君はどうしたいかね」
「……お、オレが、戦位候補——」
戦位候補。つまり統合幕僚長補佐と同じくらいに偉い地位だ。まだ20代前半にしてこの地位とは神童もいいところである。
ドレイクは少将になったとき、きっともうこれ以上地位が上がることはないと思い、一生戦場に出ることを決意していた。彼は迷わず、戦位候補になる道を選んだのだった。
統幕長室を後にした彼はあまりの話に現実が理解できず石のように固い表情で廊下を歩き、昼食の皿を回収して回るおばちゃんたちの横を幽霊のようにすううとすれ違っていった。
昇進の話も凄いが、今はそれより三ヶ月の特別有給休暇の方がありがたかった。これで田舎の病気の妹にも会いに行けるが、チョールヌイや黒羽たちにも縁があるのだ。チョールヌイが故郷の様子を見にいくという話になっているので、これだけ休みが長いのならついでに同行してやろうかと考えるのだった。