112 名も無き悪魔
名も無き悪魔の話は天界で物議を醸している上位世界の特徴と一致していた。それどころか上位世界の住人が人間を創っているという話などは一部の天使にしか知らされていない口外禁止の情報だ。
単純に考えればこの名も無き悪魔の証言は事実だとするのが自然そうだが、レビは嘲笑するように首を振りながら手を叩く。
「悪魔が暇を持て余しているという話はよく聞くが、そんな作り話まで思いつくほどだとは、もはや賞賛に値する」
「……何故ダ。信ジラレナイト言ウノカ」
「当然だろうが。そんなもの、悪魔こそ思いつきそうな話じゃないか。どうせ暇を持て余したバカな悪魔がでっちあげて、人間界で人間に取り憑いて物好きどもにでも吹き込んだんだろう」
「ソレナラ天使デモ上位世界ヘ行ッタト言ウ者ガイルノハドウ説明スルノダ」
「簡単なことだ。そこの鉄クズみたく貴様のような腑抜け悪魔に唆される呆れた天使もいるくらいなら、その程度の作り話に便乗する馬鹿がいても不思議じゃない」
「クッ……」
「それにだ、その上位世界とやらの存在をそんなに証明したいと言うんなら物的証拠を何故出さない。感想ばかりで何の根拠も無いじゃないか。オレは自分の目で見た物が全てだ。このオレがそう簡単に、それも悪魔の言うことを信用するわけがないだろう。貴様とは通ってきた修羅場の数が違うんだ。それが分かったらとっとと失せろ。貴様には何の用もない」
名も無き悪魔は完膚なきまでに論破されてしまい、何も言い返すことができず苦虫を噛み潰したような顔で狼狽えた。
そもそも悪魔が作った話だと言うのであれば、その内容が天界まで巡ってきたものと一致するのは当然のことである。ある物語を読んだ者の語る内容が、その作者のメモと一致するのと同じくらいに当たり前の話だ。そんなことでは根拠とまでは言えるはずがない。
名も無き悪魔は左手に拳を握り、左足を一歩踏み込んで頭に血を上らせた。
「用ガナイ? 失セロ? コノ吾輩ヲコケニスルノカ貴様!」
「大目に見てやると言っているんだ」
レビは変わらぬ落ち着いた声で続ける。
「今回用があるのはその鉄クズだ。今のうちに融合を解いて逃げなければまとめて殺すぞ」
「フン! 言ッテクレルナ。コノ状況デ勝算デモアルト言ウノカ」
「冷静に考えてもみろ。オレがここにいる時点で貴様に勝ち目はない」
「何ヲ訳ノ分カラン事ヲ」
「貴様はまだ若いらしいから知らないんだろうが、天使は悪魔とは違って死者を迎える以外の目的で下界へ降りることを禁じられているんだ。それが掟を破って下界に来ている。悪魔と融合する以外では、天界の神々をも力で捻じ伏せなければ成し得ないことだ」
名も無き悪魔はわずかに後退った。それでも負けじと反論しようとする。
「……ダガ、此ノ女ハ——」
「そこの鉄クズがいとも容易く下界へ降りられたせいで勘違いしていたようだな。そいつが来られたのは、今も言ったことなんだが、貴様と融合して天使の概念から外れたためだ。どうだ? 神々を力で黙らせて強引に降りてきたオレに、ただ単純にやって来ただけの貴様が勝てるとでも思うのか?」
「……。神殺シノ、レビ。聞イタコトガアル。……ダガ、ソレコソ噂ニ過ギンノダヨ」
レビはまた呆れて首を振った。深く溜め息をついて言う。
「百歩譲って貴様が本当に実力のある悪魔だったとしよう。それなら何故敵対関係にある天使に取り憑いていやがる。本当に強い悪魔なら、例えばラングヴァイレのように天界の者なら誰もが知る大悪魔で、他人の力を借りることなんか一番不用だと考えているはずだろう。それが見た目通りの半人前で無名の寄生虫みたいな小物が相手じゃ、まったく、殺すのも馬鹿らしい。何がアハダアシャラだ。目障りなだけだ。二度としゃしゃんな」
名も無き悪魔は不敵に笑い始めるが、レビが被せるようにこう言い放つ。
「やめておけ。戦いの神でも敵わなかったのがオレだ。殺した神たちと天使たちなら数えていたが、悪魔の数は数え切れなかった。オレとラングヴァイレがあっさりすれ違ったのも、つまりそういうことだ」
「……」
レビがこの空中要塞へ乗り込んだとき、確かにラングヴァイレの目の前を堂々と通り過ぎて呆気なくシュペルファーレンとシャーデンフロイデの目の前にやってきた。それは名も無き悪魔もシュペルファーレンの中で見ていたようだ。ちっ、と舌を打った。
あのときレビはただシュペルファーレンを殺すことだけを目的としていたためにラングヴァイレには見向きもせず、一方でラングヴァイレは引くところは引いていたというわけだったのだ。執拗に強さを求めて生きてきたと言われているラングヴァイレだが、彼が他の誰よりも死を恐れていることこそがその理由なのである。あのすれ違った瞬間、ラングヴァイレはレビに対して今の力量では勝つことができないと悟っていたということだ。
「違ウヨ、フフ、違ウノダヨ」
「?」
何か考えがあるのか、名も無き悪魔はそれでもシュペルファーレンから分離しようとはせず、勝利を確信しているようにレビを笑う。声を殺し、そうしながらも腹を抱え、目隠しされた目元を多い、天を仰いで笑ってしまう。
「フフフフフッ、確カニ、レビエル、君ノ方ガ強イノダロウネ。デモ、ソレデモ吾輩達ガ負ケルコトハアリ得ナイ。何故ナラネ——」
名も無き悪魔は左手の黒く変色した指を3本立ててレビに見せた。
「コレハ吾輩達ノ魔撃ト天撃ノ合計ダヨ。吾輩モ此ノ女モ扱エル」
「……」
魔撃と天撃。審判界の住人で言うところの卑怯に当たる能力だ。ただし卑怯はこの魔撃と天撃の真似事である。元である魔撃と天撃は卑怯のように相手を賞賛する必要はなく、加えて代償も伴わないことがほとんど。
天使や悪魔にも階級があり、高位になるほどより強力かつ複数の天撃や魔撃を扱えるようになる。名も無き悪魔が天使だったというシュペルファーレンと融合したことの強みはここにあったのだ。融合したことで、本来であれば天使にしか扱えない天撃も、悪魔にしか扱えない魔撃も両方、それも扱えるだけ全てを扱えるというのである。
レビに扱える天撃は一つのみ。けれどだからと言って怖気付くようなこともなく、顔色一つ変えない。
「そうか。ラングヴァイレより肝だけは座っているようだな。そんなに自信があるなら使いたいだけ使ってみればいい」
「ナ! 何ダト! ……!? コレハ!」
名も無き悪魔とシュペルファーレンの融合した身体が突如、複数の長く鋭い氷の槍に貫かれる。まるで突き刺されたのではなく、身体の内側から突き出たかのようで避けようがなかった。とはいえ、どういう身体をしているのか、頭も心臓も丹田も四肢も貫かれているというのに拘束されただけでダメージは無いようだ。
もがく名も無き悪魔。こんなはずがないと信じられないようだ。それもそのはず。今の今まで肉弾戦ばかりだったレビが急に魔術的な能力を発揮したのだ。しかもシュペルファーレンの肉体は水銀に変えることができるはずであるのに、全くそれができなくなってしまっている。
「何を慌てているんだ。いつからオレを脳筋だと勘違いしていやがった」
「クソガ! ソンナハズハ無イ! 聞イテイナイゾ!」
「悪魔の間でもオレは有名人なんだな。まあ、そりゃ聞いていないに決まっているだろ。どうせ貴様はオレが肉弾戦だけで神々を屈服させたと聞いたかで、シュペルファーレンが言っていたアハダアシャラになるための新しい肉体に水銀を選ばせたといったところだろう。だが、そんな流体の身体をした相手は貴様が初めてだったんだ。皮肉だなお前は。拘束される初めての相手になるにすぎなかったんだからなぁ」
捕えられた害虫のようにもがく名も無き悪魔に、レビが全くの無防備で真正面から歩み寄っていく。もう、あっという間に目の前まで来てしまった。
「言ったはずだ。オレが貴様をすぐに殺さなかったのは疑問を解決するためだった、と。嬲り殺すついでにな。だがもう用はない。有益な情報は得られないと判断した。悪魔の貴様くらいはまだ今なら逃してやっても良いんだが、本当にいいんだな、これで」
「コンナ、コンナ事ガ!」
まさか文字通り手も足も出ないとは。
レビがシュペルファーレンの顔の前に右手をかざす。緑色の光が集まり出した。本当に天使なのか疑わしいほどに全く躊躇いがない。
「一滴でも残すと復活しそうだからな。全て、空間ごと抹消してやる。普通の攻撃でな」
「ヤメロ!!」
次の瞬間、レビの一撃が名も無き悪魔をシュペルファーレンもろとも消滅させる、はずだった。
レビの身体が突然現れた黒い靄に包まれてしまい、攻撃も封じられてしまったのだ。
子どものような幼い声で名も無き悪魔が笑う。
「言ッタハズダヨ。吾輩達ガ負ケルコトハアリ得ナイ、トネ。吾輩ノ魔撃ニ屈スルノダ。フフフフフッ」
黒い靄がレビの身体を支配するように彼の周りをぐるぐると渦巻く。
この空中要塞に、今、助けに来られる者は誰もいなかった。