013 死闘の末に
黒煙一色。リングの外で見守っていたシロはあまりの悲惨な光景に思わず両手で口を塞いでしまっていた。
だが、シロは無事である。つまり彼女を守る黒羽の結界は健在だったのであり、それは彼もまた少なくとも死んではいないということを意味していた。
「……、く、黒ちゃん」
一体、黒羽たちはどうなったのか。シロは黒煙が晴れるのを待つしかない。
次第に黒煙は薄くなってきて、奥に影が見えはじめた。
今の爆発で街の天井も吹き飛ばされてしまい、夕焼けの日光が粉砕されたリングの中央に柱のように差し込んでいる。黒煙はまだ晴れたわけではないがお陰でそこだけ眩しいくらい明るくなり、黒羽たちの姿が露になった。
「……、お、お前……、自分の足を」
血と煤にまみれたチョールヌイがか細い声で呟いた。彼女は自分の手の中にあるモノを見つめ、唖然としていた。
黒羽はチョールヌイにつかまれていた自分の後脚を自ら切断し、彼女を盾にしてやり過ごしていたのだった。
黒羽が瀕死のチョールヌイに背後から嘯く。
「せっかく俺が珍しく情けをかけてやろうしたのに、ばかな女だ。悪いが、俺にはお前より大切な女がいるんでな、まだこんなとこで死ぬわけにはいかねぇんだよ」
「チッ……、キメぇんだよクソ猫が」
チョールヌイは最後にそう言い捨てて、とうとう気を失った。
とりあえずこれで敵が一人減ったわけだが、戦況は圧倒的に不利だ。黒羽自身はシロのために結界を張るので精一杯なまでに消耗しているし、彼女は彼女で戦力にはならない。仮面の男は高みの見物と言わんばかりにこちらを見ていた。
「しぶといねぇ。でもこれから一体どうする気だい? ほんの少し時間稼ぎしただけじゃないか」
「……」
残念ながらその通りだ。もはや丸腰で銃口を額に突きつけられているも同じだ。しかもトカゲが尾を切って逃げるように自ら切断した後脚はもう再生することもできず、体は鉛のように重い。
体が重い、重いのだ、ものすごく。重すぎて黒羽は耐えきれず横たわってしまった。血も減って意識が混濁し、今にも眠り込んでしまいそうに目が閉じかけていた。
(まずい……、流石にもう、限界か)
仮面の男はチョールヌイから奪った剣の先を再び黒羽に向けた。
「特別、君に生き残る選択肢をあげよう。どうだい? 僕らと一緒に、来ないか?」
「……」
黒羽の耳がぴくりと動く。彼の瞼の裏には走馬灯のようにシロと過ごした時間が思い出されていた。
『にゃー、にゃー。どうしたの? こんなところで。お腹すいてるのかな?』
『うわ〜っ。えへへ〜、カワユイお〜』
『くーろねっこさんっ♪ おっしえってくーださーい、あーなたーのナーマエ〜♪』
(……、シロ)
『うわ〜、キレ〜! ここが黒ちゃんのお家だったんだ。見かけによらず結構ロマンチックなんだねぇ〜』
『黒ちゃんの恥ずかしがり屋さん』
『黒ちゃん、色々、ありがとう』
思い出すのはどれもこれもシロのことばかりだ。黒羽の空っぽだった心はいつのまにかシロに満たされていたのである。
本来なら迷わずノーだと答えるところだが、今では黒羽は自分のためだけに生きているわけではなかった。
(……仕方ないか。それでも、これが、シロのためになるなら)
「決して悪い話じゃないと思うけどねぇ。僕らと一緒に来ればもう恐れるものは何もなくなるのだ。何不自由なく、ただひたすらに高みを目指すことができる。欲しいものは何でも手に入る。さあ、答えるのだよ——」
仮面の男の正体は不明だが、悪玉であることは間違いない。続く彼の声は、悪魔じみていた。
「僕らの、歯車になるのだと、ね」
黒羽ももうこれ以上は意識を保ってはいられない。彼は最後の力を振り絞って頷こうとする。が、そのときだ。
男の仮面を何か素早いものが掠めて一直線に横切っていった。間一髪身を逸らしてかわしたが彼の仮面には一の字に傷が刻み込まれてしまった。
「……、やれやれ、死にたがりがもう一人、お出ましだ」
(何だ、何が起きた)
歪む黒羽の視界を誰かが塞いだ。瀕死の彼とチョールヌイを庇うようにして、白いローブの人物が立ちはだかった。
それは白い髪と髭が長く伸びた、まるで神のような老人だった。
老人らしいゆっくりした嗄れ声で仮面の男に言う。
「挨拶にしては少々、やりすぎではないですかな」
「これはこれは、お会いできて光栄ですぞ。この夕日の王にして、吹雪のミル、グラキエース」
黒羽は察した。どうも国の危機に国王がようやく駆けつけたようだ、と。
仮面の男が言うにはグラキエースと呼ばれたこの老人もミルのようだが、だからといって安心するにはまだ早い。相手は攻撃すら見えない人の形をした化け物で、グラキエースはミルとはいえ老人だ。老人だからと不安がるのはあまりに偏見というものだが大船に乗った気にはなれない。
黒羽は掠れ声で、
「頼む、無理は、しなくていい。無難に、やってくれ」
グラキエースは半ば振り返り、優しい顔で横へ首を振った。
「……おい」
「お主は死ぬ気でこの国の為に戦ってくれたのだ。それなのにどうして国王ともあろうわしが、生存を選べようか」
(……まさか、ハナっから死ぬ気で——)
目には目を、不意打ちには不意打ちをということだろうか。まさかいきなり捨て身の大技を繰り出すとは誰も思うまい。
グラキエースを中心に、ネズミ一匹逃げる間も無く猛烈な吹雪が渦巻いて、不意を突かれた仮面の男はまんまと全身を氷に封じられた。
リング上が白銀の地獄と化す。仮面の男はオーバーキルなほどの吹雪に成す術なくその姿が見えなくなってしまった。
黒羽は吹雪なんて精々ゴウゴウと音を立てる程度の激しいものしか聞いたことがない。それに比べてこれはどれだけの威力があるのか。もはや何も聞こえない。音を伝える空気が吹雪のスピードについていけず、置き去りにされているのだ。
やがて、長く続いた白い竜巻は次第に弱まりはじめた。真っ白に染まっていた景色がだんだん元通りになってくる。
すっかり吹雪が止んで辺りが見えるようになっても、あの仮面の男の姿は無かった。
流石は国王、あれほどの化け物も消しとばしてしまったというのだろうか。
「……まさか」
いや、化け物はやはり、化け物だった。
グラキエースはがくりと両膝を折り、前のめりに倒れ伏してしまった。彼の白い体が真っ赤な血溜まりに染められていく。それもとんでもない量だ。到底一命を取り留めているとは考えられない。
「気が変わったら極地の国に来るといい——」
どこからともなくあの仮面の男の嫌な声が嘯く。
「クソ……、どこだ……、出てきやがれクズ野郎。……!?」
黒羽はすぐ隣で気を失っていたチョールヌイの姿が消えていることに気が付き、凍りついた。
仮面の男はあれだけの吹雪に飲まれながら彼女を回収していたのである。ということは、黒羽の隣まで来ていたということになる。お前など殺そうと思えばいつでも殺せたのだ。そう言っているようなものだった。
「僕らは優秀な者を欲しているのだよ。来る者を拒まず、去る者は殺す。おめでとう、君の前には高みへの素晴らしい道が拓けたのだよ。また会える日を楽しみにしているよ、兄弟」
仮面の男の声はそう言ったのを最後に笑いながら消えていった。
黒羽は敗北した。黒羽という人格に生まれて初めて辛酸を嘗めた。
薄らいでいく視界、遠くなっていく音。暗くなっていく世界の中でただ、自分を呼ぶシロの声だけがこだましていた。




