011 風と嘘と謎
リングは半径だけでも目方で100メートル以上はあった。中央に待ち構えるチョールヌイのところまで行く間にも思考を巡らせる暇があった。
黒羽は違和感を感じていた。どういうわけか、殺しに来たという割にチョールヌイからはあまり殺意を感じないのである。単に心の中を読まれないように訓練されているだけなのかもしれないが、霊感ですら危険が感じられず、無害なくらいに感じるのはどう考えてもこの状況では異常なことだ。
黒羽は猫の姿をしていることもあって彼女が自分のことをミルだと気付いていないだけなのかとも考えたが、その鋭く吊り上がった目を見る限りそれもなさそうだ。これが彼女の意思的なものによる現象であるのなら、ここまで全くの無で何一つ悟らせないとは子供のような見かけに反してただ者でないことは確かである。
「待たせたな。愛しのミルはこの俺だ」
ただ者でないなら敢えて煽っていく。もう目の前まで来たがチョールヌイは意外そうに銀色の細い眉を歪めただけだった。
「ま、まさか……。こんな猫がミルだなんて——」
彼女は呟いて大きく後方へ飛び上がり、距離を取った。動物のミルは初めて見たようだ。どうも調子が狂わされたらしい。警戒するのはいい判断である。
彼女は着地と同時に、指を差すみたいに左手の剣をこちらへ向けた。
「猫のクセに喋るし、それにその人間じみた目の感じと雰囲気。ミルなんはほんまみたいやな」
「そうだとも。で、どうしたんだ距離なんか離して。俺を殺しに来たんならとっととかかってきたらどうだ」
黒羽が首筋を見せてさらに煽ってみると、チョールヌイは変な物を見たようにまた眉をぐにゃりと歪めた。
彼女はごくりとツバを飲んで、
「お前、何者さ。ここまで肝が座ったヤツは初めてじゃ。少し興味が湧いたから殺す前に自己紹介だけしてもらいたい」
「けっ、はーあ。つまらんな。いつになったら始めるんだよ。お前もどうせ殺し屋の類なんだろ? 問答無用でいきなり切り掛かって来たらどうなんだ」
とは言うものの、黒羽もチョールヌイを警戒して様子を窺う。強い相手とやり合うときは互いに出方を窺い合ってなかなか戦闘が始まらないものだ。
「質問に答えろ。私は少しワガママな殺し屋なんさ」
「仕方ねぇな。俺は——」
黒羽はもったいぶってわざと間を空ける。二人の間だけしーんと静まる。
ざわざわ、がやがや、ざわざわ、がやがや……。街から逃げ出そうとする冒険者たちの声だけが雑音のようにうるさく聞こえてくる。
そのうちチョールヌイが痺れを切らして早く答えろと言いそうになったので、寸前に黒羽はこう答えた。
「猫だ」
「……、あ?」
「そう、猫だよ。吾輩は、猫である」
「きっ、よっぽど殺されたいんやなあ! ったく、可愛い顔して不気味なヤツさ!」
彼女がそう言い終わるかどうかで黒羽は身を翻し、高く宙を舞った。何の前触れもなく突然チョールヌイは剣先を5センチ程度左右へ振り、それだけで鎌鼬のように刃のような真空波を射出してきたのだ。しかも空気の刃であるために肉眼では見えず、霊感と微かな音でやっと察知できたくらいだった。
黒羽が着地後に背後を見てみると石のリングが半月形に切り裂かれていた。少し遅れて黒い猫毛が数本だけはらはらとゆっくり落ちてきた。背中の毛が少し切られてしまったようだ。
「思っていたより良い攻撃だ。なるほど、目に見えない攻撃だから貴様本人が堂々と人前に現れても好き放題殺しができるということか」
「……流石やな。お前には会えて嬉しいくらいさ。見えない上に不意打ちだったのに避けるとは——」
チョールヌイは剣を降ろして言葉を切る。急に彼女の雰囲気が変わった。
目深に被ったフードの中で薄い唇が嗤う。
黒羽の霊感は、周囲が照明に照らされているはずなのにみるみる闇に包まれていくような不吉な感覚を訴え始めた。
黒羽も一歩、二歩と思わず退き、全身に力を入れて身を構える。
「——あぁ、あぁ、……、ゾクゾクするよォ〜〜ッッ!!」
感情昂ぶって暴風を纏い、目深に被っていたフードが飛ばされてチョールヌイの姿が露になる。鋼のような金属光沢のある銀髪のショートに、例えでもなく本当に光の尾を引く蒼白の三白眼。雪のように真っ白で透けるような肌をしているが、今は美の象徴ではなく白い悪魔という言葉を彷彿とさせる不気味の象徴だった。
(けっ、こういうキチガイみたいなのはあまり好きじゃねぇんだがな)
だがもう暢気に考え事をしている暇はないらしい。直後からチョールヌイは舞い踊るように双剣を振るい出す。すると彼女が纏った暴風が太刀筋に沿って無数の鎌鼬となり射出され、黒羽をめがけて襲い掛かった。
まるでマシンガン、いや、これがマシンガンなら飛ぶのは点みたいな鉛玉だからまだ可愛いくらいかもしれない。チョールヌイのものは何倍も凶悪。何せ放たれた真空波は三日月型の刃のようになり、それも飛距離を増すほどに巨大化して飛んでくるのだ。
黒羽はリングの上を四つ脚で駆け回る。たった今後脚が蹴ったリングは次の瞬間には木っ端微塵。宙を舞うリングの破片はこちらの動きが速すぎるせいで相対的に極端に遅く見える。タチの悪い台風も白目を剥いてひっくり返りそうな風の猛攻に、しかし黒羽は歓喜していた。
前世では鉛玉と刃での乱闘が関の山だった。そんなつまらない人間同士の殺し合いなんか今のこれと比べたら子供のケンカみたいなものである。かつてこれほどアドレナリンの放出を感じた戦いがあっただろうか。何か一つでもダメだったら体が真っ二つにされるかもしれない。そんなスリル、ただの人間には感じられまい。
が、しかし、鎌鼬の雨は石のリングの3分の1程度を砂利に変えたところで不意に止んでしまった。
いかにも不満だという感情を表情にしてチョールヌイを見れば、彼女は髪が逆立ちそうな勢いでこちらを睨みつけていた。
「だんだん気分が悪くなってきたけぇ、煮え繰り返った腸を吐き出しそうさ」
「どーでもいいから今のやつ続けてくれないか。結構楽しかったんだ。たまには猫と戯れるのもいいもんだろ?」
「くっ、きぃぃ〜〜っ!」
「あ? クッキー? 腹でも減ったか」
「ぶっ殺すぞお前!!」
火に油を注いでいくスタイルで煽りに煽る。
チョールヌイも所詮は子供のようだ。地団駄を踏んで顔を赤くして、火にかけたヤカンみたく頭の先から今にも湯気を吹き出しそう。……なのだけれど、どうしてか、未だに殺意と言える殺意が伝わってこない。まるで怒っているのを演じているみたいだ。
そろそろ霊感に頼らずとも彼女の行動自体からも伺えるようになってきた。例えばさっきの鎌鼬。本当に殺したいなら逃げていく方、つまり尻尾側ではなく頭側に先回りする形で一発くらいは放ってもいいところだが、そんなフェイントは皆無だった。
何かがおかしい。黒羽は戦闘を愉しむ半面、その真相を知りたくなってきた。
「ふん、高が猫のクセに、本当にいい度胸じゃ。久しぶりのミルじゃけぇ、運動がてら少し時間をかけてやろうと思っていたんじゃが、もう終わりにしてやろうじゃないか」
「なあ、突然なんだが、お前、本当は俺を殺す気なんか無いんだろ?」
「はぁ? ……、ハハハハッ、また何を言い出すんじゃ、変わったヤツさな。度胸があるというより、ただのバカか?」
「猫には霊感がある」
そう言われるとチョールヌイは顔色を変えた。何かに怯えるような、焦ったような、追い詰められたような、今までの勢いとは真逆の顔を一瞬だけ見せた。
「何が言いたい」
「特に俺の霊感はその辺の猫より鋭い。最初から気づいていた。お前に殺意がない、とな」
本当は図星のクセに、チョールヌイは無理に「ふん」と薄く笑って誤魔化そうとする。
「やれやれ、それで命乞いのつもり? わけのわからない戯言を言ったって大した時間稼ぎにはならないさ」
「さっきは自己紹介でふざけて悪かった。遅ばせながら軽く聞かせてやろう」
「……」
「俺の名は黒羽。前世での名をそのまま今世でも名乗っている」
「前世? 生まれ変わる前のことを覚えているとでも言うだか?」
「ああ。俺は生まれ変わる前、ここに似て非なる世界に人間として生きていた。当時、俺はマフィアをしていたが、病気で死んだ。あの世では死神に、地獄より辛い罰を与えてやると言われたよ。それで気がつけば別世界に黒猫として転生させられていた。まぁ、要するに、お前と同じく殺し屋の類だった俺からすれば今お前がやっていることはまるでおママごとだというわけだ。ここへ来た本当の目的を言え。!?」
黒羽は倒れた。何が起きたのか理解できるまでに数秒かかった。
チョールヌイは棒立ちのままでいたはずだったのに、黒羽は右の前脚と後脚を切断されていたのだった。
「黒ちゃん!!」
遠くでシロが泣き叫んだ。
(……、なるほど。やっぱりそうだ)
ロードから譲り受けた能力のお陰で黒羽は全く痛みを感じず、これほどのケガなのに血もすぐに止まってしまった。
彼は冷静に状況を整理し始める。
(まず、あの鎌鼬を撃つには剣も暴風のオーラも必要なかったわけだ。その二つの条件が揃わない限り撃ってこないと思い込ませるためのフェイクだったというわけか。けっ、誰が気付くかクソが。しかも鎌鼬の形は三日月型である必要もないときた。なんてヤツだ。棒立ちの姿勢から、武器も呪文も無しに、ただ念じるだけで真っ直ぐ一直線に風の刃を放ちやがったのか)
「クロハネ」
名前を呼ばれるまでもなく黒羽はチョールヌイを睨みつけていた。
「確かに殺しに来た言うんじゃ語弊があったやもしれんさな。私は、お前の強さを調べに来た。それが本当の目的さ」
「嘘つけ」
「きっ!」
チョールヌイは歯茎をひん剥いて、再び何の予備動作もなく直線の鎌鼬を撃った。だがしかし、もうそこに黒羽はおらず、リングに拳大の穴が空いただけで終わった。
「んな!」
「よくあるパターンだ」
黒羽はチョールヌイの背後に瞬間移動していた。それも、前後の脚をすっかり再生してしっかり四つ脚で立っていた。
「言ったはずだ。俺には鋭い霊感がある。さっきは油断しだが、もうその手は通用しない」
「……、キサマ!」
「さぁ、殺せ、殺してみろ。どうして先回りして鎌鼬を飛ばさなかった。どうして二重三重のフェイクで不意を突けたのに心臓を撃ち抜かなかった。やれるものなら、やってみろ!」
チョールヌイは明らかに狼狽えた。そんな彼女の前で黒羽は堂々と丸くなってみせる。彼女が剣を振りかざしても黒羽は動かない。それどころか目を瞑ってしまった。
「……」
「……」
やはり何も起きない。発達した耳からの情報から、チョールヌイが剣を振り上げたまま躊躇している様子が目に浮かんだ。
「何を躊躇っているんだい? ヌイ」
「!」
「……?」
そのとき、チョールヌイの後ろから若い男の声が聞こえた。
黒羽も驚いて目を開ければ、不気味な仮面をつけた黒いローブ姿の幽霊のような男がチョールヌイの肩に手を置いていた。
なんとも不気味だった。それはそれは、寒気がするほどに。
黒羽の聴覚は相手の顔つきまで分かるほどで、霊感は相手の気配どころか考えていることまである程度探れてしまうほどに鋭い。それなのに、この男だけは視覚でなければそこにいると分からなかった。