002 シロ・メロウは魔法使い
あれからどれくらい経ったのか、黒猫はようやく意識を取り戻した。けれどまだ寝起きのように眠くて目が開かない。
今まで黒猫は冷たくて固い土やコンクリートの上で寝ていた。それが、今日はどこで寝ているのかフワフワとした柔らかい感触に包まれ、猫に生まれて初めて熟睡していたのだった。
だんだん冴えてきて、自分が横を向いて寝ているのが分かった。フワフワなのは脇に当たる床だけではなく、何故か前足にも顔にも柔らかく温かい感触がある。
(……ん? なんだ、これは。やっぱり俺は、死んだのか。……それにしては温かい。とてもあの死神のところではないな。それになんだ、このいい匂いは。花? 石鹸?)
黒猫がやっと目を開けると、何か肌色の大きなものに顔を埋めて寝ていた。まだ視界がぼやけていて何が何だか分からないが、彼のヒゲに温かい風が流れてきて、それと一緒に「すーっ、すーっ」と、心地良さそうな寝息が聞こえてくると、やっと状況が分かった。
黒猫はベッドで、あの白髪の少女に抱っこされて寝ていたのだった。しかも、少女は下着姿で、豊満な胸の上半分を黒猫の顔に押し当てていた。黒猫はちょうど、少女の胸を揉んでいるような体勢にさせられていた。
(……。こりゃスゲェ。この若さでその辺の、いや、前世で出会ったどんな娼婦よりいい身体してやがる。なんだこのデカい乳は。なんだこの弾力は。この年でこの美貌と身体にあの声。クッソ、バカみてぇな上玉だな、やっぱ。カァ〜ッ! たまんねー! 大ケガして助けて良かったー! ……って、ぬを!?)
黒猫が思わず興奮して、スベスベした少女の谷間に頬ズリしていると急に強く抱きしめられてしまった。
(くっ、苦しい! やめろ、起きろ! 乳圧で死ぬ!)
少女の胸に溺れ死んでしまいそうで、必死にもがいて鳴き声を上げているとやっと彼女は目を覚ました。
「んんっ、ん〜。くぁ〜」
(よし、これで少し空気が吸えるように、ぬおおおお!?)
解放されたかと思いきや、またすぐに抱きしめられてしまった。もはや胸が凶器と化している。
黒猫は仕方なく力いっぱい暴れた。すると、今度こそ少女はしっかり目を開けた。
「……あっ、ごめんごめん。苦しかったね。えへへへ」
「……」
やっと解放されて黒猫は大の字になり、顔を青くした。もう少しで本当に死ぬところだったのである。
そんなこととも知らず、少女は子供みたいに無邪気に笑った。
(まさか、この俺がこんな小娘に、しかも胸で殺されかけるとは……。ちくしょう、怒りたくても怒れねぇ)
「よいっしょ」
黒猫が伸びていると、少女はベッドの上に正座して、彼の脇を抱えて膝に座らせた。今度はちゃんと加減して黒猫を胸に抱きしめた。
「おはよ〜う、黒ちゃん。昨日はありがとね。おかげで助かったよ。それにしても……、黒ちゃん重いねぇ」
「けっ、これは全部筋肉だ。太ってんじゃねぇからな」
そう言ったつもりでも、実際は鳴き声しか出ない。少女は黒猫をナデナデして可愛がりながら勝手に話を進める。
「よくあんな大っきな相手に立ち向かえるね。すごくカッコよかったよ。ねぇ、よかったら黒ちゃん、私のペットにならない?」
(キター! 待ってましたその台詞! これで、毎日簡単に飯にありつけるぜ!)
黒猫は思わずこくこくと頷いた。すると少女は不思議そうに首を傾げた。
「え、お? もしかして、黒ちゃん、私の言葉が分かるの?」
「……」
今頃になって黒猫は気がついた。言われてみれば、猫なのに人の言葉が分かる。喋ることこそできないものの、猫に生まれたからといって人間のときより物事を考える能力と衰えた気がしなかった。体が猫というだけで、中身はまるっきり前世の自分なのである。
黒猫は頷こうか否か迷った。頷けば少女はきっと驚くだろう。言葉が分かるのではと思っただけで驚く三秒前のように唖然としているくらいだ。しかし、ここで猫らしく言葉が通じていないように振る舞えば、それはそれでつまらないに違いない。
黒猫は迷った後、恐る恐る頷いた。
「え、ええ!? ウソ! え、もっかい聞くよ? 黒ちゃん、私の言葉、分かるの?」
黒猫はもう一度頷いた。少女は目を丸くしたが、どこか嬉しそうだった。いや、寧ろ大喜びしていた。
「ウソ、信じられない! 夢みたい! ……あ痛っ! うぅ、ほっぺつねったらやっぱ痛いや。ホントに夢じゃないんだ! うわ〜、猫ちゃんと、それもあなたとお喋りできるなんて!」
最後の一言で黒猫は心臓が飛び出しかけた。前世でも今世でも感じたことのない感情だった。彼はつい、少女の顔から目を背けた。
黒猫の気持ちなどさっぱり分からないまま、少女はベッドに再び仰向けで横になり、彼を自分の胸の上に乗せて不思議そうに見上げる。
「でもどうして? 魔法使いに飼われてたことがあったとか?」
(魔法使い? 何言ってんだ。そんなもんホントにあるとでも思ってんのかコイツ)
黒猫は首を横へ振った。
「うわ〜っ。えへへ〜、カワユイお〜」
「いちいちデレデレすんじゃねぇよ。何がカワユイだ、はっ倒すぞ」
やはり猫の鳴き声しか出ず黒猫はもどかしくてますますイラつく。が、少女の大きな胸の上に乗せてもらっているのだ。柔らかいわ温かいわでまるで極楽浄土。ものの数秒でイライラは消え失せてしまった。
「ねぇ、そういえば、昨日助けてもらったのにまだ自己紹介してなかったよね」
少女は上半身だけ起こして黒猫を膝に置いてそう言った。猫と会話するのが嬉しくて仕方がないようだ。童顔なのもあって興味津々で笑顔を浮かべていると余計に子供っぽい。
黒猫は胸が熱くなるのを感じていた。身を呈して守ったというのもあってか珍しく情が移り始めていた。それにこの可愛さと魂まで浄化されそうな良い香り。とても3秒以上も少女の顔を見つめていられず、視線を逸らして彼女が名乗るのを待った。
「私ね、シロっていうの。シロ・メロウ。回復系の魔法が得意な魔法使い、っていうか、それしか取り柄がないんだけど……、えへへ。ともかく、それで昨日黒ちゃんのケガを治したんだ。あぁ、本当に間に合って良かった。……ホントにホントにゴメンね。痛かったよね」
(なるほど。確かに、信じられねぇが、あんなケガして生きてるなんざ魔法でも使えねぇ限り考えられねぇよなぁ。それにこの世界も前世の世界とはどこか雰囲気が違う。シロ、だったな。コイツといれば色々分かりそうだ)
シロが悲しそうな顔をしているのに気がついて黒猫は首を大きく横へ振った。
「子供のくせに気にしてんじゃねぇ」
やはり鳴き声しか出ない。けれど、今回はシロにも伝わったらしい。
「黒ちゃん……。ありがとう。励ましてくれてる、のかな?」
黒猫は首を縦に振った。そして柔らかくて温かいシロの太ももの上で丸くなる。土やアスファルト、前世で使っていた石のようなマットレスなんかとは比べ物にならない雲のような感触がたまらなかった。
よしよし、と背中を撫でられ、今起きたところなのにまた寝てしまいそうに目を細めてしまう。
「ねぇ、黒ちゃん。黒ちゃんの名前も聞きたいな。私、回復以外にもちょっとだけなら他の魔法が使えるの。黒ちゃんも私と同じ言葉が喋れるようになるけど、喋れるようになる魔法、かけてもいい?」
ピクッ。あともう少しで寝てしまうところだった黒猫の耳が跳ねるように動いた。
むくむくと起き上がり、頷いた。