第九話 お姉さんいい匂いするし、む、胸でけえし……
「イサジさんか?」
モスケの頭を撫でながら抱き上げる姿は普通の父親であった。俺はそんな姿を微笑ましく思い、つい気軽に声をかけてしまった。しかし見知らぬ若僧から突然名を呼ばれたら、誰だって不審に思うに違いない。イサジは自分の背後にモスケを庇うようにして下ろし、俺に訝しげな目を向けてきた。
「誰だ、おめえ?」
「ちょっと訊きたいことがあるんだ」
「警備隊の奴か? だったら話すことなんてねえ、さっさと帰れ!」
「違うよ父ちゃん、この人たちは警備隊じゃないよ」
「何だモスケ、知り合いなのか?」
「うん、さっきね」
モスケは悪ガキ共から俺たちが彼を助けたことを父親に話した。そこでようやくイサジの表情から敵意が消える。
「そうかい、そりゃうちの倅が世話になったな。むさ苦しい所だが、まあ上がってくれ」
言うと彼は長屋の戸を開けて、俺たちを家の中へと招き入れてくれた。小さなタンスと丸いちゃぶ台、その家にある家財道具はどうもそれだけらしい。ただ、そこから見てとれる二人の暮らしぶりとはあまりに似つかわしくないほど大きくて立派な仏壇が一基、奥の方に備えつけられている。よく手入れもされているようで、一つの埃さえ被っているようには見えなかった。
「邪魔をする」
「何でえ、そっちの貴族の兄さんよりアンタの方が偉えのか?」
「金で雇っているのさ。それよりイサジさん、貴方は貴族が嫌いではないのか?」
「俺が嫌いなのは貴族じゃなくて警備隊さ。貴族の中には俺なんかに目をかけてくれるお人もいるからな」
「誰だい、それは?」
「イヌカイって男爵様だよ。あのお方のお陰で俺たち親子は食っていられるってもんさ」
イヌカイと言えば今はオダにインチキ祈禱で怨霊祓いに行っている彼だ。なるほど、ここでも彼の男気を見せられた気がする。しかし今は知らぬフリをした方が得策だろう。
「おいモスケ、この人たちに茶でも出してやんな」
「おう! 分かったぜ、父ちゃん」
「私がやりましょうか?」
言いながらサッちゃんが腰を浮かせる。しかしイサジは手を振ってそれを制した。
「女だからって気を回す必要なんざねえよ。アンタも客なんだから黙って座ってりゃいいんだ」
「そうですか」
「それにな、父親の俺が言うのも何だが、モスケのいれる茶はうめえぞ」
そう言って彼はサッちゃんに笑いかけた。もっともサッちゃんも元はタノクラ男爵家のメイドだったのだから、茶をいれるプロでもある。そう言えば久しぶりに彼女のいれてくれる茶も飲みたいな。城に帰ったら頼んでみよう。
「で、俺に訊きたいことってのは何だい?」
「イサジさん、百叩きにされたそうだな」
俺の言葉でイサジの顔が突然険しいものとなった。敵意むき出しとはまさにこのことだろう。だから俺は急いで用件を続けた。
「だがモスケはあなたを罪人ではないと言った。どちらが本当のことなのか知りたいんだよ」
「子供の言うことを真に受けるってのかい?」
「大人が常に真実を語るとは限らない。同様に子供がいつも戯れ言を言うとも限らない。俺は真実が知りたいのさ」
「何でえ、小難しいこと言いやがる兄さんだな。俺が博打場にいたことは事実だよ」
「だがあなたは博打には手を出していない。そうではないのか?」
そこで再び彼は俺に鋭い視線を向けた。
「何が訊きてえ?」
「言っただろう? 俺は事実が知りたいって」
異様な雰囲気となったところに茶を持って戻ってきたモスケが、不安そうな顔で湯呑みを各人の前に並べる。その茶を一口で飲み干してから、イサジは俺を睨みつけたままでモスケに言った。
「モスケ、酒だ。酒を買ってこい」
「私も行きましょう」
今度は立ち上がるサッちゃんを、イサジが止めることはなかった。さすがに子供一人に酒を買いにやらせるのは気が引けたのかも知れない。
「姉さんすまねえな。そうしてくれるか」
「お安いご用です」
「モスケ、ほら、金だ」
「いや、金は俺が出そう」
懐から金の入った巾着袋を出そうとしたイサジを制し、俺は財布をサッちゃんに手渡した。
「ついでにツマミと、モスケにも果汁か何かを買ってやってくれ」
「分かりました」
「おい、俺は施しは……」
「話してくれるんだろ? ならこれはその礼だ。それに俺も少し小腹が空いたんだよ」
「そ、そうか。倅にまですまねえ」
サッちゃんがモスケを連れて出ていったのを見て、イサジはしばらく考えをまとめるかのように黙りこんでいた。
「モスケさん、お父上のことは好き?」
「ああ、大好きだ。口は悪いけどよ、父ちゃんは曲がったことが大嫌いなんだ。だからおいらも曲がったことは嫌いさ」
「そう。私の大好きな方も曲がったことが大嫌いな人なんですよ」
「へえ、お姉さん、好きな人がいるのかい?」
「ええ。この世で一番大好きなお方です」
「それはあのお兄さんかい? 貴族様じゃない方の」
「あら、どうして分かったのですか?」
「何となくさ。うまくいくといいな。おいら応援してるぜ!」
「うふふ、ありがとうございます」
「でもよ」
「はい?」
「もしあのお兄さんにお姉さんがフラれたら、おいらがお姉さん貰ってやるよ」
「あら、私のような醜女でもいいのですか?」
「だってよ……」
「はい?」
「お姉さんいい匂いするし、む、胸でけえし……」
「まあ! 貰って頂いてもモスケさんには触らせてあげません!」
「そりゃねえよ!」
サトはそう言うと、真っ赤になっているモスケの手を引いて買い物への道を急いだのだった。




