110 メイシーの明晰夢
メイシーは未だ船室内で気を失ったままだった。
ベラポネとモナと共にアハダアシャラの襲撃に遭い、シュバータ王国の姫という身分で生まれ育ち悪夢より恐ろしいものがなかった彼女にとって死の恐怖はベラポネたち以上のもので、到底許容し切れないものだったのだ。
彼女は不思議な夢を見ていた。
そこはまるで天国。神々しい白々とした光が広大な草原に降り注いでいた。
妖精なのだろうか。そこかしこに人間ほどの大きさの植物が根を地に降ろさず足のように使って歩き回っていた。
中には根を持たず茎の下先を二股に枝分かれさせ、それを足としているものもいる。上の方は実に様々。やけに葉が多いもの、花が多いもの、不気味な紫の花を咲かせたもの、花を手のように扱っているもの、目のような実を付けたもの、3体で一つとなり長いツタをぐるぐると一塊にして脳から足が生えているように見えるもの。その全てが歩くことができ、ときどき立ち止まって根を地中へ突き刺して休息をとる。
これは明晰夢のようだ。メイシーは夢の中でありながら自分の意思で歩き、どこへ行ったらよいか考え、彷徨っていた。こんなことは初めてだ。夢なのにそろそろ歩き疲れてきた頃だった。
周りがこうも現実離れしていなければ夢だとは気が付けなかっただろう。それほどまでにメイシーは感覚がはっきりしていた。
どこへ行っても草原が続く。ふと、巨大なウツボカズラのような植物を発見した。
ほぼ全身が地中に埋まって上側が少しだけしか地上に出ていないが、こんな特徴的な植物はそうそうない。城の敷地より大きな途方もない大きさの一枚の葉がその大穴を覆っているが隙間が空いていた。
ずっと嗅いでいたくなるような心地よい香りが漂っていて、独りぼっちだった不安も疲れも癒えてしまう。メイシーは迷うことなくその隙間に近づいていった。
「あー」
「あ?」
「あああ」
「おーう」
「ああ! ああ!」
深くから唸るような声が聞こえて後退る。会話しているようにも聞こえるが、何を言っているのかは分からなかった。
他の植物たちは声など一切発していなかったはずだ。だとしたら、この声は人間のもの。恐ろしくなってくるりと踵を返して走り出した。
何故だか理由もなく悲しくなってくる。あの巨大な植物がそうさせているのだろうか。離れれば離れるほどに後ろ髪を引かれるような気分になる。
どんっ。
何かにぶつかった。「いたっ」と言って尻餅をつく。見ると根の足が。見上げてみれば植物の妖精だった。あまりの異質さに本能的に関わらないようにしていたが、もう遅い。メイシーがぶつかった植物は目のような実を一つ付けて、それで彼女をただ見下ろしていた。その実以外には葉もなければ枝もない。つるりとした茎の先に目のような実が一つついているだけという不気味極まりない姿をしていた。
茎をヘビのようにしなやかに歪めてメイシーの顔を食い入るように見つめる。メイシーは目を閉じて顔を背けて恐がり、しかししばらくするとまたその植物はもとのように姿勢を正した。
こっちだ。そう言うかのようにぶんっ、と実を向かって左へ振り、メイシーを待つように背を向けた。呆然と見つめていると心配するように振り返ってきて、どうせ行く宛もないのでメイシーは渋々立ち上がってついて行ってみることに。
歩みを進めていくと深い霧の中に入った。目の植物は頻繁にメイシーを振り返ってはぐれないように気にかけてくれる。おかげで長かった霧の道のりも無事に抜けることができ、途端に空が晴れた場所に出た。
初めて空を見上げて、この世界には太陽がないことに気が付く。それなのに眩しいほどに明るい。空そのものが輝いているかのようだ。
目の前には遠くに一本の塔のようなものが。高すぎて先が見えず、どこまで続いているか分からない。歩いて行くには相当な時間がかかりそうなほど離れているがそれでもよく見える巨大さ。
「あそこに行くの?」
目の植物は頷いた。
「少し休もう。疲れちゃった」
快く頷いてくれて、目の植物は足としていた根を地面に突き刺し、休息を取りはじめた。一つの実だけを残して枯れた植物にしか見えない不恰好な姿。それでも前よりはいくらか植物らしくなった。
メイシーも腰を下ろす。
「もたれてもいい?」
目の植物は頷いた。
奇妙な姿だがとても優しい。独りで彷徨っていたメイシーには頼もしく思えた。
茎一本というか細い身体なのにもたれても平気そうだ。夢の中なのにメイシーは眠くなってきてしまった。うとうとして、そのうち本当に眠ってしまう。
ぽん、と何かに頭を弾かれて起こされた。現実に戻ったかと思えば、目の前にはあの目の植物が。
大丈夫か、と言いたげにこちらを見つめている。
「あれ、え……。そっか」
かなりよく眠っていたつもりだった。疲れもとれたが、まだ夢の世界にいることに不安を感じはじめてしまう。
なかなか夢の世界から出られないなど、初めての経験だ。
メイシーはきっとこの目の植物についていけば現実に戻れるだろうと信じるしかなかった。そうと思えば居ても立っても居られず、立ち上がって目の植物をトントン叩いて急かした。
「ねぇねぇ、早く行こ」
「……」
目の植物は気だるそうに地中から根を引き抜いて再び立ち上がった。メイシーはその細い茎につかまって目の前の巨塔へ向かってまた歩きはじめる。
長い。道のりが長すぎる。
目の植物にはこちらの言葉が分かるようだが、一切言葉を発しないので話しかける気が失せてしまいそう。それでも暇で暇で仕方がないので結局は話しかけた。「ここはどこなの?」「みんなはどこ?」「あとどれくらいで着くの?」「あそこには何があるの?」「何であそこに行くの?」ほとんどの質問に首を傾げるようにしてのらりくらりとかわされていたが、「これは本当に夢なの?」という質問には初めて首を横に振った。
「え……?」
「……」
「帰れる、の?」
幸いにも目の植物は頷いてくれた。
これが夢ではないなんて、そんなことがあるのだろうか。確かに五感もはっきりしていて気味が悪い。現実に戻ったとき、大人に聞いたらこの世界のことが何か分かるだろうか。
早く帰りたい。メイシーは心細くなって涙ぐんでしまった。
彼女に気付いた目の植物は立ち止まり、なだめるように身を寄せてくれる。抱きしめる代わりに頭の上からそっと覆い被さってくれた。
どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。こんな恐ろしい見た目だが、天使か何かなのだろうか。
「ごめん、帰りたい。みんなのところに」
うんうん、と目の植物がメイシーの頭の上で頷く。
「もうすぐ帰れる?」
うん、と頷いてくれる。
それで少しだけ気が楽になれた。
「ありがとう。あそこに行けば、帰れるようになるってことなの?」
目の植物は姿勢を戻して頷いた。
おそらく、この世界へ迷い込んで彷徨っていたメイシーに出会い、元の世界へ返してやろうとしてくれていたということなのだろう。
「ああ、そうだったんだ! ありがとう、それじゃ行こ!」
メイシーは勝手気ままに先を急ぎ、目の植物の背中を押してどんどん歩みを進めはじめた。
まだ遠い。
やっと巨塔だと思っていたものが巨木だったと分かる距離まできた。
さらに、まだまだ進んでいく。早く帰りたい、その一心で休む間も惜しんで歩き続け、ついに目の前までやってきた。
「……」
中をくり抜いたら何百人が入れるのかという太すぎる幹。その幹は人間の身体がいくつも集まってできていた。肉が木に変わった、異様な死体の数々。顔はマネキンのようにどれものっぺりしていて判別できず、彫刻にすら見える。それがどこまでも高く積み上がり、この巨木を成していた。
「こ、これって」
目の植物に話しかけようとすると、ある一点を見上げていた。
おそるおそるメイシーも見上げてみれば、そこには見覚えのある顔が。
「この人って、そんな」
木になって呑まれてしまった死体の中には、あのベラポネとララに倒されたゲフォルがいた。それから、大きすぎて気が付かなかったが、大きな鬼のような死体や、エイのような死体、道化師のような死体も、みんな木と一体化していた。
それだけではない。どういうわけか、木の根元に、メイシーが探しているルドルフの気配が強く感じられた。
「いやだ!!」
そんなはずがない。これじゃあまるで、次はルドルフだと言わんばかりではないか。
思わず泣き叫んでしまい、すると誰かに強く抱きしめられた。
「大丈夫だよ、メイシーちゃん」
「……ここは」
薄暗い船室。メイシーはシロに抱きしめられていた。
メイシーはやっと現実に意識を取り戻したのだ。




