001 転機 (表紙あり)
ここは人間界によく似た異世界。
年中日が沈まず、永遠に夕焼け空に包まれていた。
都心から離れ、薄汚い街並みが続く。道も真っ直ぐに通っておらず、まるで野良猫が通る道のように細く迷路みたくうねりうねっていた。
今、一匹の炭のように黒い猫がボロアパートと廃墟のような探偵事務所との間の細い隙間から道の向こうの八百屋を見つめていた。
黒い体は影に紛れてしまい、八百屋の小太りの店主は自分の店の野菜が狙われているとは夢にも思わず年季の入った丸イスに腰掛けて、液晶テレビが一般的となりつつあるこの時代にブラウン管テレビを眺めていた。
ちらほら目の前の道を車が通り、臭い排気ガスを撒き散らしていく。
黒猫は店主が店の奥へ行ってしまうのを待っていたがとうとう待ちくたびれて建物の隙間から頭を出した。
(けっ、いつになったら失せやがるんだあのクソ野朗。人間だったらとっくに殺してるところだ)
黒猫には自分が人間の姿をして、手にサバイバルナイフを持ち、八百屋の店主を切り刻む様が容易に想像できた。何故なら彼はもともと人間だったからである。
彼はある国のマフィアだった。殺人兵器として毎日のように標的をナイフや拳銃で殺しまわった。特に愛用したのは銃の先端に刃のついた銃剣。だがこの銃剣は彼の所属していたマフィアしか存在を知らない。ピストルの先に刃渡り10センチほどの両刃のナイフを取り付けたような超小型銃剣で、彼のためだけに造られた特注品だった。どうしてこれを知る者が少ないかと言えばもちろん、見た者は仲間以外全員残らず死んだからである。
だがしかし、無敵の彼も不死身ではなかった。彼はタバコの吸い過ぎでとうとう若くして肺炎を起こし、そのまま医者に行くこともせず死んでしまったのだった。
生きているうちに何百人もの命を奪ったのだ。当然天国へ行くことはできず、彼は死神からこう告げられた。
「お前をこのまま地獄に落としては、地獄の鬼も殺しかねない。そこで、お前には地獄より辛い罰が必要だ。次に目を開ける時、見える世界に絶望するがいい」
生きている間に罪を重ねた者は動物に転生させられるというが、それは本当だった。彼が今度目を開けると、まず毛むくじゃらになっていることに気がついた。そして周りに広がっていたのは昭和の日本のような薄汚いものの味のある街並みと、永遠に夕焼け空が続く風景だった。
水溜りに自分の姿を写し、彼は死神の言ったとおりに絶望した。炭のように黒い体をした子猫が写っていたのである。しかし親猫のようなものは見た覚えがなく、自分が生まれて間もなく捨てられたのだと分かった。
以来、彼は食べ物を求めてあちこちの店で泥棒をしてまわっていた。いつのまにか大人の猫にはなれたが、ただ体が大きくなったというだけで寿命が来るのを待つばかりであることに変わりはない。死ぬほど退屈な毎日が続いてうんざりしていた。
「にゃー、にゃー。どうしたの? こんなところで。お腹すいてるのかな?」
黒猫が待ちくたびれて寝てしまっていると、透けるような可愛らしい声に起こされた。
首を持ち上げると見慣れない風貌の少女が目の前にしゃがんでいた。まだ幼さが残る顔。なのに白髪で、不思議な雰囲気があった。
(……お、上玉じゃねぇか。けっ、俺が人間だったらいい思いができたろうになぁ)
黒猫はくるりと踵を返す。猫に生まれて初めて見た美少女も、返って胸が痛くなるだけだった。
「ああ、まってよ猫ちゃん〜。私こんな細いとこ入れないよ〜」
「知るか」
実際には猫の鳴き声しか出ないが彼はそう言い捨てたつもりだった。
結局、黒猫は少女を置き去りにして隙間の奥へと去ってしまった。
○○○○
近くに高校などあっただろうか。そんなことを黒猫は別の店から盗んだ魚を口に咥えて運びながら考えていた。
さっきの少女は高校生らしく、制服を着ていた。けれど黒猫には近所に高校があった覚えがなかった。
(しまったな。それはそうと、大人しくあいつについていってりゃ、飼ってもらえてたかもしれねぇ。そうしたら簡単に飯にありつけたのになぁ。けっ、やっちまった)
なんだかんだで黒猫はあの少女を置き去りにしてきたことを後悔していた。
今日も適当な民家の屋上で地平線に消えそうで消えない大きな夕日を眺めながら魚を貪る。
時には店主とケンカになることもあるために体は鍛えられ、逞しい大きな猫になっていた。人間だったときの記憶も鮮明に残っているのだ。その辺の猫よりは強く、体力もある自信があった。
魚を食べ終えると黒猫は暇つぶしにさっきの少女を探してみようかと思った。
もしまた会えれば今度こそ飼ってもらえるかもしれない。そうすれば楽に獲物にありつけるようになる。
だが、彼は少女を探しに行く必要がなくなった。
「ねぇ、いいじゃないか。少しくらい、おじさんと遊ぼうよ。少し、ほんの少しだけだからさぁ」
偶然にも黒猫がいた近くの路地裏へさっきの少女が逃げ込んできたのである。ぶくぶくと太っただらしない体の大男に追いかけられ、とうとう行き止まりに来てしまったらしい。
少女は恐怖で声が出ないとみえる。首を振って嫌がりながら後ずさり、背中に壁が触れた。
「大人しくなったねぇ。助けを呼ばないってことは、いいってことだよねぇ?」
「……いや、離して」
少女は男に手を掴まれると震え上がった。暴れて抵抗するも今度は両肩を掴まれ、壁に押し付けられる。そして男に口で胸のリボンを解かれ……。
「グルルルル」
「……あ?」
黒猫は少女の壁の上に立ち、男を睨みつけていた。
「なんだ猫じゃねぇか。しっし! 人間様は今お取り込み中なんだよ。……うわ!」
黒猫はゲスな男に腹が立ち、勢いよく飛びかかった。
他の猫よりも一回りも二回りも大きく鍛え上げられた肉体。並外れた脚力と体重で男の頭に飛びかかれば、男はひとたまりもなく仰向けに倒れてしまった。
(人間のクセに他愛もねぇ。俺の女に手ぇ出すには百年はえぇんだよ)
男の顔に爪を立て、唇を割き、頬を刻み、両目を潰し……。元殺人兵器の手にかかれば瞬く間に血だらけだ。
「何しやがんだコノ野良猫が!」
「猫ちゃん!」
(……! しまった!)
しかし、所詮は猫だった。
男は隠し持っていたナイフを取り出し、黒猫の脇腹に突き刺した。
黒猫はぐったりと倒れたが男は両目とも潰されたのだ。黒猫が倒れれば男は目をかばいながら逃げていった。
「猫ちゃん! 猫ちゃん! そんな……、猫ちゃん、死なないで——」
視界の外からさっきの少女が駆け寄ってきた。涙声で必死に呼びかけてくるが、ナイフは腹の反対へ貫通しそうなほど深く刺していた。刺しっぱなしになっていればナイフ自体で止血効果が期待できたが、抜かれてしまって血が止まらない。
黒猫はもうろうとしながらもやっと薄目を開け、少女の顔を見上げた。少女は膝に乗せてくれて泣きながらハンカチを胴体に巻いてくれていた。
「ごめんね、私のせいで、こんな目に。きっと助けるから、あきらめちゃダメだよ。さっきの猫ちゃんなんだよね。ごめんね、ごめんね……」
(……俺が、助けたのか、人を。あんなに殺してばっかだったのに、何で、助けたんだ)
黒猫は前世でも今世でも、人を助けたのは初めてだった。むしろ殺してばかりいたのに助けたことが不思議だった。
不思議に思っているうちにも少女はハンカチを巻き終え、胸に抱えてどこかへ走り出した。そんなに泣いて前が見えているのかと心配になるほど泣きながら走って走って、走り続ける。
(なるほど。俺は、変わったのか。そんで、こんな上玉を最期に拝めたのは、その褒美ってわけだ。……でも、もう生まれ変わったところで、お前とは、もう……)
黒猫は少女の制服を血で染め、眠るように目を閉じてしまった。