044 [プロローグ]三兄弟の宿命
これは今から7年前、チョールヌイがロドノフ卿に攫われ、彼らの拠点に連れて来られたときの記憶である。
年中夜が続く極夜の国。晩極地方を西へ外れたところに位置するこの国は年間最低気温マイナス8度、最高気温20度という、晩極ほどではないが極寒の環境だった。
人口6千万人程度の小さな発展途上国だが、ロドノフ卿にとっては拠点にするのに丁度いい場所だった。小高い氷山の一角に大人一人が入れるくらいの目立たない穴を入り口にして、地下にアリの巣のような迷宮が築かれていた。外に建築するよりこうした方が地熱で暖をとれるのである。
義理の兄であるレビを殺され、チョールヌイはここに着く頃には涙も枯れていた。生きながらに死んでいるような顔でロドノフ卿に手を引かれ、案内されるままに地底へ潜っていく。
本当に地獄へ堕ちていくように深く深く螺旋階段を降りて、1時間ほどでやっと開けた場所に出た。
最初に目に写ったのは薄暗い廊下だった。上も下も土が丸出しで、天井を這うむき出しの配線が電球をぶら下げ、ぼんやりと気味悪く照らしていた。
廊下の両側は檻だ。得体の知れない何かを閉じ込めた檻が廊下の奥までずらりと並んでおり、時折恐ろしい呻き声が低く響いてくる。何が閉じ込められているのかは暗くて見えなかった。
この時チョールヌイは7歳。この歳頃なら泣いて喚いて必死で逃げようとするはずだが、もう彼女にはそんな感情も摩耗していてただ俯いてロドノフ卿の後ろを静かに歩いていた。
廊下を抜けるとまた螺旋階段が現れる。今度はそれほど長くはなくてすぐに次の階に到達した。まだ下があるようだったが、ロドノフ卿はここで足を止めた。
「僕は下の階に用があるから、お前はここで休んでなさい。今日からここで寝起きするんだ。あるものは自由に使っていい」
「……」
自由に使えと言われてもだだっ広い地下空間に薄汚いベッドが一つぽつんと奥に置かれているだけだった。他はやはり土がむき出しの天井、壁、地面があるのみ。寂しくなるくらい馬鹿みたいに広い牢獄といったところ。上の階の檻に飼われているらしい謎の生き物たちの呻き声が響いてくる、住むには最悪の場所だった。
ロドノフ卿はそれ以上何も言わず、ここへチョールヌイを残して螺旋階段を降りていった。
見張りはいない。逃げたければ逃げられそうだ。でも、こんな地の果てまで連れて来られては地上へ出たところで何にもならない。チョールヌイは絶望した。
ロドノフ卿が降りていってからしばらく、螺旋階段の近くに座り込んでいた。ベットへ行くにも同じ階で見えているのに遠すぎて眠りに行く気にもなれなかった。どちらかといえば下の階へ行く方が早い。彼女はロドノフ卿の後を追って、抜き足差し足で金属の螺旋階段を慎重に降りていく。
すぐに下の階へ着いた。ここが最下層らしい。もう螺旋階段は続いていない。
螺旋階段を降りて目の前に木の扉があり、行く手を阻んでいた。何やら話し声が聞こえてくる。チョールヌイは扉に耳を押し当てた。
「辛いもんだ。どうして僕らはこんなことをしなければならないんだろう」
「恨むなら、神様を恨みなさいよ。……こうするしか、道は無いんだから」
場違いなほど美しく若い女の声がロドノフ卿と会話していた。どうも二人とも何事かを悔やんでいる様子。女は何かを怒り、嘆くように声を震わせていた。
「私たちは賢者の石を必ず手にしなければいけない。必ず。そのためには、道中どんな危険があっても生きていられる体が不可欠。まずは、これで、第一関門突破。私はこれで、計画通りに体を手に入れた。あなたも、無事に術は成功した。これでいいのよ、これで。多くを救うためには、少々の犠牲が出てしまう。他のアルシュタル人たちみたいに死ぬよりは、マシだったはずよ」
「そうだ、これでいいんだよな。仕方がないことだったんだ」
どうも罪悪感にも苛まれているよう。先ほどまでのロドノフ卿とは大違いでチョールヌイは困惑しながらさらに会話に集中する。
しばらく、二人が頭を抱えているのが目に浮かぶような溜息が時々あるだけの静寂が続き、ようやくロドノフ卿がこう切り出した。
「これから、実験も成功するときが来るだろう」
「……。そうね」
「あの子はどうする。今日、連れてきた子だ」
「迷うところね。……。でも、優秀な一人目だから、あまり実験には使いたくないわ。きっとあなたがそれだけ期待するくらいの子だからほぼ確実に成功するんだろうけど、でも、万一失敗したら、もったいないわ。それに、あの子は、私たちにとっても特別な子でしょ?」
「……。良かった。はは、どうやら僕らにもまだ人間らしい感情が残っていたようだね。まったく、どこまで作り変わっているのか分からないから、不安で仕方がない」
「……。そうね。……。あの子のことは、あなたが面倒みなさい。強く育てるのよ。それこそ、私を殺せるくらいになってもらわなくちゃ、私たちは死にたくても死ねなくなるわ」
「あの子も僕らを心の底から恨んでいるはずだよ。僕らを殺したいと思ってくれていることだろう。……。分かったよ。僕が、面倒見よう」
この頃はまだ、彼らが何を言っているのかチョールヌイには分からなかった。
二人の会話は終わりに近づいているらしいと彼らの口調から感じられ、チョールヌイはまた静かに螺旋階段を上ってあのだだっ広い空間へ戻っていった。
○○○○
晩極戦争とは名ばかりで手前のガフーリ湾で勃発したロドノフ卿との戦闘は終わった。
パーティーの翌日昼、チョールヌイはドレイクの車で墓地に来ていた。処刑された罪人たちの墓地である。個々に墓石が建てられることはなく、石碑が置かれている砂礫の平原だった。ここのどこかにロドノフ卿の亡骸も埋葬されたらしい。
石碑には難しい言い回しで何事かが長々と書かれている上、チョールヌイは字が読めない。困っているとドレイクが説明してくれた。
「これはつまり、今世でお前たちは悪人だったけど、輪廻転生のどこかで巡ってくる悪い一生が偶然巡ってきたというだけのことだ。だからきっと来世では幸せな人生を歩めるだろう。私たちはお前たちが悪として生まれてしまったことを可哀想に思って、来世での平和な人生を願っているよ、ってことらしい」
「……。悪い一生、か」
チョールヌイは花束を手にしていた。こんな罪人の墓に花を手向ける者は数少ない。そして涙まで流す者は、おそらく彼女が初めてのことだ。
「ゴア・ロドノフ。お前が私の実の兄さんだったなんて……。どうして、もっと仲のいい兄弟になれなかったんかなぁ——」
「……」
ドレイクがじっと見守ってやっていると、不意にチョールヌイの銀色の瞳に見上げられた。
「ゴアは、私を晩極の外れにある小さな国に連れていった。アルシュタル人も皆殺しにされたけど、ゴアもアルシュタル人だったさ。何か、深い理由があったに違いないんよね。私を連れていった日、自分たちがしたことを嘆いているみたいだったんじゃ。ゴアが実の兄さんだったっていうんなら、どうして私だけ殺さなかったのかも納得できる。私に戦い方を教えたりしたのも、兄弟だからだったのかな。ずっと死ぬまで恨まれ続けて、辛かったに違いないさ。普通の兄弟でいたかったと思っていたのは、ゴアも同じだったはずじゃ。……。どうか、兄さんを恨まないで欲しいさ」
「……。ああ」
ドレイクは同情してチョールヌイの頭を撫でて慰める。
「オレ、妹がいるんだ。お前くらいのな。体が弱くて、病気してるから、治療費のためにオレは田舎から出てきてこうして軍人になった。オレみたいな馬鹿でも稼げるからな。……。同じように妹をもつ兄として、散々苦労しながらも一人でお前をここまで育てたロドノフ卿を、立派だとは思うよ。ただ、お互いの考える正義の意味が、真逆だっただけなんだ」
「……。そうなんだ。ありがとう」
チョールヌイはしばらくかけて涙を拭う。
そして、石碑に向かって言うのである。
「兄さん……、行ってきます。シュペルファーレンを捜し出して、きっと、今度こそ、分かり合うよ」