111 上位世界
目を覚ましたメイシーはしばらく現実に戻ったことが理解できず、ひたすらシロにしがみついていた。
メイシーが錯乱したように何度もここはどこなのかと問いかけては、シロが優しく抱きしめて頭を撫でてやりながら「現実の世界だよ」「夢から醒めたんだよ」「もう大丈夫だよ」と慰め続ける。
メイシーはシロの胸の中で小さな身体を震わせていた。相当恐ろしい夢を見ていたのだろう。
船室にいてはもしまた黒羽たちがやって来たら邪魔になるだろうと、そう考えてシロはメイシーも自室に移動させていた。
シロのベッドにはモナが眠っている。もう彼女の心臓はルナとフミュルイの協力のお陰で正常に心拍を再開しているが、血流が長い間滞ったことで全身の臓器が窒息状態となりダメージを受け、今はその回復中だ。彼女が目を覚ますにはまだどれだけかかるか分からない。
「ルドルフが、ルドルフが……」
メイシーが落ち着いてきたかと思えばルドルフの名を小声で繰り返しはじめた。窓から差し込む薄い光に虚ろなメイシーの目が照らされる。どうも様子がおかしい。
「今みんなで頑張ってるからね。きっと大丈夫」
「……ルドルフ、ルドルフが、ルドルフが」
「……メイシーちゃん?」
「ルドルフが……ルドルフが……」
メイシーは錯乱したまま再び気を失ってしまった。
「ガイスティゲ、エホーウロ」
これはいけないと、精神を落ち着ける魔法を唱えた。メイシーは全身に冷や汗をかいていたが、すやすやと寝息を立てる。どうにかなったようだが、一体彼女の身に何が起きたのか。
「……。くろちゃん——」
意識を失った二人と共に、部屋に独り。もう何時間もこうしているような気さえしていた。
○○○○
アハダアシャラ達が乗って来た空中要塞は、レビとシュペルファーレンとの戦闘で瓦礫まみれの床一枚という姿に変わり果てていた。
シュペルファーレンは自身の肉体を水銀に変えることを可能とする性質のためほぼ不死身。戦闘は長期化し、消耗戦になっていた。
目にもとまらぬ超高速の攻防。まるで何もない空間で不思議と爆音だけが鳴り響いているかのような光景が続いていた。
シュペルファーレンはほぼ不死身の肉体というだけで、戦闘能力はやはりレビの方が上。黙々と戦闘を続けていた二人だったが、とうとうシュペルファーレンのほうから大きく距離をとって着地した。
「いつまで続ける気? 往生際の悪い坊や」
「強がりな生ゴミだ。終わりが近いのは貴様の方じゃないのか?」
レビに指を差され、シュペルファーレンは自分の左手が水銀のままで完全に回復できていないことに気がついた。
一方、レビは全く消耗しておらず変わらぬ声色で言う。
「オレが貴様をすぐに殺さないのは疑問を解決するためだ。貴様は人類を滅亡させ理想郷を創ると言ったが、その理想郷には何が残ると考えているんだ。人類を失った世界でどうするつもりだ」
「……ふん」
シュペルファーレンは時間をかけて左手を完全回復し、「違うな」と嘯く。
「何がだ」
「人類を滅亡させ、再構築するんだ」
「再構築、だと」
「そうだ。現に私たちは元の肉体を捨て、こうして新たな肉体を得ている。この術を全ての人類に施すことで、上位世界の住人による搾取から守ろうというのだよ」
「上位世界の住人? 貴様、そんな御伽話を本気で信じているのか」
上位世界。それは人間界、審判界、天界、そして魔界とも異なり、それらの上位の価値を持つとされる世界が存在するという伝承である。
その伝承では上位世界の住人こそが全ての世界の祖であり、人類を創造し、人間界、審判界、天界、魔界に振り分けたとされる。目的は人類が家畜を育てるのと同様。人類たちの生命活動エネルギーを何らかの方法で吸収し、糧とするためであると語られている。
これが事実であると裏付けるかのように、その伝承は天界のみならず4つの全ての世界で噂されているのだ。
近年になって上位世界へ迷い込んだと証言する者が全ての世界で散見され、時も場所も異にしておきながら語られる内容が一致し、天界で物議を醸している話題である。
上位世界の住人たちは植物を通じて心を通わせることができ、また、人類と同じ外見の生命体だけでなく奇怪な植物たちが自我を持って根を足のように使い歩き回っているという。そしてその誰もが迷い込んだ者達に対して分け隔てなく親友や家族のように優しく接し、字を教えたり、休息をとらせたり、元の世界へ帰る手伝いをしたりと甲斐甲斐しいまでに世話をしてくれたというのだ。
だがしかし、字を教わった上位世界からの帰還者が記した手記には、上位世界の住人たちは人類を創造し、それを糧とすると語られていたのである。その優しさに満ちた気質とはまるで相反するような残酷な内容を語った手記は、遥か昔に人間界で記されたものであり、誰が遺したのかも分からない状態だ。けれども手記には近年の帰還者たちが語る自我を持つ植物たちの特徴と一致する絵や暦の考え方までもが記され、上位世界の信憑性を高めているのである。
レビもその話は天界で聞いたことがあった。彼は誰かの作り話に便乗した悪戯好きの悪魔の仕業としか考えていなかったが、まさかそれを間に受け虐殺まで企てるような輩がいたとはと呆れて首を振ってしまう。
「バカが。そんなことのために賢者の石までもを濫用したというのか貴様は」
シュペルファーレンも深く溜め息をついて首を振った。
「やれやれ、残念だ。正真正銘の天界人だったというお前が、情け無い。お前が言う通り、少しでも話せば分かるかと思った私がバカだったようだ」
「何故そこまでクソの戯言を信じることができる。根拠でもあるのか」
「ああ」
「……!」
シュペルファーレンはそう言うと、持っていた赤い巨刀をその場に手放した。
「私も行ってきたからだ。上位世界に」
「何だと? バカバカしい」
「じゃあ何故、チョールヌイの姉であり、この審判界の住人であるはずの私が天界と魔界の輪を持つと?」
シュペルファーレンの背中から、おもむろにどす黒い不吉な翼が左側にだけ生え出し、左手が大きく、そして爪が鋭く長く伸びた。禍々しい黒い煙のような妖気が漂い、空気が冷たくなってくる。
頭上の重なり合った白と黒の輪のうち、黒い悪魔の輪が一回り大きくなった。
「ヤア、レビエル」
「誰だ、貴様は」
雰囲気が今までとは全く違う。身体の左半分は悪魔そのものだ。声までもが男とも女ともつかない声変わり前の子供のようなものに変貌した。子供のように舌っ足らずでゆっくりとした聞き取りにくい口調で話し始める。
「嫌ダナァ、吾輩ニ名ナゾ訊クデナイ。ソンナモノ要ラヌノダヨ。吾輩ハタダ、死ンデ天使トナッタ此ノ女ト利害ガ一致シタ、ソレダケノ者ダヨ」
「貴様も相当なバカなようだな。順を追って説明しろ。シュペルファーレンがいつ天使だったというんだ」
散々強敵たちと渡り合ってきたレビだ。出来損ないの悪魔ごときに動じることなく話を続ける。
「フッフッフ、君ガ知ラナイノモ無理ハ無イダロウ。君ガ此ノ女ノ弟ニ殺サレルヨリモ、前ノ事ダヨ」
「……続けろ。詳しくな」
「アル時ノコトダ。吾輩ハ気付カヌ内ニ上位世界ニイテネ。不思議ト悪サヲスル気モ起キナカッタ。良サソウナ顔ヲシテ、連中ノホウコソ、余程悪魔サ。人ノヨウナ物ヲ創リ、失敗シテハ植物ノ種ヲ身体ニ植エテ寄生シテイタ。成功スレバ人間界へ送リ、ソノ怒リ、恨ミ、憎シミ、ソシテ命ヲ糧ニ老イモセズ、死ニモシナイ。一本ノ花ガ枯レ、種ニナレバ一年ヲ数エル。ソレマデヲ十二デ等分シ、暦トシテイタ。死ナヌ者ヲ相手ニシテモ意味ガナイ。吾輩ハタダ観察ヲ続ケ、人デ成ル大木ヲ見ツケタ。デモ、ソノ時殺サレタ気ガシタノダヨ。目ガ醒メルト天界ニイタ。マダ幼カッタ吾輩ハ何ガ起キタノカモ分カラヌママ、今度コソ天使ニ殺サレルト思ッタ。吾輩ヲ最初ニ見ツケタ天使ガ、此ノ女ダッタノダヨ。デモ、此ノ女ハタダ不思議ガッタノダヨ。何故吾輩ノヨウナ幼イ悪魔ガ天界ニイルノカト。全テヲ話シタ。悪魔ハ死ヌト無ニナルト聞カサレテイタカラ、殺サレタクナカッタ。此ノ女ハ信ジテクレタ。ソシテ吾輩ヲ匿ウタメニ自ラ融合シ、審判界ヲ彷徨イ、此ノ女ノ弟ヲ見ツケ、此ノ新シイ身体ヲ得タノダヨ。何故此ノ女ガ幼クシテ天使ニナッテイタノカハ吾輩モ知ラヌ。我等ハ戦ワナケレバナラナイノダヨ。アノ忌マワシキ、上位世界ト」
名も無き悪魔はレビに黒い左手を差し伸べる。
「オマエモ例外デハナイ。上位世界ノ住人タチハ我等ヲ搾取シテ生キテイク。ダカラ弱キ人間界ノ住人ト、審判界ノ住人ハ我等ヨリ早ク老イテ、我等ニハ無縁ノ寿命デ死ヌノダヨ。此ノ女モ、オマエモガ愛スル妹モ搾取サレルノダヨ。共ニ世界ヲ再構築シテ搾取サレヌ身体ヲ全テノ魂ニ与エネバ、上位世界ノ暴走ヲ止メラレナイ。上位世界ノ住人タチト戦エナイ。今コソ其ノ力ヲ共ニシヨウデハナイカ」