016 ここはどこ
なんて穏やかなのだろうと黒羽は思った。
自分とシロだけがいる医務室。物音はほとんどなく、静かで、寒さから逃れるための二重窓の外にはこの世に争いがある事実を忘れさせるような銀世界がはるかに続いていた。
しかしこれまでのことは決して夢や嘘などではない。夕陽の国は確かに襲撃され、黒羽は死にかけ、気味の悪い男とチョールヌイたちは去っていった。
暢気に休んでいるわけにはいかない。あんな危険人物たちを放っておいては今度またどこで何をしでかすか分かったものではないのだ。一刻も早くこの事態に終止符を打たなければ。と、思ってすぐにでも行動に出るべきなのかもしれないが、これはそんな単純に悪を叩けば解決するような話でもないらしい。
黒羽は窓際に座って二重窓に遮られた雪景色を眺め、チョールヌイの最後の様子を思い返していた。
「シロ、お前にはあいつが本気で俺を殺そうとしていたように見えたか?」
「あの、双剣の女の子のこと?」
「そうだ」
「……ううん」
シロは少し考えて横に首を振った。
二重窓に写る黒羽の陰が真っ黒になる。瞳を閉じたのだ。そして体がしゅん、と萎むくらいの深いため息をつく。
彼の目蓋には木漏れ日にきらきらと輝くソルマール島の熱帯雨林が浮かんでいた。チョールヌイがまだ幼かった頃、あの仮面の悪魔のような男と出会ってしまった日のことだ。黒羽は意識が戻らず眠り込んでしまっていた間に霊感で彼女の過去を知ったのだった。
二重窓に薄く写る真っ黒な猫の陰が金色の瞳を開く。物憂げに翳っていて、いつもの力強さはなかった。
「そうだ。あいつは……、戦う相手じゃない。どういう条件で発揮されるのかは分からねぇが、どうも俺の霊感は他人の過去やら記憶やらも察知することがあるみてぇでな、この数日、寝ている間にあいつの過去を夢を見るような感じで見たんだ」
「やっぱりあの子、私たちに助けて欲しかったのかな」
「だろうよ」
シロの目にもそのように写っていたとみえる。
黒羽は続ける。
「シロはどうしたい。俺とお前は仲間だ。俺一人の考えで動くわけにはいかねぇからな、無理そうなら無理だとはっきり言ってくれればいい」
「……」
窓の中のシロが下唇を噛んだ。不意に何かを思い出したように壁に掛けられた時計に目をやった。
「シロ?」
「そろそろお昼だね。行こ、クロちゃん。もう目が覚めたんだし、助けてくれた人達にお礼言いに行かなきゃ」
「……お、おい。どうしたんだ、急に」
シロは言いながら黒羽を促すように扉へ向かって歩き出していた。
どこかに失言があったのかと、今までに見たことのなかったシロの一面に戸惑っているうちにも彼女の細い背中が小さくなっていく。黒羽は止むを得ず後を追いかけて一緒に医務室を出ていった。
○○○○
シロには廊下に出て数歩分歩いたくらいで追いついた。
黒羽は初めてシロの真後ろを歩いた気がした。今までは隣同士で喋りながらだったり、肩に乗せてもらったりであったり、あるいは自分が先導したりだったから少し不安になっていた。が、大袈裟だったよう。追いつけばシロは振り返ってしゃがみ、抱っこしようと名前を呼んできた。
「いい。隣歩くから」
「そう? クロちゃん、なんか怒ってる?」
「別に」
黒羽は少しむすっとして話を変える。
「ところで、ここはどこなんだ? 動物病院でもなきゃ普通の病院でも宿でもねぇよな?」
訊くとシロはどう説明しようか考えはじめた。全く無事だったのだから黒羽が意識を取り戻すまでの数日、少なくとも3日間はシロ一人でここで過ごしていたはずなのだが、よほど変わった施設のようだ。
廊下も白を基調とした寒々しい景色である。床は学校などのものみたいにリノリウムで、壁はおそらく鉄筋コンクリートみたいなもの。白い塗装がされているが年季が入って薄く黄ばんでいるし、ところどころ細かいヒビが入っている。黒猫に生まれてから過ごしてきた環境とはガラリと雰囲気が変わって見えた。
「う〜ん、なんて言えばいいのかな。軍の、病院?」
「軍? じゃあここはどっかの国の軍の医療機関の一部ってことか?」
「あ、そうそう、そんな感じ。なんかね、深緑色の制服を着た人達がたくさんいるの。クロちゃんが寝てた間にも助けてくれたお医者さん? とか、エライ人がお見舞いにきてくれてたんだよ」
「そうなのか」
そう話している間に角を曲がって階段を上り、シロが立ち止まった。右手を伸ばして指を指す。そこには廊下の突き当たりにいかにも偉い人がいますと言わんばかりの、つやつやとした茶褐色の木製扉があった。
扉まで来たらシロがノックする。コンコン、と楽器みたいにいい音がした。
すぐに扉が中から引き開けられる。鮮やかな赤毛赤目の背の高い女性がにこやかに出迎えてくれた。夕陽の国でシロに付き添ってくれていたミラーズだ。今も頑丈そうな白甲冑を着ていた。
「あら、いらっしゃい。良かったわ、元気になったのね」
「何というか、その、世話になったな」
黒羽は無愛想に礼を言った。今までこれほど世話になったことがなかったので礼を言うシチュエーションには慣れていなかった。
ミラーズはシロと黒羽を見比べながら、
「もう平気なの? まだ痛いところとかもないかしら?」
「ああ、お陰で見事に治っちまった。本当に助かった」
黒羽は取って付けたように言った。慣れていなさ過ぎてほとんど棒読みだ。
「そう、安心したわ。助けることができて本当に良かったわ。さあさ、入って。隊長がお待ちよ」
黒羽とは反対にミラーズは心底回復を喜んでくれていた。ほっとした笑顔で中へ入れてくれる。
ここの部屋は子供が鬼ごっこをして走り回れるくらいの広さだった。内装はドングリ色の木製で上品であり、我が家のように落ち着いた。部屋の中央には黒光りする大きな机が鎮座し、体格のいい、赤毛赤目に白甲冑姿の男が座って部下らしき男たちに囲まれて何やら明るい表情で話していた。
座っていたのは隊長のゼゼルだった。シロに気がついて彼女の方を見た。
「やあ。おお、これは良かった。お仲間も元気になったようですね」
ミラーズが、
「もうすっかり回復したみたいですよ。これでようやく一安心です」
「そうか、それは何よりだな。ささ、お二人ともどうぞこちらへ。落ち着いたばかりで難なのですが、話さなくてはならないことがあるのです」
ゼゼルたちがそう言っている間に周りにいた部下たちが場を空けて椅子を二脚用意してくれていた。
人見知りなところのあるシロはありがとうございますと恥ずかしそうに言いながら座るが、黒羽はむすっとした顔でよじ登って丸くなった。
(なるほど。なんかシロの様子がおかしい気がすると思ってたら、そういうことか。けっ、恩人とはいえ、こんなどこの馬の骨とも分からんようなやつなんかに気を取られやがって)
ゼゼル隊長は歴史に名を刻むほどの彫刻家の手で生み出された傑作のような美男だった。野生的な力強さのある骨格をしていつつも孫を見る老父みたいに優しい目をして……、黒羽には彼の視線は真っ直ぐシロに向けられているように見えた。
黒羽は嫌そうにゼゼルを見つめながら話を聞く。
「自己紹介が遅れました。私は戦場医務官北部第一隊隊長、ゼゼル・マイアーと申します」
「あ、改めて、シロ・メロウです」
″改めて″なんてわざわざ言う必要あったかよ、と黒羽は心の中で悪態をついていた。
「クロハネだ。……世話になった」
「いえいえ、僕らは当然のことをしたまでです」
ゼゼルはゴホン、と咳払いした。彼の瞳が黒羽に向けられる。
「おそらくまだお目覚めになって間もないでしょう。まずは今の状況をご説明します」
「……、うむ」
「ここはお二人のいらした夕陽の国よりはるか北西に位置する雪空の国、サスリカです。夕陽の国でチョールヌイとロドノフ卿の襲撃を受けたあなた方は、丁度彼らを追っていた我々が発見し、救助しました——」
チョールヌイと一緒にいた仮面の男はロドノフ卿と呼ばれているらしい。
ゼゼルは続ける。
「そう言った経緯でお二人には申し訳ないが、勝手ながらこのサスリカの軍基地で一時的に保護という体制を取らせてもらいました」
「なるほど。手当てしてくれた上に、狙われているかもしれない身の俺たちを保護までしてくれていたわけか。でもどうしてだ? お前たちと俺たちは海を隔てるくらいの遠い関係のはずだ。そんな赤の他人の俺たちをどうしてそこまでして庇う必要がある。ここが軍基地と言うからには国家レベルで動いたということだよな? ちと手厚すぎねぇか?」
黒羽が訝しげに目を細めると、ゼゼルは両手の指を組んで机に置いた。
黒羽が続ける。
「助けてもらっておいて難だが、恩を売っておいていいように使おうって気じゃ、ねぇよなぁ?」
「ふふ、やれやれ、困ったお方だ。確かに、おっしゃることはほぼ間違いない。我が国としても強力な能力を持つ者は何としてでも味方につけたいものだ。しかし、我々もそんな反社会的組織のような無理強いはしませんよ。我々はあくまでお力をお貸しくださいとお頼みする立場。最終的な決定権はお二人にありますとも」
ゼゼルはサスリカが国として黒羽たちを助けたのには理由があったとすんなり認めた。
と、ここで早くも大人たちの難しい話にシロがついてこられなくなってうとうとしはじめる。睡魔と戦うシロをそっちのけで黒羽は話を続けた。
「ほう。なら、話が早い。応えはノーだ。協力してやりたいのも山々だが、俺はお前たちも見た通りの有様だったんだ。悔しいがまだ経験が浅いらしい。役には立たんだろうさ。それに、俺たちは俺たちでこれからやらなきゃいけねぇことがある。個人的に応援しているよ。安心しろ、いつかこの借りは返すさ」
「我々は、ロドノフ卿を襲撃するのです」
黒羽は口早に応えて椅子から降りていこうとしたところだったが、ゼゼルの言葉に呼び止められた。なんだと、とゼゼルに向き直る。
「ヤツの居場所を知っているのか」
「はい」
「仕方ねぇ。話だけ聞くことにしよう」
黒羽は椅子に戻った。
彼はチョールヌイの過去を知ってしまった以上、助けに行かないわけにはいかないと考えていた。そのためにはまず彼らの居場所を突き止め、戦略を立て、といった具合にゼロから始まるのが必然。だがしかしサスリカは既にロドノフ卿を襲撃する準備が整っているらしい。利害が一致している可能性は充分にあった。




