118 原罪
真っ暗闇。一寸先も、自分の身体さえも見えない謎の空間にラングヴァイレはいた。
魔界と似ているがそれよりもずっと暗い。墨の海に沈められたかのように。
こんなもの魔界へ移動すれば簡単に抜けられるではないかとラングヴァイレは剣を召喚したときのように手を広げ、空間に穴を開けようとするが、何も起きない。
「……ほう——」
諦めて拳を握る。かなり厄介だ。何か拘束系の技を受けたのなら他の世界へ一旦移動してすぐに戻ってこればいいという今までの抜け出し方が通用しない。黒羽の「死ね」という言霊を受けたときも身動きが完全に取れなくなってしまっていたが、どうも空間を操ることに長けているようだ。
「このオレ様を閉じ込めるとは、なかなかやるなぁ、クロハネ」
発した声が全く反響しない。耳を塞いで声を出しているような閉塞感だ。
それと、加えてラングヴァイレはあることに気がついた。黒羽の姿が見えないことはもちろんだが、気配も一切感じないのである。
まさかあっさり封印されたのではないかとも思えるくらいだったが、何か頭の中で考えるときの架空の自分の声ように黒羽の声が直接脳内で聞こえてきた。
「どうも。何か、最期に言い残すことはあるか?」
「!?」
右腕を切断される感触がラングヴァイレを襲った。見えない自分の左手で右手を探すが触れることができない。
「……」
確かに切断されている。頭では右腕を動かしているつもりだが、手を合わせようとすると右手が左手をすり抜けるように空ぶってしまう。
どうも黒羽の様子がおかしい。上空にいたときはあれだけ苦戦した様子だったというのに、勝利宣言ともとれる発言とこの得体の知れない予測不能の攻撃。仕返そうにも本体がどこに潜んでいるか分からない、明らかな劣勢が一瞬にして完成されてしまっていた。
すぐに右腕を再生するが、この状況では元通りになったところで何も変わらないだろう。
「……。ふん……。すまなかったな」
「……」
意外にもラングヴァイレは謝った。
数秒の間が空いて、続ける。
「まさか、あの時のガキがこんなふうになるとはなぁ」
「……」
黒羽が全てを奪われたあの日の出来事は、ラングヴァイレにとっては無限の時間の中でのほんの一瞬に過ぎないものだった。
人間として生きていた黒羽と悪魔として生きているラングヴァイレは互いに互いの何ら変わりない日常を過ごしていただけだ。ただそれが偶然か必然か出くわしてしまった。
いつも通り生きていた黒羽と、いつも通り殺し回っていたラングヴァイレ。人間が動植物の命を糧にするように、ラングヴァイレも人間の命を奪っていたにすぎない。
人間は生きるため、悪魔は耐えがたい暇を潰すため、それぞれ倫理観の有無という違いはあれど避けられない原罪を犯していただけのこと。ラングヴァイレは反省する気など微塵もなかった。
「クロハネ、オマエもついてねぇ野郎だ。オレ達の原罪に巻き込まれた挙句、敵討ちも果たしたと思ってすっきり死ねただろうに、前世の記憶もそのままで審判界へ転生する羽目になるとはな。しかも本当の敵のオレはこうして生きているんだから……。はは、いやー、可哀想だなぁ、オマエ」
「……貴様」
ラングヴァイレは微かな殺気を感じ、見えない攻撃をかわした。
「せっかくおもしれぇ能力にも目覚めて——」
畳みかける追撃も当たらない。
「気配もそんなに薄くして——」
ひらり、ひらり、次から次へとどこからともなく向けられる察知しにくい殺気を察知して、のらりくらりとかわしていく。
「このオレ様を倒せると——」
ただ殺気を読むだけで全てを避け、とうとう反撃に出る。
「思っただろうにな!」
ラングヴァイレは何かを真上へ思いっきりぶん投げた。それは非常にどす黒いもの。目には目を、紛れるものには紛れるものをだ。
この真っ暗闇で紛れる黒猫の黒羽に放たれたのは、真っ暗闇に紛れる大量の黒いエネルギー弾。
ずっと近接攻撃ばかりだったというのに、よもや飛び道具も使えるとは思うまい。
真っ暗闇に紛れて見えないが、ラングヴァイレの大量のエネルギー弾は嵐のように横殴りに降り注ぐ。見えていたとしても避けるのは至難の業の猛攻だ。
空間に閉じ込められたのならばその全てを埋め尽くす攻撃で葬るまで。
これで黒羽はまんまと見えない攻撃に被弾するか、この暗闇の空間を解くしかないはず。殺気だけで攻撃を読まれるのなら、もはや暗闇も意味を成さないと考えるのが妥当。
だがしかし、一向に暗闇は解かれない。術者である黒羽が死んだなら即座に終わるはず。
放たれたエネルギー弾は追撃せずとも一つ一つが分裂して増えつつ黒羽を探して飛び回る。それでも、まだ、終わらない。
ラングヴァイレの脳内で様々な考えが飛び交った。外から見たらこの真っ暗闇の空間はどう見えるのか、もし上空へ飛び上がったらどうなるのか、もし、黒羽が遥か遠くから攻撃を仕掛けて来ていたのだったとしたら……。
〇〇〇〇
船室に残されたシロは黒鬼の治療を続けていた。
モナとメイシーは幸いなことに、もういつ目を覚ましてもおかしくない状態。おかげで黒鬼の治療に専念することができた。
黒鬼は壁にもたれて床に座り、血とオイルにまみれてしまったシロのローブは、代わりに新しい毛布と取り替えてくるんでもらっている。ふと、隣でうう、と小さな声がした。
見るとメイシーは寝返りをうち、仰向けで眠り続けるモナにしがみついている。魘されているようで額に汗をかいていた。
それを黒鬼が気にして眺めていると、突然、バタン、と大きな音が。
シロが意識を失った。
「……シロ?」
傍らに寄り添って回復の魔法を続けてくれてはいたものの、気を失うほど疲れていたようには見えなかった。それがもう床にぐったりと倒れ込んでしまっている。
何の前兆もなく、たった今の今まで優しく励ましてくれながら治療してくれていたというのに、一体何が起きたというのか。
黒鬼がシロを揺すってみようと、その肩に触れようとした。と、その時、かくっ、と一回だけ大きく痙攣し、すぐに瞼が少しだけ動く。
ゆっくり、目を開けた。青い瞳が黒鬼を見上げる。何だか、今までと目付きが違うような気がしたが、何度か瞬きをするといつも通りのシロの目付きに戻った。
黒鬼に怪訝そうに見つめられながらシロは具合悪そうに少しずつ起き上がる。
「シロ……。あの……」
大丈夫かと言いたげな黒鬼だがその言葉を知らず不思議そうに見守るしかない。
「ご、え……。ご……。あ、あー、ご、め、あー……。ごめ、ごめん。し、し、し、あー、し、あー、し、し、心配、し、な、しない、で」
呂律が回っていない。途中途中で発生練習みたいなことをしながらようやく言った。
何かに怯えるように身体を震わせはじめる。そして、手を伸ばして黒鬼を止めながら、顔を隠すように向こうを向いてこんなことを言う。
「く、く、いや。……すん。や、いや。く、くろ、ちゃん、に……。今、まで、あ、あ……。ありが……、と……ぅ……」
急に震えが止まる。
シロは涙を流して床を数滴濡らしていたが、着ていた飾り気のない白いカッターのようなシャツの裾で目元を拭い、ふぅ、と、安堵したようにため息をついた。
「ごめんね、時々こうなるの。ちょっと恥ずかしいから、くろちゃん達には言わないでね」
「……」
涙を拭いて振り返ると、シロはにこにことしていた。
何かがおかしい。だが、何がおかしいのかが分からない。今まで通りのような、少し違うような。黒鬼は気味悪そうにシロを凝視した。
シロは一瞬無表情になり、不安そうな顔をする。
「え、ごめん。実はね、ちょっと、身体がよくなくて。時々発作が起きるん、だよ」
「……そう」
「ごめんね、回復中だったよね。もうすぐで終わるからね」
一体何が起きたのか黒鬼には分からなかった。回復が済んで黒羽と合流したら伝えておきたかったが、黒鬼はシロに触れられるともうこの記憶は消し去られてしまった。