015 心
突如として街を襲った脅威は去った。
逃げ惑っていた冒険者たちも途中から王と黒羽、仮面の男とチョールヌイの戦況を拳を握って見守っていたが、その誰もが抜け殻のように立ち尽くしてしまった。
リングはほとんど原型を留めておらず、中央では国王が血と煤に塗れて生き絶え、黒羽も意識を失っていた。おそらくこの国で最も高い戦力を持っていたであろう一人と一匹が変わり果てたのだ。
冒険者たちが半ば放心して次々に膝を折る。
「……、そんな……、王様——」
「おしまいだ。もうこの国には、誰も守れる人がいない」
「……私たちこれからどうなるの。そうよ、生活は、生活は一体どうなるの!」
「仮に新しく王様が即位したところで、あんなに実力のある方は滅多にいないんだ。こんな途上国のために尽くしてくれるミルなんて、グラキエース王しかいなかったのに!」
追い詰められた国民たちの心は、そして、絶望ゆえに歪んでいく……。
「——そうだ、アイツが悪いんだ。あの黒猫が、自分から戦いを挑んでおいて俺たちのグラキエース王を身代わりにしやがったんだ!!」
その誰かの不満に満ちた怒声が、静かな水面に波を立てるように街中へ響き渡る。小さかった波は壁に跳ね返り、次第に大きく膨れていく。
リングの外にいたシロはきりりと歯を噛んだ。
「この畜生め! よそ者のクセにしゃしゃり出るからだ!」
シロは震えた。
「どうしてくれんだ! 貴様がこの国を滅ぼしたんだぞ!」
「打ち首だ! あのクソ猫をぶっ殺せ!」
だが、恐怖で震えているのではない。あの穏やかで大人しいシロが腹を立てていた。国民たちにではなく、ただ見ているしかなかった自分自身に。
木っ端微塵のリングの中では国民たちのためにぼろぼろにされた黒羽がその国民たちに罵声を浴びせられて倒れている。現実は御伽噺ではない。あまりにも理不尽。誰もかれもが悪い意味での人間らしさを剥き出しにしていた。
シロは駆け出した。まるで火の中に飛び込んでいくように、黒羽のもとへ。
リングの破片にすねを切られながら満身創痍の黒羽を抱きしめる。目を固く閉じ、ぐったりとして息も弱くなっていた。シロの両手は黒羽の血と汗に濡れ、それから彼女自身の大粒の涙に濡れていく。
「……わたしが、もっと、強ければ——」
細い肩を震わせて泣く、静かに。エゴイストたちの炎のような罵声に身を灼かれながら咳き込むくらい、ノドが詰まるくらい、でも声を上げることはない。声を上げられる程度の苦しみではなかったのだ。今にも死にそうな最愛の家族を腕の中にして、どうして正気を保っていられるだろう。
「助けなきゃ、助けなきゃ——」
シロは医療魔法で黒羽を回復させようとし始めていた。早くしないと手遅れになる。急がないと黒羽が死んでしまう。黒羽の呼吸がみるみる静かになっていく。早くしなければ、早くしなければ。そんなことは分かっているはずなのに、悲しみと苦しみと焦燥に身体を支配されて全く魔法が発動しない。
シロはパニックに陥っていた。周りに何人の国民がいようと全員敵に見えた。今黒羽を助けることができるのは自分一人だ。自分しかいないんだ、急がなければ黒羽が死んでしまう。そう思えば思うほど手が震え、頭の中が真っ白になって魔法が使えない。
「死んじゃう、死んじゃう、クロちゃんが、クロちゃんが——」
「……さん。……うさん、お嬢さん!」
誰かの大声がシロを止めた。
彼女が子供のようなぐしゃぐしゃの泣き顔を上げると、真っ白の甲冑を着た赤毛の青年が壁のような巨体を小さく丸めて正面に跪いていた。
「あ、あ、あなた、は」
「私は戦場医務官、隊長のゼゼルです。我々がこの場でお仲間の手当てをします。ご心配なのは承知ですが、数人がかりで活動しますので、お嬢さんは少し離れていてください」
正に救世主だ。優しそうな顔をしつつも絶対に助けると燃える真っ赤な瞳にシロは心から救われた。暗闇から解き放たれたようで、シロはますます涙を流す。
ゼゼルはシロの両肩に大きくがっしりとした手を乗せ、
「深呼吸して、ゆっくり、大きく」
「すーっ、……は〜」
「これで身体の緊張がほぐれたはずだ。ミラーズ、彼女を頼む」
「はい。さぁ、もう大丈夫よ。あとはみんなに任せて」
同じく赤毛のスラリとした女性隊員がシロの手を引いた。
黒羽からシロが離れるや否や隊長のゼゼルを含む五人の赤毛に白甲冑の隊員たちが一斉に彼を取り囲んだ。
よく見ると奥で倒れていたグラキエース王も同様に囲まれ、手当てが始まっていた。
ゼゼル隊長の大きな声が響く。
「頸椎回復! 仰臥位へ!」
「「「「よし!」」」」
「一、二、三!」
どうも黒羽は首の骨が折れていたらしいがすぐに魔法での回復が完了してしまった。かと思えばもう仰向けになり、気道を確保されていた。
「分かりますか? ……。発語無し!」
「呼吸遅い!」
「脈不整! 心肺回復します! ……。脈再評価! ……、正常化成功!」
凄まじい勢いで治療が進む。黒羽は心臓が止まりかけていたようだが一瞬で回復させられてしまった。シロには理解できないレベルの高い医療技術で、彼女は泣くのも忘れて黒羽の様子を大人しく見守りはじめていた。
「……し、シロ。……どこだ」
「クロちゃん……、クロちゃん」
あれだけ弱っていた黒羽が意識を取り戻した。
シロはミラーズと呼ばれた女性隊員に付き添われながら膝を降り、感極まってまたぶわりと大粒の涙を流した。
「もう大丈夫よ。間に合ったわ」
「ありがとう、ありがとうございます。本当に、本当に……」
けれどゼゼル隊長は油断することなく黒羽から決して目を離さない。四人もの隊員たちの一つ一つの動きに鋭い視線を走らせ、次はこれ、次はこれをと指示を出して怒涛のように活動を続ける。
「意識レベル二桁に回復!」
「……どこだ、ここは。……アイツは、どこだ。……助けに、いかねぇと」
ゼゼル隊長の目つきが変わる。朦朧とする黒羽の意識と、どこを見ているか分からない視線に気がついたのだ。
彼は黒羽の左目を手で隠して、少し間を置いてその手を離す。自然光で対光反射を診たのだ。右目も同様に診察し、
「こんなときに妙なことを訊きますが、今明るいですか? 暗いですか?」
「暗い。……灯りはどこだ。……助けに、行くんだ。……アイツは、被害者なんだ」
「両方ともNだ。以降、Vを下げて活動せよ」
他の隊員たちは全員声を出さず頷いた。
シロにはどういう意味だか分からなかったが、何やらゼゼル隊長はミラーズとアイコンタクトを交わした。
ぺたりと座り込んでいたシロと目線を合わせるように彼女の隣へミラーズもしゃがみ込む。
「大丈夫よ。必ず以前のように元気になるわ。でも少しだけ時間ぎかかるみたい」
「……時間。どのくらい?」
「分からない。でも3日くらいは必要よ。それで、大事なことだから、よく聞いて」
シロはミラーズの赤い瞳を心配そうに見つめながら頷く。
「この国は今、人々が混乱していて危険な状態よ。周りを見てごらんなさい。我々の仲間が周囲を結界で守っているけど、もう長くはもたないわ。だから安全なところへ逃げるの」
「安全な、ところ?」
「ええ。まだ治療は途中だけれど、ここではもう続けられない。だから私たちの国へ来て頂戴な。あなたたちを助けるためよ、お分かりいただけるわね?」
「お願いします、お願いします、クロちゃんを助けて。私の、大事な家族だから」
ミラーズは微笑んで、子供をあやすように泣いているシロを抱き寄せた。
そうしている間に隊員の一人がゼゼル隊長の指示で一握り分のボールを地面に叩きつけ、煙幕を張った。グラキエース王のほうはもう手遅れだったようで、国民たちにこちらの動きで悟られないようにするためであろう。
上空にはいつのまにかシロが見たこともない、三角形の乗り物が音もなく浮遊していた。高度を下げて真上まで来、機体の中心から階段を降ろす。
ゼゼル隊長率いる隊員たちは黒羽を布担架に乗せ、それが黒羽ではなく小さなガラス玉であったとしても転げ落ちないのではないかというほどの抜群の安定感を維持して慎重に機体の中へ搬送していく。シロもミラーズに促され、黒羽に続いた。
グラキエース王についていた隊員たちや結界を張っていた隊員たちはもう少し残るようだ。黒羽とシロを乗せた機体は階段を格納し、離陸した。
○○○○
——5日後。
黒羽は全ての治療を終え、どこかの国の個室に寝かされていた。
深い眠りから覚めるように少しだけ目を開けてはまた浅い眠りにつき、また薄っすら目を開けてはまた眠りということを何度か繰り返し、やっと覚醒した。
猫ならこれで充分と思われたのが一目で分かるような小さな部屋だった。
まだ光に目を歪めながら右手側を見てみると防寒のために二重に設置された窓があり、外は雪が積もっていた。あいにく吹雪いていて何も見えない。左手側を見てみるとシロがいた。彼女にもベッドが用意されていてすやすやと寝息を立てていた。
(……。吹雪? それに割といい感じの部屋だな。病室? ホテル? 旅館? とりあえず、生きていたらしいな。体は……、痛くない。おっ、動くぞ。おー)
「……」
黒羽の体は完全に回復していた。が、彼は元気になり過ぎてすぐに暇になった。
ベッドから降りてみる。やっぱりなんともなかった。あれだけの戦闘をしたというのにまるで嘘のよう。彼はその足でシロのベッドに飛び乗り、彼女の寝顔を覗き込む。
(けっ、気持ち良さそうに寝やがって。こっちは大変だったんだぞ? このっ、このっ)
黒羽はイタズラにシロのほっぺたを前脚でプニプニと突っつきはじめた。
プニッ、プニッ、プニッ……。四、五回突っついたらやっとシロがもぞもぞ動いた。
「むぐ、んん〜」
「おい、シロ。いい加減に、シロ。起きるのじゃ。余は退屈なのじゃ」
「……。く、ろ、ちゃん? クロちゃん!?」
シロは目を覚ますと、まるで獲物に襲いかかるヘビのような勢いで飛びつこうとした。しかし抱きつこうとした彼女の両手は空を切る。黒羽はせっかく助かったのに彼女の育ち過ぎた胸に圧死させられてはたまらないと背後へ瞬間移動したのだった。
「おわ! おおおとっとっと」
勢いあまってベッドから落ちそうになるが黒羽がシロの背中を咥えて支えた。
「おまえが一番油断できねぇな」
「クロちゃん……。ひどいよ〜、すごい心配してたのに、ここはハグするとこじゃん〜」
「……」
シロは心の底から残念がった。
傷つけてしまったくらいなようだ。黒羽は視線を大きくそらしながら呟く。
「ごめん。今回はちょっと、無理したかもしれねぇ。好きにしてくれ」
「……、ふふっ」
シロは一瞬不思議そうな顔をして、それから、幸せそうに静かに微笑んだ。吹雪も止んできたよう。ちょうど彼女の後ろから白く輝く雪の光が差して、白くふわりとした長い髪がきらきら光り、身近な人のはずなのに黒羽は照れくさく直視できない。
心の底から回復を喜んでくれていた。それも嬉し泣きするほどに。
なんて眩しい笑顔なのだろう。脇目にも眩しさが伝わってきた。黒羽はそっと抱き寄せられ、腹の底から罪悪感がこみ上げた。背中にシロの涙が溢れる。どれだけ心配させたのか。きっと想像絶するものだったに違いない。
「悪かったよ。もう泣かないでくれ」
「ううん。そんなの、むりだよ。わたし、もう——」
背中に触れるシロの手の力が強くなる。
「クロちゃんに、会えないかと思った。本気で、死んじゃうと思った。クロちゃんが起きない間、ずっと言いたかったの。……ごめんねって」
「……」
黒羽は霊感があるばかりに感情に敏感になっていた。シロの言葉が胸に深く突き刺さる。それはまだ言葉をよく知らないだけで伝えきれない、ごめんねだったのだ。
黒羽は体を震わせてシロを遠ざけた。
「やめろ。もう、やめてくれ。そういうのは無しだ。おまえは、何も悪くない。俺も生きてる。それでいいじゃないか」
「でも、わたし、何もできなかった。だから——」
「シロ。おまえの目はどこを見るために前についてるんだ? 前を見るためだろ。なら後ろは見るんじゃない。これまでは忘れて、これからを見るんだ。泣いてたって何も変わらねぇだろうが」
「……。うん。……?」
黒羽はシロの泣き顔を見上げる。
彼女の前に来て立ち上がり、両方の前脚でシロのほっぺたをくいっと押した。
「これから嵐になる。なのにそんな泣き虫でどうする。気持ちは分かるが、そろそろ切り替えるんだ」
黒羽はシロの泣き顔を前脚で笑顔にさせていた。けれどもうその必要はない。
シロは再び黒羽を抱きしめ、満面の笑みを浮かべたのだ。
「クロちゃん、ありがとう。私、クロちゃん出会えて……、本当に幸せだよ」
「……けっ」
天国のように真っ白な光りがハッピーエンドを祝福する。そんな景色に一人と一匹は彩られた。
しかし、黒羽は歯がゆかった。本当はこれから先の免れようのない危険を教えなければいけないのだ。それなのに、シロがあまりに未熟でそれどころではない。
けれど仕方ないと言えば仕方がないのも事実。これから先を知ることができたのは霊感があったからなのだ。シロにも見せてやれたら話が早いのにと黒羽は思っていた。それができればシロも泣いている場合ではないとすぐに分かってくれただろう。精神的に強くならなくてはと思ってくれただろう。あの、チョールヌイ・ロドニナーの過去を、知ることができれば。
ご愛読ありがとうございますm(_ _)m
次回から第2章です。
これからもよろしくお願いします。