030 忘れられた絶景
いったいどれだけの確率なのだろう。場内にいる観客の数は少なくとも万の単位だ。その中から選ばれるとは何という強運。
シロはまさかの出来事に右を見ては左を見て、文字通り目を回す。そして黒羽に「どうしよう」と目で訴えた。混乱しているのが目に見えるくらい。頭の先からボフッと湯気を吹きそうな顔だった。
「やれやれ、俺らも付いてってやるって」
「……う、うん」
こんな大勢の前に出されることなんてそうありはしまい。シロは恥ずかしそうにうつむき加減で頷いた。
選ばれたのはシロなのに彼女を促すために黒羽とアステリアがキケラメティディーギスの分身の案内に従って先頭を歩く。シロはトンガリ帽子の広いツバを引っ張って顔を隠しながら黒羽たちの後ろを歩いた。
黒羽もアステリアもあえて何も声をかけてやらずに黙々と誘導する。暗い通路を進み、なだらかな傾斜を降りていってしきりに後ろで恥ずかしさと緊張にカチコチになっているシロを一緒に振り返っては面白がった。
そうして丸いステージへ到着。キケラメティディーギスの分身も散り散りになって消えて、もう間もなくシロの出番だ。
シロがアステリアにトンガリ帽子の下から覗きあげられて「うわぁ!」と声をあげる。
「ふふ〜ん。シロちゃん、出番だよ。顔がよく見えないから一旦コレは私が預かるよ。ふっふっふ」
「うへえぇ……」
問答無用でアステリアはシロのトンガリ帽子を取り上げた。まだローブにフードが付いているから代わりにそれを被ればまた顔を隠せるがそれはあまりにも空気の読めない行動。仕方なくうつむいておどおどしながら檻の中のキケラメティディーギスに緊張いっぱいの視線を送った。そして黒羽とアステリアの顔を不安そうに見比べた。
黒羽は地面を指差して意地悪に薄く笑いながら言う。
「じゃ、俺たちはここで待ってるから。さ、行ってこい」
「ええぇ……」
「シロちゃん、おめでとうだけどドンマイ」
「ええぇ……」
「ほら、早く行ってこいって」
「ううぅ……」
シロの青い瞳が右へ左へ行ったり来たり。もじもじしてしまうばかりでなかなか重い足が前に出せない。
確かにシロはこんな目立つことは似合わないタイプだ。だからこそそのギャップに落ち着きを失うのが、黒羽は見ていて滑稽だった。
「さあ、どうぞこちらへ。恐がることはありませんよ」
ステージのすぐ手前まで来ているのにあまりに尺をとるからローブの年配の男もシロに声をかけた。白髪白ひげの優しそうな老紳士だった。
ここまできてはもうどうにもこうにも登壇するしかない。今のシロの目を絵で表すなら2つの矢印を向かい合わせたようになるだろう。けれどやはり緊張しながらも退っ引きならず、やっとステージに上がった。
「それではみなさん、今回のショーの特別ゲストがお見えになりました——」
ローブの老紳士はマイクもなしに万の観客に再び司会をはじめた。しわがれていながら会場の外まで抜けていきそうなよく通る低い声。老紳士に観客のほうを見るように指差しで促されてシロは渋々それに従う。はじまっちゃったよとまた目で訴えてくるが黒羽もアステリアも上下の唇を噛んで笑いをこらえて見守るだけだ。
「ではゲストの紹介です。……お嬢さん、お名前をお聞きしてもよろしいかね?」
「……し、シロです」
「ご協力いただくのはシロさん! 爽やかで可愛らしい良いお名前ですね。……今日はどちらからお越しですかな?」
「……うへ、えっ、ええと——」
どこから来たのかは答えないほうが良かろう。なんて言えばいいかとまた目で訴えてきたがこれには無論、黒羽もアステリアも左右に激しく首を振った。
「ええとええと、ど、どこでしょうぅ〜っ」
「あ、あははは。もっと肩の力を抜いてくださいな」
上手く誤魔化したのか、ただ緊張しているだけなのか。いや緊張しているだけに違いない。老紳士も苦笑いでこれ以上は何も聞かずに本題に入る。
「それでは本題といきましょう。シロさんも緊張してお見えです。みなさんも応援して差し上げてくださいな」
老紳士がそう声をかけるとあちこちから「がんばれ〜!」だとか「大丈夫、大丈夫!」だとか応援する声が上がった。みんなノリがいい。
「はははは、みなさんありがとうございます。では、頑張っていきましょうね、シロさん」
「は、はいっ!」
「さて、ということでですね、これからシロさんにはキケラメティディーギスの額に触れていただきましょう。そうすることによってキケラメティディーギスがシロさんの忘れている記憶の中の景色、中でも美しいものを読み取り、広げた翼に映し出してお見せします」
「お、おお……」
シロは白い眉を八の字に歪めて記憶を探り出す。何をやっているのやら。忘れた記憶だというからにはどう頑張っても思い出せまいのに。
やることが決まったところでシロは老紳士に促されて檻の前へ。キケラメティディーギスは全身を青白く薄く発光した状態を保ち、額を差し出して翼を広げて準備は万端だった。
「ささ、遠慮することはありません。軽く撫でてごらんなさい」
「は、はい……」
シロが恐る恐る檻の中へ手を伸ばしていく。キケラメティディーギスは大人しくじっと待っていた。
それでシロも安心したのか、ヨシヨシと可愛がるように撫でた。老紳士に言われて瞳を閉じて撫でる手を止める。
すると、キケラメティディーギスの広げた翼が何かを映しはじめた。黒羽はてっきり夕陽の国で一緒に眺めた夕陽が映されると思っていたがどうも違う景色のよう。
翼に映し出されたのはどこかの国の街をかなり高い位置から見下ろしている景色だった。上のほうはすぐ雲が流れていく。空は青く晴れていて、地上の街並みには雲の大きな影がゆっくりと移動していく。
確かに美しい景色で絶景というに相応しいが、視点の位置があまりにも高すぎる。鳥でもこんな高さまで飛ばないのではないかというくらいだ。それにもっと不思議なものがある。鉄格子だ。こんな雲ほどもの高さでありながら鉄格子が嵌められているだけの窓から見下ろされた景色らしいのだ。
美しいものの色々と不可解でなんとなく不気味さすら感じられる景色が広がっていた。と、次の瞬間途端に翼の映像は消えた。老紳士がシロの手を取ってキケラメティディーギスの額から遠ざけたのだった。
「……今のは——」
「ははは、きっと夢で見た景色だったのでしょう。夢なら誰もが忘れてしまうもの。でも良い景色でしたねぇ。夢であるからこその現実離れした神秘的な良さがありました」
「夢……」
どういうわけかシロ本人が一番動揺していた。夢だと言われても納得がいかないと言いたげな顔だった。
場内からは老紳士の説明に「すげー!」だったり「夢までもう一度見せてくれるだなんて!」だったりと次々に感動の声が上がっていた。
◯◯◯◯
キケラメティディーギスのショーは多くの人々に感動を与えて無事に終わった。観客たちが楽しそうに口々に感想を言い合いながら出ていくのを、黒羽たちは老紳士とキケラメティディーギスと共に見送った。
ついさっきまであれだけ賑わっていた会場も人がいなくなると嘘のようにガランとしてしまった。
「さっきのあれは、夢の中のものじゃなかったんだろ?」
しいんと静まった空気の中には黒羽の呟くような声も大きく聞こえた。
シロもアステリアも彼の後に続かない。じっと老紳士の顔を見つめていた。
老紳士は何か知っている様子だった。でなきゃわざわざシロの手をとってあの景色を消すわけがない。彼は黒羽たちには横顔を向けて空っぽの観客席をぼんやり見つめたまま白い顎ひげを撫で、何事かをしばらく考えていた。
そうして低く唸り、こう言いだす。
「そんな馬鹿な——」
「どういうことだ?」
老紳士の視線は黒羽とシロの間を一往復し、また観客席に戻った。
「あれはかつて存在した天空の国に似ていたのです」
「天空の国?」
黒羽は珍しく真面目にロードから受け継いだ記憶を探る。けれどそれでも知らない国だった。
「10年前、私はあの天空の国でも今回のように彼、キケラメティディーギスと共にショーをしたことがあります。そもそも高い山の頂に栄えた国でしたので、一番高い建物のてっぺんはちょうどあれくらいだったと思います。そのことからしてもあの景色は天空の国のものだったに違いありません」
「天空の国……。シロ、お前、そこの出身なのか?」
黒羽が訊くとシロは何か恐れているような不安げな目をしていた。
「そんな、だって私、物心ついたときからずっと夕陽の国にいたはずだもん。……物心つく前にはその天空の国にいたっていうことなのかな?」
シロがそう言うと老紳士が低く唸った。
「しかし、あんな高さに物心つく前の幼い子供がいたとは考えにくいですな。景色はいいかもしれませんが、寒くて凍えてしまいます。それに私があの国へ行ったとき、一番高い建造物であった塔はモニュメントだと言われていました。記念に近くまで行って見せてもらったのですが、実際、入り口らしきものもありませんでした。だから登れるのではという期待が失せたのを覚えています」
「他に高い建物は無かったのか?」
「……ええ。その塔ひとつだけが巨大というだけで他には無く、とても目立っていましたから」
聞けば聞くほど気味の悪さが増してくる話だ。
ここまでを整理すると、多く見積もってまだ二、三歳程度の子供が街から隔絶された非常に高い入り口のないはずのモニュメントの最上階に閉じ込められていたことになる。そんなことがあり得るだろうか。しかもそれはシロの記憶であるはずなのに、本人は身内からもなにも聞かされていなかったというのである。
「さっき、天空の国をかつて存在した、と言ったな。それはそれでどういうことなんだ?」
「……それが、正確には、行くことができなくなったのです。天空の国を成す山は海に浮かぶ孤島の一部がうず高く伸びた特殊なものでした。それがある日を境に周辺の海域が深い霧に包まれ、見ることは愚か、近づいてもいつの間にか手前の海上に引き戻される異常な空間になってしまったのです。今では忘れられた海域と呼ばれ、世界の七不思議の一つとなっているのだそうで」
「海からがダメなら、空から入ればいいんじゃないのか?」
「いいえ。空は空で厚い雲に覆われ、降り立とうとした航空機は雲の手前の空へ同様に引き戻されるそうなのですよ。今となっては誰にも足を踏み入れることのできない土地なのです」
二人と一匹は老紳士の話に顔を見合わせた。
「ただ、現在でも私のように行ったことのある者が様々な視点からの絵を描いているので、シロさんはきっとどこかでその絵を見たのが夢に出たのではと。でないととても説明がつきませんよね。私に分かるのは、これで全てですなぁ」
「ありがとう。あとは俺たちで調べるとするよ。今日は色々と世話になった——」
これ以上問い詰めてもなにも出ないだろうし、当事者であるシロが可哀想なだけなので黒羽は急ぐように会話を終わらせる方向へ持っていく。
「最後にその天空の国とやらの位置を教えてくれないか」
「ええ。昼間の地方の中央にはイソストゥール洋という大洋が広がっていますよね。10年ほど前の地図にならケビフーヲ島という島のすぐ東に描かれているはずです」
黒羽とアステリアは一緒に視線を合わせて頷き合った。
こんな謎がシロに付き纏っていたのでは気分が悪いし心配なものである。軍基地に戻って調べることにした。