第一話 私なんかお呼びじゃないよね 【前編】
今から十六年ほど前に、俺は前世の記憶を持ったままこの異世界ってやつに転生してしまったらしい。もっとも記憶ったって大したものは残っちゃいない。味の好みとか女の好みとか、戦争は辛かったなとか、そんな程度である。ただ時々何かのきっかけでふっと昔のことを思い出すことはあるんだ。さすがに八十年近く生きていたからな。もちろん苦しんで死んだ記憶はないから、最期は大往生だったはずだ。
「ヒコザ、ゲンロクさんのところに行って豆腐を三丁買ってきてくれるかい?」
「分かったよ母ちゃん」
俺の名前はコムロ・ヒコザ。何か昔の日本人みたいな名前だろ。ちなみに母ちゃんの名前はサヨで父ちゃんはトウベエだ。実は俺が生まれ変わったこの世界は江戸時代みたいな感じで、現代日本からすると二、三百年くらい遡った文明レベルってところかな。人の名前や地名なんかもその頃の日本を彷彿とさせるような響きのものが主流。ま、そうは言っても違うところもあるんだけどね。
「ああ、それとこれを役場に納めてきておくれ」
「今週の分か? 随分とまた多いな」
「いい場所を見つけたらしいよ。お陰で父ちゃんもご機嫌さ。飲んだくれて寝ちまったけどね」
母ちゃんがこれ、と言ったのはオーガライトと呼ばれる光る鉱石のことだ。なぜこの石が光るのか、その原理は未だに解明されていないが、とにかくこの国では豊富に産出されるオーガライトが街でも家庭でも照明の源を司っていた。
その他の用途としてオーガライトは水をかけると熱を発するので、炊事や洗濯、風呂焚きなど、とにかく広く市民生活に浸透している。ただし水に浸して一度熱を発したオーガライトは二度と光ることも熱を発することもなくなる、つまりは消耗品ということだ。
最後には乾燥させて薪のように燃料として燃やせばゴミにもならない。使用済みのオーガライトはよく燃えるのである。街ではこれが照明用の他に風呂用や料理用として、適度な大きさに整えられた商品が比較的安価で売られていた。
「じゃ、行ってくる」
「気をつけて、寄り道してくるんじゃないよ」
俺はオーガライトがぎっしり詰まった麻袋を、サンタクロースのように肩に担いだ。鉱石とは言ってもこの石はその程度の重さしかないということだ。もっともこれだけ詰まってるとさすがに肩に食い込んでくるけどね。
こっちの世界の十六歳としてはかなり大きめの五尺八寸、分かりやすく言うとだいたい百七十六センチくらいある長身で、そこそこ力持ちの俺でもちょっと重く感じるよ。
「お、今日はキミエさんが店番? 豆腐三丁くれるかな?」
キミエさんというのはゲンロクさん、サシマ・ゲンロクさんとこの娘さんで歳は俺より二つ上の十八だ。この子はこっちの世界では美人の部類に入るが、俺からすると見た目はあまり好みではない。しかし性格が気さくなので人として嫌いというわけではないよ。あと胸が大きくて、一度は触らせてもらいたいと思っている相手である。
ちなみにこっちの世界では、人の美醜の捉えられ方が日本と完全に逆転している。分かりやすく言うとこっちで可愛いとか美人とか言われる人は、日本人から見るとブサイクということで、当然ながらそれは男性にも当てはまるのだ。
「あ、ヒコザ君、いらっしゃい。お豆腐三丁ね」
「三丁だといつも通り銅貨三枚でいいかな」
異世界設定のお決まりだと銅貨は日本円で約十円というのが相場だろうが、こっちでは百円くらいの価値になる。銅貨の上の銀貨は約五百円、大銀貨が約千円、小金貨は二万円、金貨が約五万円、大金貨が約十万円といったところか。
ただ物価が日本と違う面もあるので、親子三人が不自由なく暮らすのには小金貨一枚、だいたい二万円もあれば充分だった。何よりオーガライトのお陰で電気代やガス代みたいなものはかからないからね。それだけオーガライトは気軽に買えるということである。
だからそういう意味では一丁百円の豆腐はかなりの贅沢品と言えるだろう。食材としての豆とか卵も実際にちょっと高い。もっとも我がコムロ家はオーガライトが採れる山をいくつか所有しており、お陰で一般家庭と比べて倍くらいの収入があるので、たまにはこういう贅沢も出来るということだ。ただし身分は貴族ではなく平民だよ。
「いつもありがとう。そう言えばヒコザ君は来週のお祭りには行くの?」
「祭り?」
キミエさんは俺が持って来た手桶に豆腐をすくって入れながら、そんなことを聞いてきた。一瞬考えてしまったが、そう言えば来週から三日間、大きな祭りがあるんだった。すぐに思い出した俺は、彼女から豆腐が入った手桶を受け取るのだった。