025 [モノローグ] 黒羽隆二
黒羽がまだ人間だった頃——。
彼は生まれたときからマフィアだったわけではなかった。本名を黒羽 隆二といい、7歳までは人並みに小学校に通って、放課後は年の離れた姉の黒羽 博愛と一緒に下校する日々だった。
博愛は当時小学校6年生。やんちゃ坊主でいつもあちこち怪我を作ってくる困った弟を母親顔負けに面倒見て、兄弟ゲンカなど一度もしたことのない、優しい姉だった。
隆二が怪我を作る理由は単に転んだだけということもよくあったが、多くは友達とのケンカが原因だった。
「どうしたの、その怪我。まーたケンカしちゃったの?」
梅雨が明けてもうすぐ夏休みという頃。いつも待ち合わせ場所にしている校門の前に行くと、博愛は隆二が額にこしらえた痣を見るなり言った。
かがんで隆二と目線を合わせ、彼の被る黄色い帽子を上げて怪我を見ようとする。けれど隆二はむすっとした顔で首を振り、払いのけた。
「なんでもない! かえろ」
「やれやれ、大変だなぁ男の子は。仲直りはできた?」
「しらない」
ふてくされた態度を取りつつ姉の手を引く。
セミがうるさい、日光が地面を焼くからりと乾いていた一日。二人は水筒の氷をカラカラ鳴らして歩き出した。
隆二は特別ケンカっ早い性格だったわけではなかった。目つきが悪く、真顔でも睨んでいるように見えるせいかなにかとトラブルに巻き込まれる体質だったのだ。幼稚園の頃は泣きながら殴り合うのが日常だった。しかし小学校に上がってからは一度も泣いていない。今回もそうだった。幼稚園を卒業するとき、泣くのも一緒に卒業しようと博愛から言われていたから、泣かないようにしていた。その調子でケンカも卒業できれば良かったのだが。
学校を出てしばらく。もう今は隆二が手を引かれていた。
右手に公園が見えてきた。博愛はまだむすっとして地面を睨みながら歩いている弟を見て公園を指差す。
「ねぇ隆二ぃ、今日は一緒に遊んでから帰ろうか」
「……。いい。かえる」
「このまま帰っちゃったらなんにも楽しくないよ。家じゃお母さんが宿題やれってうるさいし、いい事ひとつもないじゃん」
「じゃあお姉ちゃんだけ遊んでけよ。俺はお姉ちゃんのせいでケンカになったんだ」
「……、私のせい?」
隆二は首を傾げる博愛を睨む。
「そだよ。いっつも姉ちゃんと一緒にいるって」
「ふぅん。私もよく、弟大好きだよねって言われるよ。みんな羨ましいんじゃない? 仲良しなのが」
「……。べつに、仲良しじゃねぇし」
「仲良しだよ〜。じゃなきゃどうしていつも一緒に帰るの?」
「……。ん〜、しらねぇよ、めんどくせぇなぁ」
「はははは、可愛い」
「かわいくねぇ! ぶーす! ぶーす! 姉ちゃんのぶーす!」
そう言いつつ隆二は博愛を離れて、てててて、と公園に駆けていく。
これでいつのまにか嫌なことはすっかり忘れて、後で楽しかったねとか言いながら上機嫌で家に帰るのだ。
結局、そうやって夕方まで遊んで過ごしたのだった。
○○○○
黒羽がマフィアになったのは、復讐のためだった。
家族で夏休みを利用して海外に旅行したとき、予想だにしない不幸に見舞われた。
当時小学校1年生だった彼には何が起きたのか全く理解できない事態だった。
偶然にも泊まったホテルに他国のマフィアも宿泊しており、人相の悪かった父親が間違われてしまったのである。宿泊中のマフィアを狙っていた相手側の一味が人違いで黒羽一家の部屋を襲撃してしまったのだ。
扉を叩かれ、開けた黒羽の父親がその場で撃たれ、一家は戦慄した。黒スーツを着てビジネスマンに扮した男を一見してマフィアだとはすぐには気づけない。だが相手からすれば家族がいる時点で人違いに気づいたはずである。が、ならばそれはそれで一般人に顔を見られたという点で問題だ。口止めのために、その男は黒羽の母親に銃口を向けた。
彼女は咄嗟に博愛と隆二を庇い、銃弾を受けた。
一分と経たないうちに両親が撃たれる。こんな事態を誰が予測できただろう。
唖然として立ち尽くす隆二、恐怖で言葉を失う博愛。二人の前には父親と母親が血を流して倒れ伏し、正面の開け放たれた扉には悪魔のような男が黒い拳銃をこちらへ向けている。部屋の照明は煌々と照っているのに恐怖で薄暗いくらいに感じられた。
カチッ、と乾いた音を立てて次弾が装填される。その後鼓膜が裂けるような数発の銃声が響き——。
「……姉、ちゃん?」
「……」
今度は博愛が撃たれた。隆二を抱きしめるようにして庇ったまま背中に何発も浴びて、まるで人ではない大きな物が倒れたような、日常では考えられない音を立てて崩れてしまった。けれどまだ意識があった。奇跡的に急所は外していたよう。
痛そうに、もう真っ赤に濡れている傷口を抑えながら、涙目にこちらを見上げていた。
「……隆二、……隆、二」
「……」
博愛の真っ赤な左手が隆二の着ていたシャツを必死に掴んでくる。自分が死ぬことより隆二の心配をして、意識を失うまでずっと見つめてきていた。目蓋に焼き付くような悲しい目。どうか弟だけはと神に祈るような目は、苦しそうに瞑られた。
カチッ、と乾いた音がする。
次弾が装填された拳銃が自分を狙っている。世界から音が、時間の流れが消えた。時間が止まったように感じられた。
永遠に続くかと思われた静寂は、更なる銃声に打ち砕かれる。だがしかし、撃たれたのは隆二ではなかった。
家族を立て続けに撃った男が倒れていた。
堰を切ったように隆二は泣き出した。博愛に泣くのは卒業だと言われていたのに抑えきれなかった。
どうしてこんな目に遭わなければならなかったのか。どうして博愛まで撃たれているのか。どうして自分だけ助かっているのか。やり場の無い怒りや悲しみが込み上げつつ博愛の体を揺する。
「姉ちゃん、姉ちゃん! 起きて、起きてよ! 死なないでよ! 俺、もう、どんだけバカにされてもいいから……、一緒にいたいよ、ねぇちゃん……」
赤い景色は涙で歪んでも赤い。
どれくらい泣いていただろう。鉄の匂いにむせりながら泣いていると、誰かが隆二の肩に触れた。顔を上げると正面の博愛の向こうから大きな男が腕を伸ばしてきていた。
泣くのに夢中で正面から歩み寄られているのにも気づかなかった。私服姿の見たこともない大男は青色の瞳で隆二を見つめて、
「逃げるぞ、坊主。来い」
そう言うと彼は博愛を前に抱き上げ、隆二は仲間に保護させた。父親に似た人相の悪い外国人だった。
○○○○
残念ながら博愛は助からなかった。
途中まで息があり、必死に応急処置を施されていたが、彼女が目を覚ますことはもう二度となかった。
隆二を助けたのはマフィアのボスだった。生き残った隆二は彼に拾われ、家族の復讐を果たすべく自分もマフィアになる道を選んだのだった。
ボスは私情に罪のない黒羽一家を巻き込んでしまったことに悪党ながら責任を感じたらしく、隆二を実の息子のように育てた。
これが黒羽隆二がマフィアとして生きることになったきっかけだったのである。
家族の敵討ちは日々の訓練によって16のときには果たすことができた。だが、だからと言って失ったものが戻ってくることはない。あのとき自分の家族を殺した一味を全滅させた後は、当初の目的などとうに忘れて殺しに明け暮れることになった。腹が立っていたのだ。敵を取っても家族が、姉が帰ってくるわけではないという理不尽な現実に腹が立って仕方がなく、憂さ晴らしと言わんばかりに殺して殺して殺し続け……。いつしかミイラ取りがミイラになるように、黒羽は殺人兵器と呼ばれるようになるほど暴れ回った挙句、気分を落ち着かせるために気が狂ったように喫煙していたために肺炎を起こして26という若さで悲しい生涯を終えたのだった。