012 絶望
仮面の男はまるで死神のようだった。
実際に一度出会っている黒羽には見れば見るほどその類に見えて仕方がなかった。きっとこの独特の不気味さは誰にでも通じるのだろう。チョールヌイも耳元で囁かれた瞬間、小さく震えていた。いや、よく見たらまだ小刻みに震えている。振り上げたままの剣が揺れていた。
(……なんなんだ、コイツは。チョールヌイの仲間や何かじゃねぇのか?)
戸惑っている間にも寒気がし始める。黒羽の霊感は今頃になってこの男は危険だと叫んでいた。
猫は威嚇するとき、よく前脚をピンと伸ばして背筋を真っ直ぐにし、腰を上げて毛を逆立て牙を剥く。黒羽は思わず、毛と牙以外は威嚇の体制をとっていた。
これまで黒羽という人格で生きてきてこれほど危険を感じているのは一体いつ以来のことか。事故に遭う瞬間は時間が止まって感じるというが、今はその瞬間が持続している。たったの一秒すら永遠のよう。蛇に睨まれた蛙みたく凍りついていた。
黒羽は直感的に感じていたのである。ミルという、最強を超越した存在であるチョールヌイをここまで恐怖させるということは、要するに上には上がいたということに違いない、と。
「そうか、分かったよ——」
仮面の男がやっと喋り出した。前に声を発してから3時間は経ったんじゃないかというくらいだったが、実際には3秒も経っていない。
男はチョールヌイの耳元でいびるように続ける。
「このミルをこちらへ引き込めるんじゃないか。そう考えたんだね? ……それは——」
吐息が耳にかかるくらい近づき、
「いい考えだ」
「!!」
突然、チョールヌイが短い悲鳴をあげ、黒羽は赤い血を浴びた。
チョールヌイが振り上げていたはずの剣が、彼女の脇腹からこちらへ向かって突き抜けているではないか。
猫の動体視力をもってしてもまるで刺されたところが見えなかった。瞬きもせず一部始終を見ていたのに、それでも分からなかった。
「貴様! いきなり何しやがる!!」
チョールヌイは敵のはず。なのに黒羽は咄嗟にそう叫んでしまっていた。その上無謀にも飛びかかろうとし……、自分は何をやっているのかと思う頃にはリングに叩きつけられ、勢い余って体が弾んで宙を舞っていた。
咄嗟のことだったとはいえ、体の周りに結界を張った上での行動だった。が、しかし、一番自信のあった結界の技術も呆気なく打ち破られ、仮面の男の"何らか"の攻撃をもろに受けたも同じだった。
(……、クソ、肺が、破裂したみてぇだ。肺関連でまた死ぬのはもう御免なんだがなぁ)
痛みは無い。けれど肺が破裂して呼吸が上手くできず、溺れているかのよう。
黒羽はリング上を転がった後チョールヌイたちの方を向いて倒れ伏し、もう立ち上がれそうになかった。横向きになった視界の遠くの方で、チョールヌイが剣を引き抜かれて力なく崩れ落ちるのが見えた。ただ貫かれただけに見えていたがその一撃も見た目以上に恐ろしいものだったらしい。チョールヌイもそれだけでぐったりとして動かず、血溜まりを作り始めた。
仮面の男は引き抜いた剣を鑑賞するように掲げ、刃を伝う赤い血を見つめた。
ひゅん。
手首の上で器用に剣を弄び、切っ先はさっきと反対側のチョールヌイの脇腹へ。
「やめろ……」
チョールヌイが敵であっても、昔自分が無慈悲な殺し屋だったとしても、瀕死の状態であっても、どうにかして助けてやりたいと思わずにはいられない。そんな断末魔が黒羽の耳を劈いた。
「やれやれ、お前もまだまだ子供だねぇ。いけないなぁ、優秀な敵はこちらへ引き込めないか、なんて天才的な考え、そんなの僕がする仕事じゃあないか。他人の仕事は盗っちゃいけないよ。ひどいなぁ、もう。……おっ?」
仮面の男のコメカミに小石が飛んだ。黒羽が瀕死ながらにやっとの思いで念力で飛ばしたものだった。
ダメージはもちろん無いが、意識をチョールヌイから遠ざけることはできたようだ。男は剣を引き抜いてこちらを向いた。
「痛いなぁ。死にそうだよ」
「死に損なったなッ、ゲホッ」
内臓にもダメージが及んでいるようだ。黒羽は血でむせながらゆっくり起き上がる。
「へぇ〜、いいガッツしてるねぇ、君。猫のクセにスゴイスゴイ。でも大丈夫? 雑巾みたいだけど」
「……けっ、小学生かテメーは」
「なんか、めんどくさいね、君。でさ、話変わるけど、ウチに来ないかい?」
「ぶっ殺すぞ」
「はは、いい返事だ。君がしたいことは分かってるよ。コイツを助けたいんでしょ? はは、バカだなぁ、敵と味方の区別もつかないのかい?」
「……、俺の勝手だろうが。……、ゲホ、……。全部、テメーの差し金だったわけだ」
「ああ」
「けっ、何が目的だか知らねぇが、こんなガキを殺しの道具にするなんざ、見てて気分のいいもんじゃねぇ」
「そうかい」
「……」
「……」
不利だと知りつつ睨み上げる黒羽、仮面の下で薄ら笑う男。
しばらく緊迫した無言の時間が続いて、その間に黒羽の体は回復していく。遠くで見守っているシロが魔法を使ってくれているようだ。
黒羽はこの男が現れてからシロを守る結界に意識を集中させ、最高レベルの頑丈さにしていた。目では追えなかったが、この静寂の間にも仮面の男はシロに攻撃を仕掛け、しかし結界に守られて失敗した。
(危なっかしい野郎だ。もうスリルがどうとか言うレベルじゃねぇ。完全にイカレてやがる。まるで殺すことしか頭にねぇみたいだな)
黒羽は睨み合いながらも静かに戦っていた。
彼の後方にはシロがいて、正面に仮面の男、更にその奥で血だらけのチョールヌイが倒れている。だがシロはチョールヌイのことに気付くはずがない。当然と言えば当然だが黒羽ばかり回復させてチョールヌイには何もしていなかった。どこかのタイミングで彼女をシロのいる方向へ瞬間移動させてやれたらシロも気付いてくれるかもしれない。そう黒羽は考えて仮面の男が隙を見せるのを待っていた。
そこで、仮面の男はシロの周りの結界に攻撃を防がれた。それが気に食わなかったのだろう。チッ、と舌を打った。
「お?」
仮面の男が小首をかしげる。黒羽が一瞬の隙を突いてチョールヌイを自分の背後に瞬間移動させたのだ。
(よし、やった。……良かった、まだ息がある。あとはシロが気付いてくれさえすれば)
「へぇ、君そんなこともできるの。頭いいね。僕も君みたいなペットが欲しいよ」
「……」
仮面の男、見るからに幼稚だ。例えるならピストルを持った幼稚園児。コイツからピストルを奪い取るには気をそらすのを待つか、こちらから注意を引くのが無難なところだ。
とはいえ幼稚でも勘はいい。黒羽が企んでいたことはもう気が付いた様子だ。
「でも、君は愚かでもある。人質を取ったつもりかい? 一石二鳥にソイツを助けてやれるとでも? ふん、バカが」
「!?」
そのとき、黒羽の後脚を誰かがつかんだ。それは他でもない、チョールヌイだった。
「……、可哀想なヤツだ。本当に」
黒羽は思い出す。死神に言われたことを。
『お前をこのまま地獄に落としては、地獄の鬼も殺しかねない。そこで、お前には地獄より辛い罰が必要だ。次に目を開ける時、見える世界に絶望するがいい』
チョールヌイに振り返り、彼女の銀色の鏡のような目を見れば、そこにはこちらへ剣先を向けて今にもトドメを刺そうとしている仮面の男の姿が映っていた。
死の間際にはそれまでの出来事が走馬灯のように駆け巡るという。黒羽は前に死んだ時も経験していた。今回は、猫として生まれた今世の出来事が思い出された。
皮肉なものだ。罪人の生まれ変わりらしく不吉の象徴の黒猫に生まれ変わり、一匹で気が遠くなるような日々を孤独に過ごし、けれどある時シロと出会った。天真爛漫な彼女と過ごしているうち、いつのまにか足を洗った気になって、今ではマフィアだったことも忘れかけていたくらいだった。シロのために善へ進むことが今世での正しい生き方であり、そうやって変わっていくべきだと信じていた。そうして無意識にも敵にすら情けをかけるようになったというのに、今世での全てが、裏目に出ようとは……。
(どうしてだろうなぁ。殺すのはあんなに簡単だったのに、助けるのは、……どこまで難しいんだ)
次の瞬間、広いリングは、爆炎に飲まれた。それはそれは地獄など到底足元にも及ばないような。