037 奪い斬り裂く黒を断て
ゼゼルに指揮された兵士たちは各隊ごとに集まり、それぞれ背中合わせで四方八方を向いて構えていた。
満天の星々も不気味に見える。ほとんどの兵士たちが一度は殺されたのだ。あの世とこの世との境い目にでも迷い込んだような異様な空気だった。
先程彼らを襲ったのはロドノフ卿に違いない。黒羽に状況を戻されて警戒しているのか、ユーベルがゼゼルと合流してもまだ姿を見せなかった。
ユーベルが険しい表情で指示を出す。
「ゼゼル。お前は十四、五人の戦場医務官たちを連れて烈風のミルのところへ行け。ここは私が引き受ける」
「御意」
ゼゼルもいつもの穏和な表情はどこかへ消え去っていた。ミラーズなど一部の部下たちは残し、その他を率いて黒羽のところへ向かっていった。
この場には約二十名の戦場医務官たちと、一万の兵士たちが残された。全員既に武器を構えて攻撃に備えている。彼らの武器は銃剣。弾薬には麻痺毒が仕込まれており、掠めただけで神経に甚大なダメージを与える効果がある。
ロドノフ卿が現れてもすぐには発砲しない算段だ。まずはユーベル自ら斬り込み、隙を作ってそこを狙うのだ。
「今さら隠れたところで何になるのだ。待ちくたびれたよ。とっととパレードを始めようじゃあないか」
ユーベルにはロドノフ卿が見えているのか、何もないはずの空間に話しかけた。
「やれやれ、君も大した怪物だ」
ユーベルが話しかけた方向からロドノフ卿の声が。
空中にもくもくと黒い靄がどこからともなく現れ、中から不気味な仮面をつけたロドノフ卿が姿を見せた。まるで異界の怪人だ。空間を割いて出てきたよう。
「相変わらず凝った演出をしてくれるな。感心するよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「お祝いにクラッカーを鳴らしてやる。じっとして待ってろよ。総員、構え!」
大隊長が「右肩用意!」と野太い声で続き、一万の兵士たちが一斉に銃剣を立て膝の姿勢で右肩に乗せて返事をするようにうるさく音を立てた。全員の銃口がユーベルの目線の先を向いていた。
ロドノフ卿は上半身まで体を現し、脚は靄をまとう。悪霊のように宙に浮かんで、やれやれと首を振った。
「ひどいじゃないか。僕はただ優秀な人材を探しているだけなのに」
「……」
「!」
ロドノフ卿の背後で何かが飛び上がった。
彼が振り向いたときにはもう、アステリアが氷のハンマーを振り上げていた。雪原の中から勢いよく飛び上がって不意を狙ったのだ。荒々しく粉雪を水飛沫のように撒き散らし、白い尾を引いてハンマーを脳天めがけ振り下ろす。
だがしかし、やはり一筋縄ではいかない。ロドノフ卿は瞬時に姿を消し、氷のハンマーは空を切った。
「今だ!」
ユーベルが何も無い空間を指差して叫んだ。
兵士たちが一万発の麻痺弾を発射。ユーベルを飛び越え確かに何か見えないものに次々と命中。が、何の反応もない。
どこからともなくロドノフ卿の声がする。
「まだ人が話してるじゃないか。初めて見る子だ。これは躾が行き届いてないんじゃないかね?」
「それは貴様の方だぞロドノフ卿。どんな躾がされたらここまで腐るんだ」
ユーベルが引き付けている間にアステリアは雪をまとう。再び巨大な二枚貝のような雪の塊に囲まれて、地中へ潜っていった。
ユーベルは続ける。
「いい加減観念したらどうだ。お前ほどの能力者が、賢者の石に何の望みを求めるというのだね。永遠の命か?」
「さあ。君にも是非分かってもらいたいものだ——」
再び姿を見せた。今度は足の先まで出てきて雪原に降り立った。
武器のようなものは一切持っていない。不気味な仮面をつけ、黒いローブをまとった、見れば見るほど悪霊のような長身の男。幾重にも布を重ねたような禍々しい衣服の端は重力に逆らい空中になびいていた。
「私はあくまで正しいことをしているのだよ」
「何?」
「私利私欲にまみれた愚かな人間たちから欲望の根源を奪ってやろうというんだ。そうすれば争いも生まれない。どうだね、間違っているかい?」
道化のように両手を広げて言った。
「そのために争っていては元も子もないだろう。寝ぼけているのか? 神様になった夢でも見ているのなら、まずは聖書くらい持ち歩くんだな」
「聞く耳を持たないといったところか。はあ〜あ、残念だよ。君はどうして好きこのんで悪の道を行くのだか」
「貴様のように正しいことと思い込んで悪業を働く者のことを世間では確信犯というのだ。よく覚えておけよ。あの世で言い訳できるかもしれん」
言い終わらぬ間にユーベルの太刀が目にも留まらぬ速さでロドノフ卿を斬りつける。いや、速いのではない。瞬間移動とともに斬りつけていたのだ。
太刀は何かに当たって火花を散らした。どういうわけか、避けきれなかったはずのロドノフ卿には傷一つ付いていない。彼がまとう黒い靄が反射的に盾になったのだ。
「君は本当にいいものを持っている。でも、僕もいいものを持っているんだ」
兵士たちの絶叫が響く。
見えない何かが無数にユーベルたちを襲った。
その全てがユーベルも例外ではなく全員に命中。一瞬で何発もの謎の攻撃を受け、兵士たちは毒を巻かれた小虫の大群のように散り散りに倒れ、ユーベルは全身から焼けたような細い煙を上げた。
挨拶代わりだったのだろう。兵士たちはさほどダメージなくまた立ち上がって構え直した。
「……。これが、貴様の能力か。古代の怪物が使ったとされる能力に似ている。幻影の怪物。つまり貴様の真名は……、幻影のミル」
「その通り。寿命を迎えるまで死ななかった無敵の怪物の能力さ。気がついた頃にはもう攻撃されているんだから、どうあがいても逃れることは不可能だよ。さあ、ユーベル。もう一度チャンスをあげよう。人々から欲望の種を摘み取り、世界に平和をもたらすんだ。この計画に協力してくれないかね?」
「ふん、何度も言わせるな。せめて聖書くらい持ち歩く習慣を身につけてから言うんだな」
「……。やれやれ」
何の前触れもなく、ロドノフ卿の背後で地中からアステリアが飛び上がる。
今度はもう勘付いていたらしい。全く動じず、返り討ちにしてやろうと言いたげな不敵な笑みを浮かべた。だが、甲高い破裂音で彼の顔から余裕が消えた。
アステリアは氷のバリアーを張っていたのだ。ロドノフ卿はやはり不意打ちを仕掛けたようだが、常にバリアーで守られている相手では意味がない。彼の攻撃は氷の表面で弾かれ無効化されてしまった。
振り上げた氷のハンマーが今、威勢のいい掛け声で勢いよく振り下ろされる。
ヒュウウン! と、骨に響くような高い音が空を翔けた。アステリアの一撃は寸前のところでロドノフ卿の靄の盾に弾かれ火花を散らし、雪原に落ちる。
ここから先は流石に分からなかっただろう。アステリアは天変地異のミルだ。氷に限らず天変地異から連想される全てを司る。雪原を叩いたハンマーは凄まじい衝撃で周囲の雪を空高く舞い上げ、雷を放ち、竜巻を形成。みるみるうちに巨大化して巨大竜巻へ発達してしまった。
天上も天下も覆い尽くす猛烈な嵐の最終進化系。これがサスリカの味方をしている。ユーベルや兵士たちも高く吸い上げ空中戦へ突入だ。
竜巻の中で雷鳴が轟く。蒼白い稲妻が駆け回る。絶体絶命、袋の鼠とはこの事だ。
鼓膜が破裂しそうな轟音の中だ。誰の声も聞こえたものではない。
このスーパーセルはアステリアが操るものだ。彼女自身とユーベル、一万の兵士たちは暴風に乗ってロドノフ卿を追った。
ロドノフ卿はいくら姿を消そうとユーベルの目は誤魔化せない。指差しでロドノフ卿のいる方向を兵士たちに教え、一斉に麻痺弾が雨のように襲いかかる。重責して響く銃声、散る火花。何万発もの銃撃は大迫力だった。スーパーセルの渦の中が燃えるように輝いて、ロドノフ卿の靄の盾に弾かれた弾丸は火花を散らし、明確な彼の居場所を知らせた。
ユーベルの太刀が空中でギラリと煌めく。嵐の勢いに乗って一筋、光のように宙を切り裂いた。
何か、黒い煙が爆ぜる。ただでさえ攻撃力に特化したユーベルの一撃にアステリアの暴風が加算された鬼に金棒の合体技は、頑丈なロドノフ卿の靄の盾を一刀両断。彼の左腕を肩から根こそぎ斬り飛ばした。
短い悲鳴が聞こえた。
おかしい。これがロドノフ卿のものではない。
ユーベルが振り向くと、そこには剣に腹部を貫かれたアステリアがいた。
「!!」
しかも、彼女を斬りつけたのはサスリカの軍服を着た何者か。上に黒いローブを羽織って素性を隠していた。
「アステリア!」
その人物はアステリアの腹に貫いた刀を振り、脇腹まで思いっきり掻っ捌いた。
彼女が操っていたスーパーセルは術者が酷く傷ついたことで制御が効かなくなり、正真正銘の天災へ。兵士達も自由が効かなくなってしまい風に巻き上げられ、稲妻に撃たれ、傷つきながらてんでばらばらに散った。
あの黒いローブを羽織ったサスリカの軍服の人物もロドノフ卿もどこかへ消えて、アステリアは鮮血の尾を引きながらスーパーセルの中心を逆さまに落ちていく。してやられた。だがアステリアはまだどうにか持ち堪えたよう。腹の傷口を自ら凍らせて止血し、天を指差していた。敵はあそこだ、戦え、とユーベルに訴えている。
暴走していたスーパーセルが秩序を取り戻す。ユーベルも自分の意思で風を利用して飛べるようになり、アステリアが指した上を見るとあの裏切り者らしき人物の人影があった。しかし——。
「……」
どうせアステリアはこのまま落下してまた地中へ避難するつもりだ。だが、そのことを見越したようでロドノフ卿の気配は地中にあった。
ユーベルは力なく落下していくアステリアを追いかけ、空中で確保。左手にアステリアを抱え、右手に太刀を構えた。
耳を劈く破裂音。太刀の切っ尖は地中に先回りしていたロドノフ卿の靄の盾を、今度は怒りに任せた勢いで撃破。その右胸を貫いた。
「……!」
「……」
鬼のようなユーベルの眼は血走って真っ赤に燃えていた。
最愛の義理の娘を傷つけられ、頭に血が上り、気がつかないようだ。ロドノフ卿が不敵な笑みを浮かべていたことに。
「いいものを見せてもらったよ、兄弟」
「!」
ユーベルの太刀に貫かれたロドノフ卿の右胸の傷口から黒い靄が無数の触手のように溢れ出す。ユーベルは咄嗟にアステリアを離すが、あっという間に靄の触手の中へ飲み込まれてしまった。
「お父さん!!」
絶叫。
ノドが吹き飛ぶようなアステリアの声が哀れに寒空に響いた。
初めて父親として呼ばれたユーベルは、「逃げろ」と言い残し、ロドノフ卿の闇の中へ消えていった。
アステリアはがくりと両膝を折り、雪原に座り込む。スーパーセルも消え失せ、生き残った兵士たちが降下する中、目の前で膨らんでいく黒い闇の塊を見つめて涙を浮かべていた。
降下してくる兵士たちが悲鳴をあげる。あの裏切り者が空中で自在に飛翔し、兵士たちに次々と斬りかかり、殺して回っていた。まるで悪夢だ。
そうだ、悪夢である。まだ序章に過ぎない。黒い物語は展開し、佳境を迎える。
「すぅー……。ああ、いい出来だ」
「……」
黒い靄の塊は人の形になり、やがて、ユーベルの姿になった。
「嫌だ……、嫌、嫌だ、嫌だ嫌だ! 嫌だ!」
恐怖と悲しみ、絶望に、アステリアは泣き喚く。そこにいたのは彼女の育ての親のユーベルではなかった。
「ああ、なんて無様なんだろう。この僕に刃向かうからいけない。君もそう思うだろう? お嬢ちゃん」
「……」
ユーベルはロドノフ卿に体を奪われたのである。
彼の皮を被ったロドノフ卿は太刀を構え、腰を抜かしたアステリアにじりじりと一歩ずつ詰め寄っていく。
必死で逃げようとしても渦巻く感情に感覚が狂わされ、ぎこちなく後退るだけ。しまいにはもう逃げることを諦め、号泣した。
「戦位、戦位、戦位——」
「可哀想に。こんな残酷なことがあるかねぇ。酷いもんだよ。でも僕のことを恨むのは違う。いけないのは弱いクセに強者に楯突いたお前の親父だ。娘一人救えないクセに、生意気なんだよ!」
ロドノフ卿の怒声に震え上がった。
激怒する彼の背後では空中で既に生き絶えたサスリカの兵士たちの無数の死体が鈍い音を立てて落下してきていた。もはや誰一人生き残っていないのではなかろうか。
とうとう黒いローブで顔を隠した裏切り者がひらりと降りてきた。
「もういいじゃない。欲しいものは手に入ったんだし。楽に死なせてあげなさいよ。怯えてるじゃないの」
「……!」
裏切り者が顔を隠していたフードを取る。裏切り者の正体は、戦場医務官、ミラーズだった。彼女に続いて他にも数名の兵士たちが無事に降りてくるが、その誰もがアステリアを睨んでいた。彼らもミラーズ同様、裏切り者であるようだ。
呆気にとられてアステリアはもう泣くことも忘れて固まってしまった。
ロドノフ卿が言う。
「まあいい、もう面倒だ。特に話すこともないし。じゃ、お嬢ちゃん。目を閉じて、歯を食いしばって」
「……お父、さん——」
アステリアは目を瞑り、悲しそうに呟いた。
ユーベルに拾われ、実の子のように育てられたアステリアに今、ユーベルの顔をしたロドノフ卿が斬りかかる。
ユーベルの太刀が最愛の義娘をばっさりと斬りつけた。
聞こえるはずのない金属音が耳を劈く。
何事かと目を白黒させるロドノフ卿。彼はたった今目の前で起きた出来事に度肝を抜かれた。
彼が振るった剣が斬りつけたのは、間一髪助けに入った何者かが構えた剣の側面だったのである。寸分違わず太刀筋に合わせて剣を構え、全てを側面でするりといなしてしまった。
牛若丸もひっくり返る芸当。こんなことができるとすれば、可能性があるのはこの場に一人しかいない。
「……目を閉じて、歯ぁ食いしばんのは——」
「! ……き、さぁっ、まァァッ!!」
「——テメェのほうじゃ!! ロドノフ卿ッ!!」
獣のように鋭い銀色の瞳が夜闇に薄く光る。
アステリアを助け、ロドノフ卿の前に立ちはだかったのは、チョールヌイだった。
チョールヌイの双剣とロドノフ卿が翻すユーベルの太刀が今、因縁の火花を散らす。