呪詛返し
早く書類を終わらせてミアの元へ行きたいと焦る気持ちが表に出ていたのか、リリアナが声をかけてきた。
「あとは私の報告書だけなんで、私が出しておきます。フラン先輩は先に戻ってください」
「いや、いい。お前こそさっき立ちくらみしていたじゃないか。隣国からの移動に魔力を使いすぎたんだろう。ここで倒れられても困る。余計な気を回さなくていいから早く終わらせてくれ」
隊長の説教を受けている時から顔色が悪かったが、さきほどこの部屋に移動する前にリリアナはフランに肩を貸してくれと頼んできた。
隣国から脱出の際に亜空間に長距離にわたって道をつけたことで、魔力を消費しすぎたようだった。
ミアを早く安全なところに運びたいからと、行き帰りずっと休憩も取らせなかったフランの責任だ。
胸にすがりつくように掴まれて、さすがに不快ではあったが、無理をさせた負い目もあったので振り払うことはせず部屋まで支えてやった。
負い目に思うくらいなら悪かったと詫びればいいのだが、ミアのさっきの態度が気になって、どうにも突き放した言い方になってしまう。
「ごめんなさい、急ぎます」
逆に謝罪されフランは落ち着かない気分になる。
返事をせず横を向いてリリアナが終わるのを待っていると、胸の中が妙にざわつく感覚を覚えた。
フランの中にあるミアの魔力がざわざわとおかしな動きをしている。竜化するときのように暴れ出すわけでもないが、どうにも不快感を覚える。
ミアに何か起きているのだろうか?
誘拐され監禁されていた間、ミアは継続的に麻薬を投与されていたようだった。その影響が今出ているのかもしれない。
不安を覚えたフランは立ち上がってリリアナに声をかける。
「悪いが少し気になることがあるから席を外す。すぐ戻るが、もし書き終わるまでに俺が戻らなかったら待たなくていいから先に上がれ」
「いえ、ちょうど今終わったので。一緒に報告書を出しに行きます」
ついてくるなとも言えずフランはリリアナと一緒に部屋を出た。
ともかく先に報告書を出して、それからミアの元へ行こうと廊下を早足で進んでいるとフランの胸に激痛が走った。
ざくざくと胸をナイフで刻まれるような痛みが断続的に襲ってくる。
「くっ……なんだ?!何が起きている?」
シャツを開き自分の胸元を見ると、そこに文字が光りながらゆっくりと刻まれていくのが目に入った。
(見覚えのあるこの文字は……呪詛か?!)
かつてあのサミュエル・フェラーがミアに刻もうとした隷属の呪文に似ている。だがこの文字はフランに刻まれているわけではない。これはミアの身に起きている事だ、と理解してカッと頭に血が上る。
痛みを堪えフランは走り出す。早く術師を倒さねば隷属の契約がミアになされてしまう。ミアの気配を感じるドアを見つけると、問答無用で蹴破り中へ飛び込んだ。
部屋の中には胸を押さえながら跪くミアと、彼女の顔を両手で包み込むようにして上を向かせているアッシュの姿があった。その光景が目に入ったとたんフランは怒りで目の前が真っ赤に染まる。
「貴様ァァァ!!!ミアちゃんに何をした!」
フランが攻撃魔法を放とうとすると、アッシュはミアを無理やり立たせ見せつけるように拘束したままフランのほうへ向かせた。
「おっと、ミアさんがいるのにそんな火炎放っていいの?彼女の綺麗な髪が焦げちゃうよ?」
ミアを盾にとられフランは術を止める。ミアの開かれた襟元から既に刻まれた呪詛が見えてフランは歯を食いしばる。呪詛はどこまで完了しているのかと考えると焦りでどうにかなってしまいそうだ。
アッシュはフランの考えを見透かしたかのようにこう言った。
「フラン君には悪いけど契約はもう完了する。手遅れだ。これで終わりだよ」
アッシュはフランに微笑かけると、血の滴る自分の親指をミアの口にぐいっと差し込んだ。
「―――! ミアちゃん!」
昔にサミュエル・フェラーが口にしていたように、隷属の契約は契約者との血で締結する。すでに呪詛は刻まれミアの胸に定着している。手遅れだ、というアッシュの言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。ミアがあの男の隷属になるなど受け入れられない。どうしてこんな事になってしまったのか、やっぱりミアと離れるべきじゃなかったと後悔が怒涛のように押し寄せる。
指を口に差し込まれたミアの喉がコクン、と小さく上下する。
血を嚥下したのだと、契約はなされてしまったとフランが絶望で膝から崩れ落ちたその瞬間、ミアの胸にある呪詛が激しく暴れだした。
刻まれたはずのその文字が身体から浮き上がり、それと反発する磁石のようにミアの体が後ろに弾け飛んだ。
ミアを拘束していたアッシュも衝撃で吹き飛ばされ、フランはミアが激突する直前に壁の間に滑り込みミアを抱きこむ。
自ら緩衝材となり壁にぶつかったフランは素早く体勢を立て直しミアの無事を確認する。衝撃で気を失っているが、胸にあった呪詛はそこから消えていた。
顔を上げると、ミアの胸にあった呪詛の文字が光ながら宙に浮いている。それをアッシュが呆然と見上げていた。
「契約が拒まれた……?何故……?」
アッシュがぽつりと呟くと同時に呪詛がアッシュに向かって飛び掛かっていく。
“成立しなかった呪詛は死の呪いとなって術師にかえる”
呪詛返しが始まる、と理解するより早く、文字は触手を伸ばすように変形しながらアッシュに絡みつく。
「アアッ!クソッ!どうしてかえされたんだ?!呪詛は完璧だったはずだ!―――畜生っ!」
悪態をつきながらアッシュは呪詛を祓う術を必死に展開する。術を唱えるたびに耳や口元についているピアスがパキン!パキン!と音を立てて砕け散っていく。
砕けるたびに呪詛が一文字ずつ浄化されていくのが見える。ピアスには全て魔力と術が込められていて、呪いの憑代となるよう作られた呪具だったようだ。
これだけの数を常に身に着けていたとすると、呪詛を使うことを常に想定して備えていたということだろう。アッシュは最初からミアに隷属の契約をする機会を窺っていたのかと、その光景を見ながらフランは思う。
この男を指名したのは確か父だったな、と思い至り、あの親父の言うことはこれからなにひとつ信用しないとフランは心に誓う。
呪詛の侵攻は早く、祓いきれない呪いが少しずつアッシュの体に染みこんでいく。
「あああああッ!畜生!『解呪』!『解呪』だッ!」
アッシュが必死に叫ぶが、解呪が間に合わなかった部分の呪いがじゅうっという音とともに右の頬に焼き付いた。
「くっそ――――ッ!『饌』ッ!!!右目を贄に!」
そう叫ぶとアッシュは術を己の右目に叩きこむ。術が体全体に展開し、アッシュにまとわりつく呪詛が音を立てて壊れ、そして霧のように散っていった。
呪詛が全て消えたのを確認するとアッシュは崩れ落ちるように座り込んだ。
術を叩きこんだ右目は真っ赤に染まり、血が幾筋も流れ落ちている。あまりの出来事にフランは何もできずただ見ているだけだった。
アッシュにはこの呪詛について自白してもらう必要があるから死んでもらっては困るが、実際フランに出来ることなど何もなかった。
「解呪……できたのか」
フランが独り言のようにつぶやくと、アッシュが顔をこちらに向ける。
「ああ……結局右目を犠牲にしたけどな。くそ、あれだけ備えておいたのにこのザマか」
アッシュの右目は血に染まり瞳の部分は色を失っている。解呪するために右目を贄に使ったのだ。恐らくあちらの目はもう視力を失っている。
フランはミアをソファに横たえると、座り込むアッシュを抑えつけ縄で拘束する。念のため拘束魔法も厳重にかけてから床に転がす。アッシュはその間まったくの無抵抗であった。
「抵抗しないんだな。まだ何か隠し玉をもっているのか」
「は、もう魔力も体力もからっぽだよ。隷属の契約が失敗したんだ。解呪に何もかも使っちまった。もう何の切り札も残っちゃいない」
「やはりお前はサミュエル・フェラーの遺志をついでいたんだな?騙される父さんも父さんだが、よくまあ丸め込んだものだ」
フランがサミュエルの名を口にすると、諦めたような目をしていたアッシュが怒りの表情になった。
「勘違いするなよ。俺はあの男の遺志など知った事か。アイツが使った隷属魔法の術式がどんなものだったか知らないが、どうせ王が使うところを覗き見して見よう見まねで組み上げたまがいものだ。そんな偽物は失敗して当然なんだよ。
俺が使ったのは王家に正しく伝わる式だ。契約は完璧だった。失敗するはずがないんだ……何故失敗した?何故拒まれた?そもそも嘘の術式を教えたのか……?ハハ、その可能性もおおいにあるな。最初から俺が裏切ると思っていたということか……」
「ちょっと待て、王家に正しく伝わる式だと?どうしてお前が王家の秘術を知っているんだ?」
フランの問いかけにアッシュはふっと自虐的に笑うと衝撃の言葉を口にした。
「どうしてって、それは俺が王家の暗部に飼われている『狗』だからだよ。俺に秘術を授けたのは王太子殿下だ」