ソルマール島 〜銀色の瞳〜
自転しないこの星では、太陽の真下にある地域は永遠に真昼が続くことになる。この地域こそ、アルシュタルという少数民族が暮らす熱帯雨林だった。
アルシュタル人が暮らしていたのは大陸から少し離れた島、ソルマール島だった。
気温が高いため低気圧であり、周囲を囲う海の水が雲を形成しやすく、大雨になっては晴れ、また大雨になっては晴れる、雨と晴れが交互にやってくる特異な環境だった。
頻繁に大雨が降るも、島であるために水はけが良い。島全体を池にするほどの雨量だが深くても膝まで浸かる程度の水位になる頃には止んでしまう。そうして足首が浸かる程度まで水位が下がる頃に再び降り始めるといった具合だった。
子供たちは水の高さが足首までになる頃には帰ってくるようにと躾けられていた。雨が降りはじめたら前も見えないくらいになってしまい、しかも寒くて、とても帰ってはこられない状態に陥ってしまうからである。
今回もそろそろ村の子供たちが言いつけられた通りにそれぞれの家に帰ってくる時間だ。村中の子供たちがみんな一斉に我が家を目指して競争する。
競争と言えば一番がいればビリもいるものだ。レビという6歳の男の子は村で一番足が遅く、いつもビリだった。
「おーい、レビ〜! 早ようしやんだら雨に飲まれちまうぜ〜!」
「わあってるさ〜!」
アルシュタル人の家は巨木にウロを掘って造られている。地上は常に水浸しなのでどの家も少し高いところに造られ、玄関から縄ばしごが降ろされていた。
先に自分の家に入った近所の友達が上からレビを急かしていた。どうにかレビも雨が降りはじめる前に縄ばしごに手をかける。が、運の悪いことに丁度その時雨が降り出した。
レビが縄ばしごにぶら下がったままずぶ濡れになり、身動きが取れず救いを求めるように上を見上げていると彼の父親が顔を出した。
「あ! レビ! まぁたこんなギリッギリに帰ってきよったな!」
「えへへー。ごめーん父さん。はしごさ上げてけれ〜」
「ったく、世話の焼ける子さね。ういーっしょ、うい〜っしょ!」
レビの父親は狩人だった。腕っ節が強く、レビが掴まる縄ばしごもスルスルと引き上げてしまう。
こうしてバケツをひっくり返したような大雨の中から家の中へ。すると母親が乾いた民族服を抱えて待っていた。アルシュタル人の民族服はバスタオルくらいの大きさの布を何枚か着込んだてるてる坊主のようなものだ。洗濯を終えて乾いたものはそのままタオルとしても使われていた。
「ほら、早う体さ拭いてしまんなさいな。まったく今日はレビの大切な日だってのに、この子ったらいつまで遊んでるんだか」
母親が父と子に民族服を投げると二人はオバケみたいに頭から被って体を忙しく拭きはじめた。
体を拭きながら父親が言う。
「まあしゃあないさね。レビも男の子じゃけんなぁ」
「せや、オレも男の子じゃけんなぁ」
「お前が言うんじゃねぇだよ」
父親がレビの頭をコツンと軽くぶった。
「えへへー」
「ははは、元気でいい!」
似た者同士の明るい二人が笑い合っていると、パン、パン、と母親が手を叩いて制した。
「レビ、こっちさ来るだよ」
「え、まだ着替えてないで?」
「ええよ。しゃあないさね。ほら、こっちこっち」
何やら母親が部屋の奥へ手招きで促してきていた。何事かと父親の顔を見上げる。
「レビ、母さんのとこさ行ってくるさ」
「オレ、怒られるん?」
「ちゃうよ。レビに妹ばできたんさね」
「妹?」
レビは一人っ子だったはずだ。それなのに急に妹だなんて何を言っているのか。そう思いながら彼は半信半疑で母親のもとへ近づいていく。
母親のそばまで来たけれど他に誰の姿も見当たらない。母親の顔を見上げたら、彼女は雨で怪しく薄暗くなった部屋の隅を指差した。
「あっちさね。あの隅っこで膨らんでるやつ。頭っから毛布ば被って塞ぎ込んじまってるのさ。まだ5歳やのに、本当の家族と離れないかんかった子なんよ。可哀想な子さ。優しうしてやってけれ」
「……」
小さなレビは母親の手をこわごわ握って指差す方を見つめていた。
しばらく見つめて、
「何て言うんさ? あの子の名前」
「さぁな〜。私らも知らんのさ。急にこの家さ来ることなったもんな」
「名前分からんてどういうこっちゃ? 教えてくれやんの?」
「そもそもまだ付けられてないらしいんさ。可愛い子やのに、ひどい大人がいたもんだよ〜。せや、この際、レビが付けておやりよ」
「お、オレがかいな? ええの?」
「ええも何も、誰かが付けてやらにゃどうにもならへんやろ?」
「……せやんなぁ。わあった。オレ、元気付けきてやんよ。名前もつけてやらぁ」
てててて、とレビが駆けていく。
部屋の隅で毛布に包まっている誰かさんのところまで来た。
「……」
「……」
じぃっと毛布の塊を見つめる。毛布の隙間から長い針金のような銀髪がちらちら飛び出していた。
「……。わぁ!」
「うひぃ!?」
イタズラに脅かしてみたら短い悲鳴を上げ、ピクリと体を弾ませた。確かに女の子の声だった。しかしそれ以上何の反応もない。またただの毛布の塊に戻ってしまった。
「ごめんよ。君の声さ聞いてみたかったさね」
「……」
「なぁなぁ、いつまでそんなしてるんさ? 一緒に遊ぼ」
「……」
完全に無視されていた。
何を話しかけても返事はない。ツンツン突っついても嫌がるように体をくねくねさせるだけ。脅かすのももう効果はなかった。
外では雨の音がうるさく、こんな部屋の奥まで響いてきていた。雨のせいもあってかレビはだんだんと、急にできた無口な妹の面倒を見るのが疲れてきてしまった。
名前のない妹のすぐ隣の壁にもたれかかる。
「まあ、無理することもないかぁ。オレ、ここで寝るわ」
「……え」
今まで積極的に話しかけてきていたレビが急に寝ると言い出した。それが意外だったようで少しだけ声が聞こえた。
「オレ、ずっとここにいる。ずっと一緒さね。君が怖がってるのか、恥ずかしがってるのか、どういう気持ちなのか分からんけぇ、オレにはどうしようもないだよ。けど、そばには居てやれるけんね、寂しくなったら適当に話しかけるだよ。おやすみ」
「……、うう……、うひぃ〜、んん〜」
毛布の塊がモゾモゾしはじめた。
レビが邪魔なようだ。しかし彼は動かない。すぐそばで丸くなって、布団の塊から誰かさんが出てくるのを待っていた。
モゾモゾ、モゾモゾ……。うーうーと唸りながら体を揺らすのをレビは横目で観察し続ける。
まだまだモゾモゾしている。
もうそろそろさっきみたいに静かな毛布の塊に戻るだろうか。いや、まだモゾモゾしている。
毛布が剥がれそうになった。小動物みたいな手で引っ張ってまた被り直した。
モゾモゾ、モゾモゾ……。そうしてとうとう諦めたらしい。もうモゾモゾしなくなって毛布の塊になった。
「どうして」
根負けしたようだ。やっと発せられた彼女の言葉にレビは静かに耳を傾ける。
「どうして、そんなに構うさ? ……ほっといてよ」
「放ってるじゃないか。オレ、寝ようとしてるんやで?」
「……うう、違うじゃん。もう、あっち行くさ」
嫌がっているなら仕方ないかとレビが体を起こすと、毛布の塊は怯えるように震えた。
レビは母親たちには聞こえないくらいの小さな声で話しかける。
「怖いんさね?」
「……」
「なしてそんな、怖がってるさ? オレは何もせんよ」
「嘘さ」
「嘘やないさ」
「嘘さ」
「嘘やないって」
「だってほら、今だって……、怒ってるさ」
「怒ってないよ。君のこと、心配してるさね」
「しん、ぱい?」
「そうさぁ。なして初めて会ったばっかで嘘さ言わんといかんと? なして怒らないかんと? そんなこと、あるわけないさね」
「……。分からないさ」
毛布の塊がしゅん、と小さくなる。
「しん、ぱい? 初めて聞いた。どういう意味さ?」
「……え。ん〜」
レビはどう説明したらいいか分からず困ってしまった。ほっぺたをぽりぽり掻いて、天井を見上げ、やっと思いついた。
「なんていうか、友達とか、家族とか、そういう人を大切にしたいって思う気持ち、かな」
毛布の塊がぴくりと動いた。
「オレの父さんも、母さんも、オレが遊んで帰ってくるのが遅いと、迷子になってないかって心配するさね。オレが風邪ひいたりすると大丈夫かって心配するさね。少し気分が悪くなっただけでも、心配するさ。君も今、気分が悪いんじゃろ? だから、オレ、心配さね」
「……」
「……? 泣いてるの?」
毛布の塊になっていた名前のない妹は声を殺して泣きはじめた。
レビはどうして泣き出したのか全く理解できず戸惑って、何を言ってやればいいか思いつかず、ただ様子を見守るしかない。どうしようかと困っていると、妹のほうから話し出した。
「嘘さ……。みんな、わたし、嫌いさね。心配なんか、しやんよ」
「ひどい人たちばっかに会ってきたんやな」
「あんたやって、私の目ぇ見たら、きっと嫌んなるで。私、みんなと違って……、こんな色の目やから、化け物言われるさ。やで、きっとあんたも……、そう言うさ」
「ほな、見せてみるさ。約束するで、オレはそんなひどいこと言わんて。オレだって、みんなキレイな水色やのに紫しとるもん。変わってるなぁ言われるで」
「……。そうなんか?」
「ああ。じゃけ、似た者同士や。いじけてないで、そろそろこっち向くさね」
レビがそう言うと、とうとう彼女は被っていた毛布の中から背を向けたままだが出てきた。驚くほど綺麗な長い銀髪が露になる。例えでもなくこの薄暗がりで弱く光を放ってふんわりと白いオーラをまとって見えた。伸び散らかされていてばさついてはいるが、レビの姿がぼやけながらに反射して写るほど艶めいて、彼はこんな神々しいくらいの容姿の人を生まれて初めて見た。思わず見惚れてしまい、空いた口が塞がらない。夢を見ているかのようだった。
「わ、私の目、銀色さね。村ではすごく嫌われてたさ」
とても不安そうにまだ涙の乾かない顔でレビのほうを振り向いた。
真っ白な肌、目鼻立ちのいい赤ん坊のような小さな顔、鏡みたいな銀色の猫目。
レビは恥ずかしくてとても直視できず、顔を真っ赤にして視線を逸らした。
「んなっ、なんだよ。どんなブサイクかと思ったら……、全然そんなこと、ないじゃないか。なんていうか、その……、これから、よろしく。……うおっ!?」
初めて自分を受け入れてくれる人に出会えたようで、銀色の瞳の少女はレビの胸に飛び込んだ。とても小さくて小動物のよう。とても華奢で、レビより一回り小さかった。
レビの胸元の民族服がじわじわと濡れていく。
顔が見えないから恥ずかしさも薄らぎ、レビはまた何か気の利いたことを言ってやりたいと考える。しかし少女のほうが嬉し泣きしながらこう言い出した。
「なんて言うの、なんて言うの? あんたの名前。初めてなんじゃ、友達できたの」
「……。レビ。レビ・レンジってんだ。そうや、君の名前は無いって聞いてんねんけど、それ本当やの?」
少女はレビの胸に頬を擦りながら頷いた。
「レビ。私の名前、レビにつけて欲しい」
「いいの? あんまりいい名前か分からないけど」
「いい。レビがくれるんやったら、何でもいい」
「ん〜、難しい〜」
いざとなると何も思い浮かばない。レビは天井を見上げて考えた。
「ああ、ララってどう? ララバイから、ララ。よく寝るときに母さんが歌ってくれる子守唄のことさね。子供を大事にしてる人が歌う唄のことなんさぁ。ララもみんなに大事にされますように、って、なんや、恥ずかしゅうなってきた」
「ララ……。ララ。それが、私の名前」
少女はレビの胸元から彼の顔を見上げる。銀色の瞳はうるうるとして、戸惑うレビの顔を見つめていた。
「い、嫌やった? ごめん、他のを考えるよ」
「ううん、ううん」
少女は首を振り、レビの胸を伝って迫るようにぐいぐい顔を近づける。
「え、ええ」
「レビと、ララ。私は、ララ。初めての友達につけてもらった、ララバイの、ララ。忘れない、忘れられない。そのくらい私……、嬉しい」
名前など物心ついた頃には普通すでに付いているものだ。でもララにはずっと名前がなかった。ずっと、普通ではなく、周りと違う扱いをされていたのである。それがたった今名前を与えられた。それも初めて自分を心配してくれた最初の友達に。
やっと自分を受け入れてくれる人に出会えた、やっと友達ができた、やっと名前をつけてもらえた。どんなに嬉しかったのだろう。永遠に来ることはないと思っていた瞬間が実現したのだ。
まるで長い夜が明けたように、ひどい嵐が過ぎ去ったように、魔女の呪いから解き放たれたように、ララは涙を流して、レビにぎゅうっと深く抱きついて喜んだのだった。