022 シロと黒羽の休日 前編
廊下の窓も厚いカーテンが閉じられて暗かった。シロの気配がある方向へ進み始めてすぐ誰かの人影が見えた。ゼゼルだった。
こんな夜中でも彼は甲冑を着たままで腕を組み、壁にもたれて立っていた。黒羽に気がついて愛想よく笑う。
「やあ。どうしたんだい、こんな夜更けに」
「よう。どうもうちの子が迷子になったらしいんだ。張り紙でもそこらじゅうに張っつけて回んねえとな」
「ははは、シロさんならこの部屋にいるよ。君にはあまり知られたくなかったみたいだったけど、見つかったんじゃ仕方ないね」
ゼゼルは自分の正面の半開きの扉を指差して言った。
「ここはミラーズの部屋だ。この前、君が大怪我を負ってここに来た時からずっと、彼女と一緒に毎晩のように回復魔法の勉強をしてるんだよ」
「……」
ゼゼルは言いながら扉を少しだけ開ける。黒羽も近寄って一緒に中を覗くと、シロはカーテンも閉めず部屋を明るくしてミラーズと机に向かっていた。彼女に家庭教師をしてもらいながら黙々と羽ペンを走らせていた。
黒羽は胸が熱くなる。シロが昼間よく眠たそうにしていたのはこうやって夜な夜な遅くまで勉強していたからだったのだ。
黒羽はこみ上げる思いが言葉にできない。食い入るように、静かにシロの背中を見つめていた。夢中になっていたあまりゼゼルが扉を閉めてやっと我に返った。
「……そうか。……そうか——」
黒羽がとぼとぼと自室へ向かって歩き出すとゼゼルが呼び止めた。
「どうしたんだい? せっかくだから一緒にいてあげればいいのに」
「バカ言え。無理だ、こんなの。……ありがとな」
暗い廊下をもっと暗い色の猫が歩いていく。
黒羽は幸せだった。永く凍てついていた心に温もりが宿った。周りの景色が前より明るく明瞭になった気がした。久しぶりに愛情を感じて苦しみから解き放たれる感動にまだ名前がないのはどうしてだろう。
最近は特に独りで動いていて疲れていた。一度面倒ごとに巻き込まれてしまったらそれを解決しようとするのは大変で、シロのことまで気が回らなくなって寂しい思いをさせたこともあった。夕陽の国の外れで出会ったばかりの頃よりも距離が離れた気もしていた。でもシロはそんなことはなかったのだ。独りで抱え込んで晩極戦争に向けて動いていた自分の背中をいつもいつも心配して見ていてくれていたのだ。そして今も——。
その晩、黒羽はシロが戻ってくるまで自室でずっと待っていた。扉の前に座ってその向こうを見つめながら、待ち遠しそうに右へ左へ尻尾を振って。
まだ戻ってこない、まだ勉強している、まだ眠らないのか、と、待って、待って、待って……。
そうしているうち時刻は7時。朝になった。
カチャ、とロックの壊れた扉は開かれて、勉強を終えたシロが戻ってきた。
扉を開けたシロのすぐ目の前には黒羽がちょこんと座ったまま眠っていた。彼女はしゃがんでそっと抱き上げ、赤ん坊をあやすように頭を撫でる。そして彼女も黒羽を抱いたまま床に横になり、すやすやと寝てしまったのだった。
◯◯◯◯
今日は外出することにした。
昼過ぎに昼食の配膳のおばちゃんに起こされるまで寝ていて、食べながらなんとなく気晴らしにどうかと黒羽がふと思いついたのだ。いつまでも屋内にいては息が詰まるし、それに難しいことは考えず久しぶりにシロと二人でゆっくり過ごしたい気分だった。
そんなわけでゼゼルにも一度の瞬間移動で戻ってこられる範囲までという条件で外出の許可を得た。
シロは受付嬢のマリーがくれた魔法使いのローブに着替えた。それで出発しようという頃、そういえばサスリカの通貨を持っていなかったと今頃になって気がついた。
部屋の引き出しにしまっていたシロの財布には夕陽の国の硬貨が少し入っていただけ。これもこの国ではただのメダルでしかない。
「ありゃ、どうしよっか」
「仕方ねぇ。カツアゲでもするか」
「カツアゲ!? それはダメだよ」
「冗談だ。しかし困ったな。金がねぇんじゃ、まあ、でも散歩するだけでも違うだろ。とりあえず外でようや」
「そうだね。ご飯は食べさせてもらえるんだから、お腹空いたら戻ってこればいいよね」
「ああ」
と、話していると誰かが扉を叩いた。叩いた勢いだけで扉が開いた。
「あら、ここの鍵壊れてるのね」
扉を叩いたのはミラーズだった。要件を忘れて扉を開け放ち、鍵を気にしていた。
「今日中に直してもらうわ」
「ありがとう。というか、そもそも何でそんなのが付いてるんだ? 別にみんな知り合いなら必要なさそうだが」
「お客さんが来たときのために、プライバシー保護のためにあるのよ」
「ああ、そういうこと」
どうせ直してもまたアステリアがぶち破りそうだと黒羽は思った。
ミラーズはようやく鍵から目を離して黒羽たちに向き直り、
「ところで、今日はお出かけするらしいわね。この国の通貨は持ってる?」
「いや、それが母国のしか無くてな。ちょうどそのことでシロと話してたとこだ。夕飯には帰ってくるよ」
「まあ、そんなことだと思ったわ。来てよかった」
そう言ってミラーズはポケットから小銭入れを取り出し、シロに手渡した。
黒羽はシロの背中によじ登って、同じ目線の高さから財布を見下ろした。
シロが戸惑いながら訊く。
「え、ミラーズさん、これは……?」
「このサスリカのお金よ。せっかくだからあった方がいいじゃない」
「え!? いいんですか!?」
「もちろん。お財布ごと全部あげるから、楽しんできて」
「おいシロ、ちょっと開けてみろよ」
ボソッと黒羽が耳元で囁いて開けさせる。すると中には大豆くらいの小さい金色のキューブがいっぱいに入ってキラキラしていた。
「この国のお金は四角いの。コインにすると落としたとき転がっていっちゃうし、紙幣も作って分けなきゃいけないし、かさばるけど、キューブだと転がらないし、材質で差別化できるから紙幣も作る必要ないし、案外かさばらないからね」
「「……」」
材質で差別化できるから紙幣を作らなくていいということは、つまり最高額の紙幣もキューブにされるわけだ。そして金色といえば大抵の場合ナンバーワンを意味する。それがいっぱいある。ということは……。
いや、そんなまさか。黒羽とシロはそう思ってとりあえずお礼を言い、ミラーズに見送られてサスリカの街へ瞬間移動していった。半ば、その場から逃げるように。
○○○○
街へやってきた。
人通りは少ない。
道はかなり広い。
はらはら、綿のような雪が降っている。
そのせいで道は白くなっていた。
寒いから景色を見ている場合ではなかった。
すぐに暖かくなる魔法をかけた。
鈍色の雪雲が空を埋め尽くし、あちこちに赤やオレンジ、青や白などの古城が点在していた。
オレンジ色の鮮やかなものは古城かと思ったら時計塔だった。
古城以外の建物はみんな白っぽい色をして、屋根はなく屋上を持ち、どれも四角い。高さも同じくらいだ。等間隔に並んでいて街は広々と開放的に見えた。
どこからか甘い匂いがしている。この辺りは料理店があるらしい。しかしちょうど食べてきたところだから用はなかった。
とりあえずもう一度財布の中を見てしまう。やっぱり金色のキューブの小粒がいっぱい入っていた。お釣りを入れるスペースなのか、容量に少し余裕があった。
「シロ、ちゃんと体で払っとけよ」
「いやいやいやいや、冗談きついきつい」
「ははは、お前やっぱいじり甲斐あるよな。まあ、とりあえず流石に大金だったら申し訳ねぇし、無駄遣いはしないでおこうな」
「そうだね。ねぇ、どうする? お茶でもしようか」
「ああ。んじゃ俺はミルクで」
ひとまず街の雰囲気に慣れるには適当な喫茶店でゆっくりするところから始めるのが良さそうだった。
いい目印になるから鮮やかなオレンジの時計塔へ向かって歩いていく。視界に入る地元民たちは大抵毛皮のコートを着て暖かくしているが、たまに見かける魔法使いの格好をしている者たちはシロと同様の軽装で平気な顔をしていた。やはり魔法で暖をとれるようだ。
四角い建物は一階部分が何らかの店で、二階以上は民家になっていると見える。時々洗濯物がベランダに干されていた。
パン屋やら酒屋やら、服屋やら靴屋やら手袋専門店やら。色んな店を通り過ぎて交差点まで出てきた。ただでさえ幅の広い道なのにそれぞれが交差すると車さえ通らなければ子供たちがサッカーの試合をして遊べそうなくらいに広かった。
歩行者の信号はマルとバツの記号でそれぞれ青と赤。この国の個性がこんなところにも感じられた。
二階建てのバスが通って、人々を拾っていく。こういうところはどこの世界でも近代的になると必然的に発達するようだ。
「ゼゼルたちの甲冑とか古めかしいのに、なかなか先進国だったんだな」
「んだね。夕陽の国にはあんな大っきい車なかったのに、すごいね。あんなにたくさん人、乗れるんだ」
シロはバス自体初めて見たようだ。
横断歩道を渡って更に時計塔の近くへ行くとようやく喫茶店が出てきた。ここまで来ると人通りもさっきより増えてきた。
喫茶店までたどり着いたら、どんなものを売っているのかショーウィンドウを確かめる。デザートと紅茶が中心らしい。ご丁寧にメニューも出入り口の近くに用意されているが、黒羽には何が書いてあるのか分からず、ミルクがあるのかないのか分からない。今まで肉と野菜、水とミルクで生きてきたからそれ以外のものを口に入れるのはあまりいい気がしなかったから困った。
「シロ、なんて書いてあるか読めるか? 俺はあんまり水かミルクの他は口に入れたくないんだが」
「読めるよ。ミラーズさんに教えてもらったから、任せて。あ、ミルクもあるって」
「……天才か」
黒羽も夕陽の国の文字は何度か見たことがあった。よく襲撃していた八百屋や、その通りの店に色々書かれていた。サスリカの文字がそれと雰囲気が違うことくらいは彼にも分かった。違う国の文字や文法を覚えるのは簡単ではないはずだが、こんな数日の間に日常生活ができるくらいには習得するとは、シロは相当頑張ったに違いない。
「みんな美味しそうだね。クロちゃんは食べなくていいの?」
「ああ。さっきお前が残したハンバーグも食べたから満腹だ。別腹もないくらい満足だからミルクだけで充分だ」
「えへへ、そっか。それじゃ、入るよ」
シロはこきゅんとノドを鳴らし、喫茶店の扉を開けた。