035 ガフーリ海戦
長い髪を向かい風に逆立て、雲と化した熱気の塊の中へ真っ直ぐにアステリアが飛び込んでいった。そうして突き抜けて姿を現わすと、彼女はいつのまにか両手に自分の身の丈ほどもあるハンマーを振り上げていた。
対するモンスターは迫り来るアステリアにちょうどタイミングを合わせ、四本の牙で噛み付きにかかる。
アステリアが八つ裂きにされるのが先か、モンスターの顔面に打撃が叩き込まれるのが先か——。
凄まじい金属音が夜闇を劈く。
アステリアのハンマーは迫るモンスターの牙を空中でぐるんと薙払い、四本とも見事へし折った。
彼女が突如構えたハンマーは大量の水蒸気を急激に掻き集めて凍結した、氷でできたものだった。牙をへし折ると同時に木っ端微塵に砕け散り、彼女自身も反動で大きく空中へ投げ出されてしまう。相討ちだ。モンスターも金属の牙の先が変形するほどの一撃を受けて大きく怯み、大海原へ巨体を打ち付け爆発的に飛沫をあげる。
アステリアも水面へ叩きつけられるかと思いきや、着水寸前に瞬時に水面を凍らせ雪原を構築。柔らかい雪をクッションにしてふわりと難無く着地してしまった。
彼女は天変地異のミル。空気中の水分すら瞬間的に凍結させて自在に武器を作っては、海面をも雪原に変えてしまえるのだ。
みるみるうちにガフーリ湾が雪原に変えられていく。モンスターの巨体もあっという間に氷漬けにされ動きを封じられた。
「は〜……、ふう〜」
まずは第一関門突破。いつになく緊張した息を吐いて、再び空気中の水分を凍らせ氷のハンマーを握った。
顔を上げたら、アステリアとは思えない固くこわばった表情をする。今回の相手はあのゲテルモルクス天撃個体すら比べ物にならない化け物らしい。牙をへし折り、全身を氷漬けにして動きも封じたと思えば、もう牙も再生し、体など凍ったまま動き出していた。つまり全く効いていなかった。
こんな相手が今までいただろうか。ミルの攻撃を受けてほぼノーダメージの相手など——。
牙のモンスターの赤い隻眼がこちらを向く。瞼もなくただのガラス玉が鉄板に埋め込まれているような目なのに、恐ろしく睨んで見えた。
「……ごけ。……うご、け——」
水平線まで続く規格外の巨体。瞬時に回復する再生力。
アステリアにとって一撃で倒せなかったモンスターは、これが初めてだった。強さ故に恐怖というものを初めて知った。足が震えて、さながらヘビに睨まれたカエルのように戦慄していた。
「……う……けっ。うご……けっ! 動け!!」
震える体に言い聞かせてやっとのことで駆け出す。
アステリアは周囲に風を纏う。小さな嵐の塊になり、牙のモンスターへ。地を蹴って再び空中へ跳び上がり、弾丸のようなスピードで空を切って隻眼へハンマーを振り上げた。だが——。
何が起きたのか。アステリアは見えない力に吹き飛ばされ、雪原に勢いよく叩きつけられた。雪のおかげで無事だったが、訳が分からず唖然とする。
牙のモンスターは帯電していた。電流は流れ方によっては磁力を生む。そう、膨大な電力を強力な磁力へ変換することで彼女を退けたのだ。
これでは直接攻撃は不可能。まるで遊ばれているかのようだ。
もうアステリアから余裕が消えていた。
きっとまだこの程度の能力ではないだろう。今のところ牙による直接攻撃と帯電による威嚇、磁力での防御しか牙のモンスターは能力を見せていない。この膨大な電力を攻撃に使ってこないとは思えない。特にアステリアは電力による攻撃を警戒し、恐怖していた。
モンスターとの戦闘が可能な兵士はごく少ない。その上この状況では真っ向から戦えるのはアステリアくらいだ。退っ引きならない。
「もう、意味わかんない! いつもなら鼻歌くらい歌いながら狩猟するのに! ああ、ああ! 不愉快だなあ!!」
恐怖が一周回って怒りに変わった。
牙のモンスターは余裕綽綽で空高く持ち上げた首を小躍りさせて嘲笑っているよう。アステリアは氷のハンマーを分解。そして違う武器へ再構築する。
作り出したのはまたしても小柄な体に不釣り合いな、氷でできたミサイルランチャー。もはや人力で操作するような代物ではない。蜂の巣のように発射口が並び、牙のモンスターに狙いを定めた。
「直々に、本気で戦ってやる!!」
無数のミサイル弾が一斉に射出された。勢い余ってミサイルランチャー本体も爆ぜるようにして砕け散り、アステリア自身も後方へ大きく吹き飛び、ミサイルは雨のように牙のモンスターへ飛翔する。
着弾したのだろうか。牙のモンスターの顔を覆い尽くすほどの氷の爆発が連続し、白い冷気で見えなくなった。
だがやはり効果は期待できないようだ。効いていたならまた大きく怯むはず。しかし牙のモンスターは首を持ち上げた姿勢を保っていた。次第に冷気が晴れて様子が見えてくると、アステリアは思わず一歩退いた。
無傷だ。ミルの能力を駆使した渾身の一撃がまるで効いていない。最初に牙を攻撃できたのは運良く不意を突くことができたからにすぎなかったよう。
そろそろ終わりにするか、と言うかのように牙のモンスターは牙を開いて閉じてカンカンと金属音を鳴らした。と、四本の牙の間に青白く光るものが現れる。とうとうやる気のようだ、電撃による攻撃を。
ブウウウーン、と聞き慣れない不吉な重低音が全身の骨々に響いてくる。空の飛行船には見向きもせず、アステリアに殺意を集中させていた。
直接攻撃は磁力で退けられ、遠距離攻撃も通用しなかった。例え当たったとしても次の瞬間には何事もなかったように復活している。挙句、巨大に宿している膨大な電力を攻撃手段にできたのでは、いくらミルといえども手に負えない。
牙の間に膨らませた電撃塊は夜空を真昼のように青白く照らし出す。目の前が眩しく真っ白に光り、あまりの光の強さに牙のモンスターの姿自体ホワイトアウトして見えなくなる。
「助けて! 戦位!!」
背筋が凍るようなアステリアの絶叫が真っ白な世界を駆け抜けた。
「……」
目が眩むような光が、消えた。
自分が死んでいるのか生きているのかも分からず、アステリアは恐る恐る目を庇っていた腕を下ろし、辺りを見渡した。
目を灼くような光のせいでなかなか目が慣れず、周りが見えてこない。
やっと見えてくると、彼女は目の前にユーベルがいたことに気がついた。
叫んでからだいぶ時間が経ったはずだ。これだけの時間があれば殺されていてもおかしくない。あの牙のモンスターはどうなったのか。何故目の前にユーベルがいるのか。
アステリアは両耳から血を流し、呆然としていた。
彼女の両耳を誰かの手が包む。しばらくすると音が聞こえてきた。何らかの理由で鼓膜が破れていたのを治してくれたらしい。アステリアが振り向くと、そこには眠っている黒羽を負ぶったシロがいた。
「……どう、聞こえる?」
アステリアは驚いた顔のまま頷き、
「何が起きたの? あのモンスターは?」
「あそこだ」
ユーベルの声で彼の方に向き直ると遠くを指差していた。
牙のモンスターは雪原の上に横たわり、頭から黒煙を上げてぐったりしていた。
「おまえさんのお陰でヤツとの戦い方が分かったんだ。何か攻撃を仕掛ける時は一瞬だけ無防備になるらしい。その隙に太刀傷を負わせてやったら、こしらえていた電撃塊が顔面で爆発して自滅した。鼓膜が破れたのはその爆発の衝撃波のせいだ」
「……」
ユーベルは太刀を携えていた。アステリアには見慣れた彼のメイン武器だ。かなり上手くやったようで、彼の軍服には汚れ一つ付いていなかった。
目が完全に慣れると、周囲にシャルロンやゼゼルたち、その他兵士たちもみんな集まっていたのが見えた。いや、集まっていたわけではないようだ。空に飛行船が見当たらない。雪原のあちこちに金属片が飛び散っていて、飛行船が粉々に壊れてみんな投げ出されていたのだと分かった。
「飛行船もあの電撃の爆発で粉々だ。それであの化け物もまだ死んでいない。だいたい状況は分かっただろう。とどめを刺しに行くぞ」
「ごめんね、アステリアちゃん。なんて謝ればいいか」
「……。んん〜〜! ふんっ!」
「ん?」
アステリアは冷たくそっぽを向いた。
「あれは私の獲物! わ! た! し! の! 自分が助けたとか思わないで! 戦位のばーか! ばーか! あ、シロちゃんは治してくれてありがとう」
「……あのなぁ」
「ええ……」
シロに治療されて体力が戻ると、いつものアステリアに戻った。
「このくらいなんともないし! ちょっと油断しただけ! 全然余裕だったんだってば! もう! 戦位は何もしないで! 私がとどめを刺しに行ってくるから!」
「そうかそうか。分かったよ。行っておいで」
「……うん」
一緒に来てと目で訴えていた。仕方がないからユーベルとシロは静かに後ろをついていくことに。
アステリアは時々ちゃんとついてきているか確認するように振り返りながらユーベルたちの前を歩いて牙のモンスターに近づいていった。
周りでは隊長たちが部下を集めて今後の作戦を練るため話し合いをしている。彼らの声も聞こえなくなるくらい歩いていくと、雪原に横たわる牙のモンスターの頭に人影が見えた。
「! 止まれ、アステリア」
「「……!」」
牙のモンスターの頭に誰かが腰掛けてこちらを見ていた。
黒いローブを纏い、頭からフードを被った子供のような人物。暗闇で薄く光る銀色の瞳。
「迎えに来たんじゃ。私が踵を鳴らしただけ、部下が死ぬ」
「チョールヌイ!」
泣きっ面に蜂だ。目が暗がりで光るのは臨戦態勢にあるミルの特徴。晩極戦争はここで繰り広げる気でいる。
呟くように物騒な第一声。続いて牙のモンスターの頭を踵で二回軽く蹴ると、アステリアたちの背後で悲鳴が二つ上がった。
「ほら、二人殺した。自分が死んだことにも気がつかなかったろうなぁ」
コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン。さらに七回音を鳴らせば、さらに七つの悲鳴が上がった。
今日のチョールヌイは何かがおかしい。シロは気づいた。前に黒羽を襲いに現れたときより表情からも人間味が感じられなかった。
「あーあ、また何人も殺しちゃった。こんな簡単に死んじゃう人たちなんか連れてきて何がしたかったん? あんまり殺したくないのにさぁ」
一体どうやって攻撃しているのか。チョールヌイは本当にただ踵で音を鳴らしただけに見えた。全く攻撃をするような素振りは無かった。
「……6時の方向にロドノフ卿」
ユーベルが言うと、チョールヌイは面食らったような顔をした。かと思うと薄く笑って手を叩く。
「お、正解! すごいすごい。正解したから——」
突如、シロの目の前に刃が向けられた。もう少しで鼻先を切られるところで、驚いて黒羽を抱えたまま腰を抜かしてしまった。
「戦位!」
「——正解したから、殺さなきゃ。残念でした!」
一瞬だった。シロの目の前に突き出された刃は、ユーベルの胸を貫いたチョールヌイの双剣の片一方だったのである。